青年期 十八歳の晩春 二〇
夜に寝るという当たり前の行為。寝床で温々と眠る有り触れた幸福は、野外においては中々難しいものである。
日が沈めば春の終わりであろうと空気は冷えて、遮る物のない外に吹き付ける風は無情に冷たい。地面も無限に熱を拡散させ、何時までも暖かさを返してくれぬため気軽に寝転がることもできず、ただただまんじりともできず月を見上げることすらある。
パチパチと賑やかな焚火を囲んで談笑、などとしゃれ込めると思ってはいけない。
なにせ灯火は、良くない物を惹きつけることもあるのだから。
「旦那、異常ねぇっす」
「ご苦労、交代で休めよ。昼もあるからな」
剣友会は今晩三交代制で厳戒な警戒を敷きつつ、マルスハイムを発って二日目の夜を迎えていた。
というのも、遠目が利くため斥候役を買って出てくれている会員が、昼に孤影の騎馬を見かけているのだ。
遠方、目視可能域のギリギリを攻めるような距離を単騎の騎兵が駆けていくところを見たと報告を受け、私は警戒を厳にせねばならぬと決めた。
この時期は隊商の行き来も多いため巡査吏も多く出ているが、彼等は野盗を狩る、ないしはその目撃情報を生きて持って帰ることが役目であるため単騎で動くことはない。一人だけでは高速で動く騎馬の上であっても、伏撃を完全に防ぐことはできないからだ。
では単騎で走っていることが即ち不審かといえば、苦笑交じりに首を振ろう。
何処かの荘が代官に向けて早馬を出しただけかもしれないし、余所の隊商が使っている騎馬斥候の可能性もある。もしくは季候が良いことを喜んだ趣味人の遠乗りという線もある。
だだ、それが日に三度四度となると、途端に野盗の獲物探しという危険身を帯びてくる。
まったく、マルスハイムから二日しか離れていないというのに世も末だな。辺境伯の威光はどうなってんだ。
嫌な偶然が重なった可能性はあるが、危険性を否定出来ない以上は警戒してもし過ぎにはならぬため、隊商主に掛け合って今晩は厳戒態勢を敷くこととなった。
街道脇の隊商が野営をし易いよう切り開かれた場所は避け、敢えて林の近くに陣取って姿を隠す。その上で煮炊きの火は野営より大きく離れた場所で熾し、夜間は灯火管制を敷いてもらう。未だ肌寒い夜を熱源無しに過ごすのは辛いが、命と比べたら安い物だ。
万一襲撃があった時は、直ぐ離脱できるよう天幕も張らず馬車に分乗して寝るか、地面に布団を敷いて寝て凌ぐ。利に聡い商人達は、天幕などの財産を置いて逃げるより一晩寝づらい方が良いと理解してくれたのか、警戒態勢への合意は直ぐに取れた。
有名であるというのは、こういった交渉に労せずして説得力を持たせられるから有り難い。これがぺーぺーの紅玉であったなら、もっと説明に手間取っていただろう。
むしろ、彼等が元々護衛として雇っていた冒険者から「金の髪は臆病なこって」とぼやかれ、会員と殴り合いになりかけたことの方が大変だったな。
まぁ、過剰と言われても仕方が無かろうよ。正直、私だってどうかと思わんでもないよ、こんな紛争地域を突っ切るか、野盗が跳梁する国境沿いでやるような警戒は。
ただねぇ、この地域が今現在きな臭い状態に陥っていると知っていれば、どんな些細な危険でも潰したいんだよね。
誰にとっても命は一つだ。会員達をちょっとした努力を怠った結果で死なせたくないし、ついでとはいえ護衛を請け負った手前、隊商の人間とて誰も喪う訳にはいかん。
臆病な位に気を遣う位で丁度良いのだ。
筋道が決まっているRPGなら仕方ないけれど、我々には幸いの極みとして自由に行動する権利が与えられているのだ。それならばアラを潰しに潰し、そもそもGMにサイコロ自体を振らせなければいいのだ。
それで無理を押して殴りかかってくるなら、準備万端でお出迎えし、笑顔で「経験点ありがとう」とぶっ殺してやるまでのことよ。
どこから襲撃されても直ぐ駆けつけられるよう、野営の中央で座り込んで待機していると報告のためにマルギットがやってきた。蠅捕蜘蛛種の蜘蛛人が纏う紺に近い夜陰に紛れる黒の装束を纏い、音も無く多脚を動かして歩く姿は奥行きを持った影のようだ。
「ああ、寒い寒い……外套に入れてくださいまし」
そんなことを宣い、勝手知ったる私の膝に座って外套に包まってくる相方。彼女はこの外套が帝都から持ち込んだ、撥水と遮熱の術式を刻んだ物と知っているため、ここで一番暖かいのが何処かをよく分かっているようだった。
「ちょこちょこ獣ではない影が動いていましたわ……隙を探っているような動きだったかと」
「そうか。警戒してて正解だったね」
「ええ。ここ一刻は動きがないので諦めたのかもしれませんわね。それか、夜明け間際の警戒が緩む時を狙うことにしたか……」
狩りましょうか? と何やらおっかない言葉が私の背筋を冷たく撫で上げたが、提案には首を振っておいた。警戒を見て襲撃を取りやめるか保留できるほど練度が高い野盗であれば、結束もかなり固いだろう。
一人殺すと全員殺さねばならぬような事態になったら面倒極まりない。今の時期は特別報酬も出ないので損するばかりだ。
諦めてお帰りいただけるなら上等。なにも刃を以てして脅威を払うばかりが護衛の仕事ではない。むしろ、その武威や予防措置によって襲撃をさせぬ事が上策である。
「明日には到着ですわね」
ごろごろと子猫のように膝の上で温もっているマルギットであるが、体が暖まって口の動きが良くなかったからか、唇を耳に寄せて話し始める。誰にも聞こえぬよう注意しているが、警戒中に雑談するのは如何なものか。
「ねぇ、エーリヒ、あの名主様、覚えていらして?」
「勿論……それが?」
中々に濃いキャラをした御仁だったので忘れようがない。そもそもからしてこの辺では珍しい蝶蛾人であったからだ。
蝶のような、蛾のような得もいえぬ風体の南内海近辺から入植してきた彼等は、総じてヒトの体に腹の付近から伸びる一対の副腕を持ち、背から巨大な蟲の翅を伸ばしている。
外見や顔つきはヒト種に近いが体色は白から茶褐色、黒や紺など多彩であり、皮膚には甲殻めいた分割線や関節の節を持つとおり内骨格と外骨格を併せ持つ人類種だ。額や頭部には複眼もあり、触角を伸ばす彼等は艶やかな色合いの翅も相まって服を纏わずとも美麗に身を飾った踊り子のようである。
それが生理的に振るわれる重みを喪わせる魔法――しかし、高速で飛ぶことはできない――を用いた種族独特の踊りと組み合わされば、この世で最も華麗な舞踏と賞賛されることもあるほどだ。
斯様な種の中で、シロヒトリやカイコガを想起させる純白の羽と毛皮のような飾りを持つ儚げな美女が貴種の目に留まってもなんら不思議ではあるまい。
優美な舞と淡雪の如き美貌に惹かれたとある貴種は瞬く間に彼女を気に入り、旅の一座から引き取って自身の愛妾とした。毎夜彼女の踊りを楽しんだ結果、当然の如く二人の間には子供が産まれたのだが、愛妾、それも移民との庶子が大手を振って貴種の下で養育される訳にも行かない。
だが可愛い愛妾と、その愛妾とよく似た息子に良い生活をさせてやりたかった貴種は、彼に家庭教師をつけて一流の教育を仕込み、成人した後は開拓村を任せることにしたのだ。
それが今回の依頼の雇用主、ウォルブタース・ギーゼブレヒト殿である。
母親譲りの白い翅と豊かな触角、同色の髪も煌びやかな初老の紳士は決してお飾りの名主ではなく一山幾らの代官顔負けの経営手腕を持つ敏腕の名主だ。
親馬鹿極まる初期投資と立地の良さはあれど、僅か一代二五年程で荘を安定させた腕前は流石の一言。未だ発展中故の荒さは残るが、体制を確立させる手腕は単なる親の七光りでは決して出せまい。
その上で決して権力に奢らず、気楽で人当たりの良い人物なのでかなり付き合いやすかった。気前も良く話も上手いのだから、嫌でも記憶に残る。
「あのお方ね、きっと諦めていないと思いましてよ?」
「……というと?」
「貴女のお胤」
思わず何を言ってるんだと叫びそうになった。痛みを覚える寸前の勢いで首を下げてマルギットを見れば、悪戯を成功させた子供のような顔をしているではないか。
されど……目が、淡い月光の下で黄金に輝く目があまり笑っていないような気がした。
「ほら、前回は荘の若い子でしたけど……次女様が適齢期でしたでしょう? それに、あの子も宴の最中に貴方をちらちら見ていたから」
「いや、だけど、私は……」
「ええ、分かっていますわよ」
誰かの思惑で女を抱くなんてまっぴらなんでしょう? とクスクスと音を鳴らさず仕草だけで笑い、マルギットは手を首にかけてきた。常のこととして蜘蛛部分の腹へ手を差し込んで体を持ち上げる手伝いをしてやれば、首筋に顔を埋められた。
ヒト種と比べて冷たい吐息。基礎体温の低さが滲む愛おしい体温。しかし、今やそれは背筋に垂らされる氷水に等しい。
「だけどね、女の子にあんまり恥を掻かせるものでなくってよ?」
「恥って……」
「荘のため、というのはお題目で、純粋に欲されているのであれば答えてやるのも甲斐性でなくって? 男にとって面子は大事でしょうけど、女にとってもそれは変わらなくってよ。こと一心に身を捧げようとしたのに無碍にされたとなれば……ね?」
背筋に泡が立つ声で私は何を言われているのだろう。
よもや、相方から別の女を抱けと言われているのか?
いやいやいや、ちょっと理解に苦しみ過ぎるのだが。え、なに? 実は“そういった”特殊な趣味をもっていたとか? いやまさか。
「そこまで無碍にされた女性が荘でどう扱われるか、少し考えてみたらいかが?」
混乱して処理が滞っているため正常に言葉を飲み込めずにいるが、何となく言わんとすることが分からなくもあった。故郷では惚れた腫れた、フッたフラれたで大騒ぎしているのを遠くから眺めていたから。
もしかして、マルギットは相手のこと、そして無碍にしたことで間接的に下がる私の名前を気にして……。
「じゃあ、見張りに戻りますわ。今夜は寝ないでずっと巡回しているので、朝はお任せするわ」
考え込む私を残してマルギットは立ち上がり、巡回に戻るといった。小さな熱が体から逃げていき、開いた外套の隙間から冷静さと一緒に離れていってしまう。
なんだってこんな夜にそんな厄介な課題を置いていくのだ。
唸って頭を抱えたくなるが必死に抑えていると、ふと忘れ物を思い出したように戻ってくる相方。何かと問おうとすると、彼女は顔を寄せてきてそっと触れるだけの口づけを落とした。
お詫びとでもいいたいのだろうか。
これだけで少し気が楽になるから、男って単純よね。
しかし、彼女はどうやらお詫びを置きに来ただけではなかったらしい。もう少し、僅かに身動ぎするだけで再び接吻できそうな至近で彼女は微笑みながら囁いた。
「どうしても気が咎めるのなら、私を交えて“愉しんで”もよくってよ?」
「は?」
あまりの発言に再び脳が機能を落とした。今度は完全にだ。
彼女が何を言っているのか分からぬまま去って行き、一人取り残される。何拍も遅れて伸ばした手は毛先に触れることすらできず、ただ微かに冷えた春の夜気をかき混ぜるばかり。
いや、ちょっと待ってくれ、私この感情をどう処理したらいいの?
頭の悪いR元服ゲームみたいに、わぁいお許しが出た! とか男の夢じゃんと飛び上がって喜べる訳もなかろう。
本当にちょっと何言ってるかよく分からないんですけど。
呼び止めて真意を探ろうにも夜の闇に紛れて消えていったマルギットを補足する術は私の手にはない。不意打ちに際する僅かな動き、気配の流れ、ほんの僅かの殺気に反応して捕まえているけれど、全力で逃げられれば最早靄を捕まえるのに等しいのだ。
「いやいや、勘弁してくれよ……」
野盗の警戒より困難やもしれない課題を抱え、夜を煩悶としつつ過ごさねばならないのか。正直、野盗は斬り捨てれば終わりだから数段楽な問題と思えるようになってきた。
あれか? 私が悪いのか?
かといって私が粉を掛けられている所を見てもマルギットは愉快そうに――これも中々理解不能だが――眺めて止めてくれないことが多いし、もっと堅物になれと言いたい訳ではないと思う。
じゃあ“夜”に不満が出ているのかと思えば、そうでないと思いたい。大きな声で……いや、流石に今は止めておこう。ともあれ満足はして貰っているはずだ。一人じゃ保たないと冗談交じりに評価してもらえる位には。
これはもう気を張る以前に思考が回りすぎて寝ていられないぞ。
朝一で冗談にしては性質が悪いぞと文句を言ってやりたかったのだが、日が昇りきってもマルギットは私の所に来なかった。いつの間にやら後ろにメモ書きが置いてあったのだ。
おやすみ、と書いてある上、斥候の子細を記したそれに気付いてはっと家の馬車を覗き込めば、マルギットは毛布に包まって眠っているではないか。
一晩寝ずに見回ってくれた彼女を起こすわけにも行かぬので、私は煙管を一服つけて完徹の覚悟を決めた。今から馬車の中で移動中に眠れる気がしなかったのだ。
ああ、やはり段平を振り回して片付くのだから、仕事の方がずっとずっと簡単なのだなぁ…………。
【Tips】蝶蛾人。南内海、及び南方大陸に多い種であり多種多様な模様を持つ蟲系の亜人種。美麗な鱗粉の模様によって種が分けられているが、地方によってはより細かく蝶と蛾とで違う亜人種扱いされているが、帝国では一般的に蛾と蝶は同種として扱われるため亜人種も同一種族に区分される。
 




