青年期 十八歳の晩春 十八
わるいまほうつかいのねぐら、という何千回と聞いた英雄視の文言がミカの脳裏に自然と湧き上がってきた。
奇妙な研修を受けた翌日、ミカは予定通りマルスハイムの魔導院出張所を訪れていた。
都市西部の閑散とした放棄区画一歩手の寂れた街路に佇む、二階建ての横に伸びた地味ながら荘厳な建物。されど外壁の朽ち具合や聳える尖塔によってどの時間でも影が落ちる立地も相まって、重厚な建築は厳かさよりも不気味さが勝っていた。
しかも防犯の為なのか軽い人払いの術式も構築されており、明白に目的意識を持たぬ客人を弾くような念入り度合いが不穏な空気を掻き立てる。
魔導院の出張所は学習の施設というよりも研究のための施設という趣が強く、此処は過激派揃いの魔導院においても異端、落日派の巣窟と知っているからこそ、彼の目にはおどろおどろしく映ったのであろう。
「ようこそ、若き学徒よ。歓迎しよう」
訪ねてきたミカを出迎えたのは、一人の若い教授であった。
いや、若いのではない、老いに抗っているのだとミカは彼の魔導波長より悟った。
見た目はヒト種である。出来が悪い人参のようにくすんだ赤毛と糸のように細い草色の目。目鼻立ちがハッキリしない帝国人らしからぬ薄い顔立ちの中で、笑みとも苦笑とも着かぬ半端に撓んだ唇が嫌に印象深い。
ひょろりと細い上背ばかりが伸びる体躯を包む黒いローブは魔導師の基準なれど、その上に羽織る見慣れぬ白い袖付きの上衣は何の役割があるのであろうか。裾や袖が赤黒く汚れ、何の薬品やも分からぬ極彩の染みが転々と散る様が不気味でならなかった。
「私は落日派ベヒトルスハイム閥の教授、フラウエンロープだ。非才の身ながら、この出張所の責任者を申し使っておる。この場に居る限り、全ての閥の蟠りを私が口にすることはないと宣言しておく。卿もゆめゆめ忘れるな、下らぬ諍いが実験の場では言葉にできぬほど悲惨な死に繋がる」
「お初にお目に掛かり光栄です、フォン・フラウエンロープ。お言葉、心胆に刻み役に努めることを誓います」
家名しか名乗らぬ教授に対してミカは驚きを楚々とした笑みで包みつつ、丁寧に貴種の礼を取った。こともあろうに総責任者が直々に向かえに出てくるとは思っても見なかったのだ。
それも落日派、忌まわしき技術、禁忌の一端“精神魔法”を産み落とした者達にして、肉体再生や賦活技術を練り上げる異端児共。深淵にこそ誉れありを標語として掲げ、魔導院の調整役たる中天派や過剰な技術を毛嫌いする黎明派の敵対派閥に属する教授がだ。
大きく、そして深く練り込まれた膨大な魔力。それが不釣り合いに思える痩せた青年の体に収まっている理由を彼は直ぐに察することが出来た。
何と言っても彼らの到達点は、魔導の研鑽により更に高度な生物へと進化することなのだから。
どうせ悍ましい術式の数々によって肉体を弄くっており、見た目通りの年齢ではなかろう。彼らは禁忌をつま先で蹴って笑い飛ばし、時に平然と利用する魔導師の中でも一等頭の螺旋が緩んだ……手ずから全部引っこ抜いた狂人揃いなのだから。
「さて、では施設を案内しよう……といっても見ても面白い物は大してないがね。その前に、着任のお祝いだ、羽織りたまえ」
斯様な邪悪さをおくびにも出さず、フラウエンロープはミカに布の詰まった袋を押しつけた。中には彼が着ている物と同じ白衣が数着詰め込まれている。
袖口を大きく取り、ローブでも着づらくならぬよう気を払われた意匠の白衣を言われるがままに羽織る。簡素ながら水気を弾き、一定期間ごとに自動で<清払>を発動させる構造は見事であるが、ミカとしては“着用者の魔力を勝手に使う”点は如何な物かと思った。
とはいえ、罪人を集めて魔力炉の燃料供給源にしようとか真顔で言い出す連中の一派である。これくらいならまだまだ大人しい方かとも諦め、ミカは雑談がてら何故こんな物をと問うた。
「この出張所はどちらかと言えば薬学研究を主眼においていてね……薬品が跳ねることも多いし、揮発した薬剤の匂いが染み込むこともある。私のように薬棚と同居しているような男ならば気にならないが、他閥の“繊細”な方々は受け入れがたいようでね」
「はぁ……」
「かといって捨てても惜しくない粗末な服で来るのも我慢ならないと仰るなら、代わりを用意する他なかろう? これは安物だ。君も<清払>の限界点が来たら捨てて新しいのを要求したまえ。何着あっても足りぬのでね、魔導院の予算で纏めて仕入れているので心配は要らん」
魔法薬は文字通り魔力を有しており、現象としてこの世に固着しやすいよう作ってあるためか、衣類にこびりついた場合は<清払>の魔法を以てしても中々落とせない。そのため、衣服を護るため苦心して考え出したのが使い捨てられる上衣であった。
そんな解説を聞きつつ施設を案内されたミカは、外面のおどろおどろしさに反して中は随分と清潔だと感心した。
金属とも木材とも違う撥水素材の床、数時間に一度の頻度で空気が浄化される室内。全ての機材と資材は附票を振った棚や箱へ神経質に収められ、鼠どころか埃の匂いさえない。実験用の動物が犇めく倉庫でさえ獣臭がしない程の徹底には些か呆れすらしたが、落日派の考えることなんてどうせ分からないさと若き魔法使いは考えるのを止めた。
多くの実験室と僅かばかりの講義室や会議室、個々人の執務スペースが中央棟と西翼に詰め込まれ、東翼は治験患者の療養棟や“刑罰治験者”の隔離病室――流石に見せては貰えなかった――と各種倉庫があり、敷地内の裏庭にある別館には仮眠室や談話室などの休憩用施設が設けられていた。
「ここが君の執務室だ。好きに使いたまえよ。必要な物があれば申請書を上げるといい。紙などの消耗品は東棟の倉庫から使うだけ持って行きなさい」
「ありがとうございます。その……とても立派な誂えのお部屋で恐縮です」
一通り見て回った後、ミカは中央棟にて他の研究員と同じく執務用の部屋を与えられた。掃除されているのでカビや埃の臭いなどに悩まされることはないが、それでも長期間使われていなかったことを察せられる部屋は、一聴講生が使うには立派過ぎた。
大きな本棚が二つに材質は安価なれど作りはしっかりした机と椅子。一応は客人も迎えられるよう、二人掛けの長椅子も部屋の片隅に置かれていた。
フラウエンロープは遠慮無く長椅子に腰を降ろすと、懐から小振りなブリキ缶を取り出しつつ人員が少ないのだとぼやいた。
「一服つけてもかまわんかね。それと言っておくと、ここは各自の執務室と娯楽室以外は如何なる形式であっても禁煙だ。他の薬剤に煙草の術式が干渉してはかなわん」
「かしこまりました。では、一服失礼します」
促されたので煙草を取りだして一息付ければ、フラウエンロープはブリキ缶より煙草の粉末を取りだしたと思えば鼻から吸引している。嗅ぎ煙草という煙の出ない煙草だ。煙草葉を鼻の粘膜に貼り付けることで成分を体内に取り込む手法で、煙によって汚したくない物が多い職場に勤める魔導師の愛用品だ。
「さて、資料は大体机の上に用意してあるので、今日中に目を通すように。それと週報の提出が規則に含まれるので、見本として古い物も用意しておいたから参考までに見ておくといい」
鼻を軽く揉んで煙草を馴染ませた後、痩せぎすの教授は床に目線を落としたまま質問はあるかと問うた。
「その……なんというか、規模の割には人が少なくありませんか?」
聞かれたので遠慮無く質問を投げつけてみれば、つまらないことのように彼は応えた。どうせ隠しておいても仕方が無かろうと。
「今現在、出張所に常駐しているのは君を抜いたら七人に過ぎん。三交代で治験病棟の面倒をみておる。すまないが外に出ている者を含めて忙しいので、歓迎会は開けない」
歓迎会云々は、彼なりの冗談であったのだろうか。
それはさておき、七人という少なさにミカはかなりの衝撃を受けた。出張所であれど、本来であれば二桁は何かしらの人員が詰めているものだ。教授は片手の指ほどでも当たり前なれど、地方でなくば研究が難しい題材のために多くの研究員、そしてその弟子達が犇めいているはずである。
仮にも州都、マルスハイムにおける魔導の入り口である点を加味すれば尚少ない。如何に魔導師となる才を持つ者が希有なれど、異常と言えた。
では常駐していない者はと問えば、フラウエンロープはぐるりと首を巡らせて背の方をじぃっと見やって口を噤んだ。
ミカの方向感覚が正しければ、彼の低くもなく高くもない鼻は西を指向していた。
静かに、民には気付かれぬままに沸騰する話題の中心だ。
ここに来て魔導師は自分に与えられた組絵の欠片が揃ってきていることに気付く。
友人の一党が巻き込まれた貴種の密かな護衛。なにやら仕事に巻き込もうとしてくる冒険者同業者組合と、その頭に座るバーデンの落胤。大量に用意される資材に徴発されたのか塒を留守にする魔道士達。
帝都にて師の名代として参加した茶会、或いは側仕えとして随行した連絡会や会議に晩餐会。頻りにやりとりされていた内容が自然と嵌まっていく。
巨大な、それこそ国家が首魁となる謀略が渦巻いていることだけは空気から察していた。時に帝国という国家は寛容な笑顔を晒しながら、自国の発展の為であれば国家はこうも悪辣になれるのかと関心するほどの振る舞いを見せる。
衛星諸国家で蠢動する謀略は、まだまだ“良心的”なものだ。
これが国内となれば帝国が後ろ手に握る左手の短刀は恐ろしく慈悲がない。帝国が大きくなるためであれば、伸びた爪を切る気軽さで不必要な“部分”を斬り捨てる。
この果断さを課題として学び、時に隠されたそれすら口伝で知ったミカは確信する。何と言っても、害と判断すれば自国の皇太子すら謀殺する連中の集まりなのだから、碌でもないことが起こるのだ。
都市機能維持のため最低限にも不足するほどの人員を引き抜き、その穴を聴講生で埋めねばならぬほど乾坤一擲の政策。
今上帝の端正なれど酷薄な美貌が脳裏に過ぎる。
血の雨が降る程度で済めば軽い方かと思いつつ、ミカは灰の一欠片も残らぬよう吸い終えた煙草を燃やし尽くした。
そして考える。今や謀略を回す大きな歯車、その小さな歯の一つとなった己に何ができるのか。前提として、ここに手前がいる時点で師さえも同意して歯車の一部となっているに違いない。
斯様な状況で、いざとなれば歯車の歯を伸ばして友を護れるであろうかと。
三重帝国の冷徹な計算の中で一冒険者など重要な演者を割り当てられはするまい。居れば他の余分な歯車を数枚削減し、予算を削減出来る程度の筈だ。彼らはそれ程、冒険者という根無し草を信頼していない。
ただ、これは中枢の話。仕事を投げられた末端が何を考えているかまでは読み切れない。
「一応、就任に及んで誓紙を一枚書いて貰うことになっていてね」
そして、魔導院に属する者として内のことを軽々に晒してはならぬと言う誓約を課す魔法の縛りもまた重いが故。
軽い愚痴くらいは許されるが、少なくとも具体的に何処で何をしたか明白に語ることは以降許されない。また、名を書かぬと言う無法も同様に。
自身の血で署名するべく短刀で指に傷を入れつつ、造成魔導師志願の魔法使いは本意を笑みで包み隠して、いざとなれば命を賭ける覚悟を決めた…………。
【Tips】刑罰治験。肉系の中でも重い物で、一部の病を“作為的に罹患させ”治療の術を探す実験の献体となることで罪を雪がせる。一度の治験で罪が許され、快癒すれば放免となるが実施者曰く「分の悪い賭け」と揶揄される。
魔法使いが悲壮な決意を固める一方、剣友会の一派は冒険者としてマルスハイムを発っていた。
今回は金の髪を含める四名の基幹要員、及びその配下二〇と余名を率いた大規模な仕事である。不参加の面子は体調に心配がある者や、既に別の予定が入っている者だけという気合いの入れようである。
というのも、きな臭さを感じた金の髪が一旦マルスハイムから離れて様子を見るかと決めたらしく、何度か仕事をくれた覚えの良い雇用主のためとある荘に赴かんとしているのだ。
目的地はマルスハイムより南西に三日ほど歩いた距離にある開拓荘。狼による獣害を解決するべく彼が赴いて以来大層気に入られ、何度か荘の厄介事を片付けるべく名指しの依頼が来る間柄となった。
名主は金払いがよく、どうにか出費を抑えようとケチを付けたがる小物が揃う地方の小金持ちらしからぬ気前の良さで金の髪を気に入っていた。時には外の血を荘に入れるため、未婚の女子を差し出す歓待までしてみせるほど。
その時は一穴主義が硬い金の髪が固辞したため、別の会員が役得を楽しんだが、未だあの名主は諦めていないと剣友会の全員が確信していた。
今回はそんな荘へ、警戒がてら技術指南で訪問することとなっていた。
なんでも近頃、森へ採集へ出た子供や荘付きの猟師が“よろしくない風体”をしたよそ者を頻繁に目撃しているらしい。
野盗の下見ではないか、もしくは近くに狂した魔種が巣くったのではないかと心配する荘民を安んじるべく、名主は金の髪へ名指しの依頼を持ち込んだのだ。
ついでに荘の防備を見直し、素人に毛が生えた程度の自警団を鍛えてくれれば嬉しいとの依頼を金の髪は呑んだ。一同で出向いても満足できるお大尽な依頼料は、名主の父がマルスハイム伯隷下の貴種の落胤であるからだろうが、作為も見当たらぬし“ほとぼり冷まし”に丁度良いと思ったのである。
これといって不安要素がなく、金払いの良い依頼は名声あってのことか。割と急な提案であったが、剣友会一同は金の髪様々だと参加を募る声に手を上げた。むしろ、既に予定が入っている者達でさえ一瞬手を上げようとしていた。
とはいえ先約は先約、命の次に大事な信頼のためにすっぽかすわけにも行かなかったため、不運な者達は取り残され、幸運な彼らは野営に入ろうとしている。
暮れなずむ夕空を見て、春先の優しい風と共に優しい光だと思える者はよかった。
しかし、一部の者は見慣れた筈の空を“血の色だ”と思ってしまった。
血と呼ぶには淡く、そして赤いはずなのに。何故だか首を断たれた者が吹き出す、酸素をたっぷり含んだ赤い血に似ていると感じてしまう。
大した仕事でもあるまい。目的地に行くオマケとして護衛してやっている隊商も襲うような物は持っていないし、ましてや先頭に金の髪が立つ二〇名以上の護衛に喧嘩を売る阿呆は帝国広しといえどそう居るまいに。
どうせ杞憂だと考え、彼らは野営の準備に戻った。
それに、何があろうと斬り倒せば終いだという自負が怯えから彼らの精神を護っていた…………。
【Tips】名指しの依頼。信頼のおける、ないしは何度も依頼して人となりが分かった冒険者にこそ任せたい仕事がある場合、組合に冒険者を指名して依頼を出すことができる。
されど選ぶ権利は向こうにあるため、希望に添えなかった場合は他の冒険者を公募するか、諦めて取り下げるかである。
3巻予約が各サイトにて始まっているので更新です。
そろそろオーバーラップ公式でも口絵が公表されるそうです。
また勝手にやっているサイン本企画の〆切りが1月10日ですので、私のふにゃふにゃのサインが欲しいならTwitterにて検索してください。




