青年期 十八歳の晩春 十五
マルスハイムを彷徨き、健全な観光地と呼べる場所には大体行き尽くした。
そもそも実利によって作られた都市だけあり、完成から時間が経っていようと名所と呼べる場所はそう多くないのだ。
軍事マニアなら市壁を巡って第何次マルスハイム防衛戦において誰それ卿が~と講釈を垂れてやれば喜んだやもしれないが、ミカはその辺に興味が薄い人間なのでやめておいた。英雄好きとミリオタは必ずしも合致する趣味ではないのだ。
英雄詩に出てくるような激戦地なら多少は喜んで貰えたやもしれぬが、“血泥通り”と呼ばれるほどの死闘が繰り広げられた市壁が最も名高い古戦場と呼べるものの……残念ながら今更見に行ったところでさしたる感慨も得られまい。
かつて土豪側の戦略魔法によって破壊された市壁への侵入を防ぐべく、マルスハイムの英雄として詩が残るハイドリヒ・ワルター・フォン・クナップシュタイン卿が命を張り、僅か五m程の隙間を奪い合って双方一万以上の死者を出した歴史的名所も、修復された今では死地の残り香さえ感じられぬ普通の通りだ。
あるのは通りについた物騒な名と、市壁の脇にひっそり佇むマルスハイムを護るために玉砕したクナップシュタイン卿を讃える銅像、そして彼に従って黄泉路を共にした六千の守備兵の慰霊碑くらいである。
後の世に観光案内がでたならば、きっとマルスハイムがっかり観光地の一つに挙げられそうな場所には行かず、子猫の転た寝亭へ帰ってくる。
気疲れからかジークフリートは夕飯も食わず寝床に引き上げ、当然カーヤ嬢も彼についていった。
マルギットは酒精神の長居が未だ冷めやらぬのか、部屋に戻った時点では顔にぬらしたタオルを掛けて仰向けになって寝台に転がっている。やはり琥珀酒を呷ったのが宜しくなかったらしい。
どうにも気持ち悪さが抜けないので、大事を取って一日寝ていると死んだ声で言う幼馴染みを看病していたら直ぐに寝入ってしまったので、食堂で夕飯を取ることにする。
帝国式の軽い夕餉を友とつつき終え、軽い晩酌を交わしていると友が申し訳なさそうに遅くなったと詫びてくるではないか。
何かと聞けば、そろそろと懐に差し出された手が取り出すのは分厚い封筒の束であった。
「すまない。本来なら今日の朝にでも渡そうと思っていたのだけど、中々込み入った話になっていて取り出すに取り出せなくてね」
午後はついつい楽しんでしまったし。そういって後頭部を掻く彼の顔は、酒精以外の原因で紅潮していた。
「なに、構わないさ。一刻を争う報せ、という訳でもないのだろう?」
そうではあるが、と詫びを重ねようとする彼に構わないからと制止し、ゆっくりと封筒に目を通す。
一番上は心底嬉しいことにエリザからの手紙だ。今までもちょくちょく手紙はやりとりしていたが、やはり帝都と西の果ては遠いため頻度は季節に一度くらいとなってしまっているため実に嬉しい。
次もエリザ、次の次も……あれ?
「まぁ、なんだ、そのだね……君の所へ行くので手紙でも書いたらどうだいと薦めたところ、僕らの親愛なる妹はついつい筆を走らせ過ぎてね。封筒一つに収まらなくなったそうだ」
見れば封筒はどれもぱんっぱんに膨れ上がっており、本人以外には剥がせないように術式が刻まれた蝋印が苦しそうに張り詰めているではないか。いつもはお小遣いの都合があって自重していたようだが、輸送費の心配が無くなった途端に枷が外れてしまったと見える。
「僕が預かるんだし、この際丸めておけばいいとも言ったんだけど、折角だから可愛い封筒にすると言って聞かなくてね……」
「おお……そうか。すまない、そしてありがとう」
ううむ、この気が乗ったら何処までもやってしまうところ、それと妙な拘りがあって絶対に譲らないところに凄く血の繋がりを感じてしまう。舞い上がりたくなるくらい嬉しい反面、我が妹ながら大丈夫かと心配になった。
続く手紙はライゼニッツ卿の流麗な筆致で名が記してあり、こちらも中々に分厚い……というより大きい。普通の規格より大きい封筒に何が入っているのか、大体予想が付いた。
そっと脇に置いておき、最後の一通は……なんというか、あまり見たくない名前が書いてあった。
政治的に殴られたら殴り返して貰おう。そんな勝手なことを考えていたアグリッピナ・デュ・スタール男爵令嬢にして、今やアグリッピナ・フォン・ウビオルム伯爵でもあらせられるかつての雇用主からの私信であった。
これも……これも……見なかったことにして横に置いておきたいが、うん、我慢だな。
「じゃあ、僕は寝床に引き上げるよ。中々に濃い一日で少し疲れた……」
微妙極まる表情を浮かべて居るであろう私を笑ってから、ミカは小さなあくびを溢して席を立った。言葉通りに疲れたから寝たいのではなく、私がエリザからの手紙に浸れるよう気を遣ってくれたのであろう。
春先で夜に客が少ない子猫の転た寝亭のカウンターは、彼が去れば私一人になる。今夜は客も来るまいてと早々に戸締まりをしているので――宿の中からは入れるので、早く閉めることも多いのだ――じっくりと読むことができそうだった。
「そうかい。付き合わせて悪かったね。おやすみ我が友。良い夜を」
「なに、お互い様さ。君も良い夜を、我が友」
魔法の光源を残して引き上げていく友人に、見えぬよう深々と頭を下げる。君は何でもないように振る舞うけれど、こうやって気遣ってくれることがどれだけ嬉しいか。
本当に相手を思いやり、何が欲しいか分かっていないとできないことだからな。ここまで想ってくれる友人のなんと得難いことか。
全く以て私は人の縁に恵まれている。
縁に感謝しつつ、愛しの妹から来た手紙を読もうじゃないか。
と、その前に少し雰囲気作りだな。
私はポーチに潜ませている蝋燭を一つ取り出し、誰も居ないことを確認して発火術式で火を灯す。それからミカが残していった光源を消し、淡い光の下に用意したカップへ氷を一つ生み出してから琥珀酒を注いだ。
アテになりそうな夕食は食べてしまったけれど、エリザからの手紙という最高のつまみがあるから十分だな。
準備はこれでよし。曖昧な灯火と明かりの落ちた酒房のカウンター。これほど雰囲気たっぷりな場というのもそう見つかるまい。
一人で満足し、厳かな気持ちでエリザからの手紙を手に取り、蝋印をゆっくりと剥がした。
封筒一杯に詰め込まれた便箋はうっすらと桜色に染まっており、香を焚きしめてあるのか封を切った瞬間から花畑にでも迷い込んだような良い香りが漂った。
とても良い……懐かしい匂いだ。まだケーニヒスシュトゥール荘に居た頃、春先の暖かくなった頃エリザを連れて行った花畑を思い出す。荘の片隅、名も知らぬ色とりどりの花々が毎年咲く場所を彼女はとても気に入っていたからな。お香を作る魔法に凝っているようだったし、思い出の匂いを再現したのか。
うん、家の子はやっぱり天才だ。これは教授昇格の日も近い。
そうなれば、思い出の花畑に一緒に行くことも叶いそうだ。
昔日の思い出を懐かしみつつ開いた便箋には、スペースを目一杯使えるよう小さな字でとても長い手紙が書かれていた。
貴種としての教育を受けているように時候の挨拶は完璧で、流麗な草書には淀みの一つもない。女性的で愛らしく見える筆致は相当練習したようで、字からさえ可愛らしい表情が浮かんでくるかのよう。
段落の一つを慈しみ、情感の籠もる一文を愛で、無垢な一語一語を撫でる心地で目を通す。
日々のとりとめのない、しかし家族とであれば共有したくなるような素晴らしい出来事が踊る手紙は、読んでいるだけで幸せな心地にしてくれる。楽しさが筆致にも滲み出るような文章は、私を心配させまいと無理して書いているのではないと心から分かって安心できた。
そうか、お友達ができたか、お兄ちゃん嬉しいよ。ただエリザ、その髪に悪戯してくる男の子の名は忘れず教えてね? 別に酷いことはしないから。ちょっとお話しなきゃいけないだけだから。
ったく何処のクソガ……ご子息なのか。可愛い子に意地悪でちょっかいかけていいのは一〇歳くらいまでだぞ。名前が分かったらアグリッピナ氏にも対応してもらわねば。
へぇ、猫が可愛いと言っていたらアグリッピナ氏が使い魔の素体になる猫をくれたのか。猫は良い、存在が可愛いからアドの塊……ではなく、使い魔にできれば鳥ほど長距離には使えないがお遣いにも行ってくれるし、簡単に建物に侵入できるから使い手があるし、鋭敏な感覚は侵入者避けに最適である。
なにより彼らは魔法に親しむ存在だ。人を悪夢より守り、汚れを祓う良き隣人。おっとりしたエリザが使役するのであれば、烏よりは似合っているだろう。
ただ、真っ白で兄様みたいな蒼い目が素敵な子と絶賛する仔猫は、調達にお幾ら掛かったのだろう。使い魔にできるだけ錬磨された血統の猫となると、ショーケースに並ぶ血統書付きの猫につく値札が小銭に見えるような額なのでは?
ううむ、アグリッピナ氏の真意が些か見えぬ。猫が好きと言っただけで使い魔を買い与えるようなゲロ甘師匠でもあるまいし、なにか目論んでいるのだろうが……。
どうにも読めないがエリザが幸せそうだからいいか。ただねエリザ、お兄ちゃん、その猫に“エイリーク”って名前つけたのはどうかと思うの。勘違いじゃなかったら“Erich”の異国体じゃない?
蒼い目の白い猫だから私を連想して名付けてもいいんだけど、なんだか少し嫉妬するなぁ。私と似た名前の仔猫がずっと側に居て可愛がられていて、その内に護るようになる……あああ、今の境遇に満足してるのに帝都に行きたくなる私は贅沢な奴だ。
どうにかして分身できないかしら。思う存分お兄ちゃんをやる私と、こっちで冒険者をエンジョイする私……くそ、どれだけこねくり回しても現実的な熟練度消費で実現できるスキルと特性がない。
まぁ、どうせ分身した所で一方が一方を羨みあって、最終的に殺し合いになりそうだからいいんだけども。
同族嫌悪という言葉もあるのだし、本当の手前が目の前に現れたとあったら真面ではいられまいよ。
頭の悪い妄想はさておき、エリザの近況報告は半ば日記のような密度で続いていた。ライゼニッツ卿がお願いしたらエリザが可愛いなと思うような服も用意してくれるようになったこと。性別がコロコロ変わるミカの変容にも少しは慣れたこと。講義はいつも難しいけれど、当てられた時に正当できれば凄く誇らしかったこと。
綴られる日常が綺羅星のように尊いものだ。エリザは心から魔導院で学生として楽しめている。これほど嬉しいことがこの世にあるか?
アグリッピナ氏の下で難易度考えろと言いたくなる仕事や、ちょっとデザイナー出てこいと言いたくなる強キャラと戦ったのが良い思い出にさえ思えてくる。もう一回やれと言われれば勘弁願いたいが、報われた気分になれた。
しかし、心残りは文中に時折、私と一緒に見られたらなとか、私と一緒に食べられたらなという内容がでてくること。
身勝手に冒険に出た私が言えた立場ではないけれど、彼女の側に居てやりたくなる。
それでも、それでもだ。私は冒険を選んだ。冒険者になるべく力を付けて、誓いを守り続けている。なればこそ、私は私に恥じることなくケーニヒスシュトゥールのエーリヒを名乗れているのだ。
もしもを考えることはするが、決して惜しみはするまい。私を見送ってくれたエリザのためにも。
さぁ、彼女がここまで沢山手紙を書いてくれたのだし、私も何時もより長い返事を書くことにしよう。ついこの間出した、きっとまだ届いていない手紙はあるけれど、彼女が教えてくれたようなささやかな幸せが沢山あるからな。内容が尽きはするまい。
ん? 追伸、ライゼニッツ卿もお手紙を送るそうなので、お願いして肖像画を送って貰います。恥ずかしいけれど、背が伸びたので見て欲しい……?
その文章を追い終えた瞬間、ここ数年で一番だと明言できる速度で手が動いた。
封筒を掴み上げ、蝋印をひっぺがし中身を取り出す。
キャンバスの表にある手紙を邪魔なので退かせば、そこには絶世の美少女が佇んでいた。
葉書サイズのキャンバスに描かれた油彩の肖像画は、エリザの成長を見せるため故郷に持ち帰ったものと同じ形式。
しかし、写実的なタッチで描き出された少女は土産のそれより確実に成長しており、呼吸を忘れるほどに美しい淑女となっていた。
椅子に清楚に座る姿は一本の百合の花が少女になったような麗しさ。背は伸び、子供らしく短かった手足が発達して均整の取れた体型へ変貌を遂げている。以前より長くて綺麗だった髪は腰元まで伸びて神々しさを増し、宝石飾りがついた黒いリボンが編み込まれている姿は神々でさえ恥じ入るであろう。
丸くて子供らしかった顔つきも大人びて、薄い微笑みが淑女として育ったことを教えてくれる。いつ見ても胸がじんわり温かくなる笑顔は変わっていないけれど、幼い少女から乙女になろうとしていた。
「ああ……」
思わず声が出た。兄から貰ったスキットルより琥珀酒を継ぎ足して呷れば、酒精神の福音かと思うほどに芳醇な味わいが喉を抜けていく。つまみが良いと酒の旨さは何倍にも増すが、これは正しく神でさえ中々味わえぬ銘酒といえよう。
本当に、やっぱり、家の妹は世界一可愛い。
とても気分がよかったので、手紙を肖像画を抱いて中庭に出る。
これだけ良い日なのだから、きっと月も綺麗だろうと思ったのだ。
やはり月は綺麗だった。更けつつある丸い月が優しい光を投げかけ、雲一つ無い夜空で星々の従僕を引き連れて黒い天鵞絨の演台にて舞っている。
こんなに素敵な日なのだ、月が綺麗であるに決まっていると思っていたが想像通りだった。
「ごきげんね?」
後ろから届く声、毎度の如く察知できない薄すぎる気配。ゆっくりと振り返れば、隠の月も欠け始めているだろうに少女の姿をした夜闇の妖精の姿があった。
「まぁね。ほら、エリザから手紙が来たんだ」
「あらあら、嬉しそうと思ったら、やっぱり妹君関係でしたのね」
ころころと鈴が転が音を想起させる笑いがウルスラの唇からこぼれ落ちる。エリザが可愛く成長したのに対し、純粋な妖精である彼女は変わらない。
むしろ変わらなすぎた。
私が成長するにつれて、他の妖精達は昔ほど積極的に関わっては来なくなった。声をかければ親しげに対応してくれるし、金の髪と蒼い目に反応こそすれ、大人になってしまった私への興味が薄れてきたようだ。
本来彼らが愛するのは、無垢な子供であるから。
それでもウルスラとロロットだけは変わらず接してくれる。呼べば隠の月が隠れきっていなければ手助けしてくれるし、こうやって一人の時は話題も振ってくる。
思えば彼女たちもまた、恐ろしいが得難い友人の一人と言えよう。
「ねぇ、愛しの君、そんなに幸せそうなら、少し幸せをお裾分けしてくださってもいいんじゃなくって?」
肖像画を見せて可愛いだろう? 家の妹世界一だろう? と自慢していると不意にそんなことを言い出した。
お裾分けって? と問えば、艶然と微笑んで手が差し出される。月の下で光沢ある褐色の肌が艶めかしく誘いかけ来る。
なるほど。まぁ、たまにはいいか。
それにこんなに幸せな夜で月も綺麗なのだ。ただ眺めているだけは勿体ないか。
「では、一曲踊っていただけますか?」
「ええ、勿論。なんなら永遠にでもよくってよ」
「それは遠慮しておこうかな」
大事に大事に肖像画を懐にしまい、私はウルスラの手を取った。
音楽も無いが優しく落ちてくる月の光だけで十分過ぎる。手を取り合ってゆっくりと演舞の足運びで穏やかな夜を楽しんだ。
心地好い倦怠感が身を包むまで躍った私は攫われることもなく部屋へ引き返し、文机のよく見える場所に肖像画を飾って幸せな眠りに落ちた。
そして、翌日女将さんから「ほったらかしてるけど要らないの?」とアグリッピナ氏の手紙や、開けっぱなしにしていたライゼニッツ卿からの手紙をひらひらとされて「やべぇ、やらかした!」と大慌てするのだった。
どれだけ幸福な気分であろうと自制は必要。いい教訓になりました…………。
【Tips】妖精は無垢な少年・少女をこそ愛する。
好きラノ に沢山投票してくださって嬉しいのでゲリラ投稿です。
話をさっさと進めたい私と、日常話をやりたい私が殴り合った結果前者が撲殺されたたため、まだちょっとだけまったりした話が続きます。




