青年期 十八歳の晩春 九
過ぎたるは及ばざるが如し、という言葉を我が身を以て実感することには慣れてきた。
とはいえ、調子に乗った結果が一つの組織の頭目となると感慨深いものがある。
<光輝の器>あれは本当に良く利いた。知らぬ間に私を題材にした吟遊詩が作られ、各地に伝播するにつれて熟練度が貯まり始めたのだから。
そういった俗な形の有名でもよいのか、と驚きこの期を逃してはならぬとはしゃぎすぎた自覚がある。
されど、全ては貯まった熟練度と、かなり強くなったんじゃない? と悦に入ることができる自分のキャラ紙を見ていれば些細な問題である。ぼちぼち中堅所を名乗っても怒られないのではなかろうか。某システム的にいえば、そろそろメイスよりも剣を持った方が戦力になれるくらいにはなったと思う。
しかし変化したのはキャラ紙だけではない。人間関係を含め、私を取り巻く様々な物が目まぐるしく変化してしまった現状にも言えることだ。
毎度と同じ時間に目を覚まし、胸元に小さな熱があることに安堵する。朝の弱い光に目を開けば、胸元でマルギットが穏やかに眠っていた。
呼吸のリズムは一定に、胸は浅く上下し眠りが深く穏やかであることが分かる。
望外の慶事があった昨日、何かと競うように呑んで早々に潰れた我が幼馴染みと“そういう関係”になった日のことを不意に思い出してしまった。
あの時も彼女は強くもないのに酒を飲み、顔を真っ赤にしていたのを部屋に運んだっけか。私が十七になった時のことで、彼女は十九、冒険に引っ張り出したこともあってそろそろ“責任”どうこうを真面目に考え始めた頃だな。
結婚適齢期を過ぎるまで連れ回し、私の趣味で貧しい生活にまで付き合わせてしまった。そこまで根気よく、こんな私の相手をしてくれたマルギットに心地よいからといってぬるま湯のような関係をずるずる続けるほど無責任にはなれない。
いや、そもそも、責任を取るつもりもなく、人生を左右する旅に誘うほど駄目な野郎ではないつもりだ。相手の人生を変えさせて、へらへら笑っているような真似がどうしてできようか。
だからその晩、真面目な話をしようとした私であったが……まぁ、色々あった。具体的に言えば、服の裾をチラチラさせて挑発されたこともあり、今まで抑えていた若い肉体の欲求が爆ぜてしまった。そう、ボンバーしちまったのである。
前々から分かっていたことだが、魂は最早五〇歳を超えていたとしても肉体からの影響を強く受けてしまう。三十路を疾うに過ぎていたエーリヒとしての幼少期、ムキになるほど狐とガチョウの遊びに没頭できたように、青少年の肉体は老成していなければならない精神さえ凌駕するものだ。
否、なればこそ私が未だに若い冒険欲求を抱えていられるのかもしれないな。実際前世でも若い格好をしている人は、同年代だとしてもかなり活動的であったことだし。
尤もらしく理屈をこねくり回したが、結果的なことだけ言えば私はマルギットと深い仲になっている。最初の日は久しぶりすぎたこともあり――後、蜘蛛人とヒト種の構造的な違いもあって――加減が分からず泣かせてしまって大変申し訳ないことをしたな。
うん、思い返せば酷い話だ。しかし、相手から誘われても責任を取るのは男っていうのは、古来からなんだか酷い話のような気もしてならない。
ともあれ、“致して”しまった後の臥所でマルギットは私の腹に寝そべりながら、息も絶え絶えに掠れる声で囁いてきた。
難しいことは考えず、やりたいようになさって下さいな。私はいつだって貴方の背中についていますから、と。
この世界に送り込まれる時に聞いたものと同じ福音を幼馴染みから与えられ、言葉にできぬ複雑な喜びが湧き上がってきた。身勝手な私に彼女は付き合ってくれるというのだ、私が満足するまで。
これほど男冥利に尽きる告白があるかね?
だから私は今、彼女を“相方”と呼び冒険者を続けている。内心でそれに甘えることを硬く禁じながらも、優しい幼馴染みの善意に縋り付いて。
……なんでだろう、微妙に情けない気分になってきたな。仮にその言葉に「私もしたいようにさせていただきますので」と続けられていたとしても。
「んぅ……お目覚め……?」
浸っているとマルギットが目を覚ましたが、未だ酒精神が居座っているのか寝起きは芳しくないらしい。私は頭を撫でてやり、もう少し寝ているといいと言った。
「んー……なら、もう少しゆっくりいたしませんこと……?」
甘く上擦った声、手が夜着にしている着古した上衣の首元を掴んで寝床に貼り付けようとしてくる。ただ、これに乗ってはいけない、いくらお休みの予定とはいえ甘ったるいお誘いに応えたが最後、夜まで寝床でゴロゴロする羽目になりかねない。
退廃的に寝床でいちゃいちゃし続ける時間も悪くは無いのだが、如何せん今日はそうも言っていられない。
我が友に街を案内してやりたいのと……昨日バタバタしたせいで、ジークフリートが仕事で遭った“酷い目”とやらを聞けていない。
彼は照れ隠しなのか頑なにカーヤとしか組んでいないと主張しているものの、対外的には私の一党として見られている。ならば、割に合わない厄介事を押しつけられたのであれば、不足分は取り戻してやらねばなるまいよ。
何人も支払った以上に受け取ってはならないと相場が決まっている。これで調子づかれては、私にも彼にも困ったことになりかねないからな。
だから魅力的なお誘いを振り切って起き上がれば、マルギットも眠そうな目をこすり、重い頭に鞭を打って寝床から這い出そうとする。無理はしなくてもいいと言ったのに着いてきてくれる彼女の面倒見の良さには頭が上がらないね。
せめてこれくらいはと考え、着替えと身繕いを手伝い連れだって食堂へ降りた。
かれこれ三年も根城として使わせて貰っている“子猫の転た寝亭”の食堂へ。
「おはよう、いいお目覚め……って感じではなさそうね」
まだ利用客も降りてこないような早朝の食堂では、今日も黒く艶やかな毛並みも麗しい女将さんが掃除をしていた。首元で眠そうにぶら下がっているマルギットを見て、仕方がないわねとでも言いたげに苦笑していらっしゃる。
「おはようございます、女将さん。台所借りても良いですか?」
「どうぞー、いつも通り使ったら戻しておいてちょうだいね」
ほどほどにね、と邪推極まる笑い声に送り出されて厨房に向かい、誰も見ていないのだからと無精して術式を練り上げる。<見えざる手>の多重展開も慣れた物、積み上げられた薪を竈に放り込み――因みに一束三アス――発火術式で火を熾す。魔術の炎は小さな火種にも拘わらず薪を勢いよく燃やしていき、あっという間に煮炊きの準備が整った。
「なにを作って下さるの……?」
「牛乳の汁物でもどうかな?」
「ああ……酒精神の長居にはよいですわね……」
とりあえず作業の邪魔になるのでマルギットには背中側に移ってもらい、厨房の食料棚から玉葱を手に取る。水を湛えた瓶には近隣の農場から毎朝仕入れられている牛乳の金属缶も冷やしてあるので、手鍋一杯分を貰った。後で自己申告してお金さえ払えば、食材を使わせて貰えるのが有り難い。
薄く切った玉葱を牛酪で炒めて甘みを出し、肉の旨みを出すために干し肉を一欠片と臭みを消す香草を加えて牛乳で煮込む汁物は宿酔いに結構利くのだ。本来ならコンソメスープの素や黒こしょうなんぞも放り込みたい所ではあるものの、前者は遠い時の彼方にしかなく、後者はひとつまみで銀貨が飛んでいく高級品であるため望むべくもない。
とはいえ、適当な素材でも何度も工夫して作れば結構食える味にはなる。軽く一煮立ちさせれば完成だ。底の深い皿に移して盛ってやれば、マルギットは礼を言ってちびちびと飲み始めた。
「パンは?」
「遠慮しておきますわ……」
これは結構キてるようだな。何時もなら体の状態を整えるためにパンや肉も摂るのだが、それさえできないとは。まぁ、私が呑んでいる琥珀酒をろくに薄めもせず蜘蛛人が呷れば、こうもなってしまうか。
ふらふらする彼女の口元へ匙を運んでやっていると、階段を降りてくる気配が二つ。足音の間隔から推察できる歩幅と体重、そしてテンポは聞き慣れたもの。
「おはよう、ジークフリート、カーヤ嬢」
「……入る前に声かけんなよ、気色悪い」
「おはようございます、エーリヒ」
色濃い疲労を残したジークフリートと、多少はマシに見えるがやはり疲れていそうなカーヤ嬢も起きてきたようだ。体に染みついた起床の時間というものは疲れていても中々抜けず、そして貧乏性の冒険者は寝穢く寝台と抱擁を交わすのが苦手なものだ。二人も朝寝を堪能することなく、やむなく活動を開始したらしい。
折角だからと私は二人にも汁物を振るまい、ついでに昨日聞けなかった仕事のことを聞くことにした。
「あぁ……?」
心底不愉快そうに匙で汁物をかき混ぜながら、ジークは傷口を引きつらせつつ口を開く。
「ありゃあ本当にクソ仕事だったぞテメェ……」
さて、ジークフリートに回した仕事は簡単な護衛だった。幾台かの馬車を護衛し、マルスハイムほどではないが近くの大きな街へ行くだけ。言葉にすれば何のこともない普段の仕事だ。
馬車にはこの地で生産された工業製品が乗せられており、行き先の街で拡張工事に使われると依頼の概要にはあった。
本当に単純な仕事だ。旅程は片道五日ほどで、帰りは交易品を乗せず空荷で帰ってくれば良い公共性の仕事である。依頼も割としっかりした仲介者を通した行政府からのもので信頼性も高かった。
斯様な見るからに簡単な仕事が私の所にやってきたこと、実はそれ自体は不自然でもない。仮にも行政府の荷を乗せた馬車なのだから、万が一があればマルス=バーデン家の威光に傷が付く。万全を期すため、名を聞くだけで野盗が怯むような冒険者や傭兵を護衛につけて戦力をかさ増ししたかったのだろう。
私と共に幾つもの修羅場を超えてきた彼と、魔法薬を投擲して戦う変則型なれど嵌まれば強力な魔女医である彼女、そして中々に“使う”会員を五名引き攣れて行ったのだから、賑やかしの面々や護衛責任者の騎士もいると考えれば手こずり用がない仕事。
しかし、それをして彼が“酷い目に遭った”というのであれば、相応のイレギュラーがあったに違いない。
「野盗に襲われた……単なる野盗じゃねぇ、あの練度は間違いなく所属隠しの私兵だ」
「ほぉ……?」
思わず眉尻が上がってしまった。穏やかな話ではないな。かなりの経験を積み、目も肥えてきた彼が言うなら間違いはあるまい。私も何度か襲われているが、所属を隠して私兵に略奪をさせ私腹を肥やす代官は辺境には存外多いものなのだ。面従腹背の土豪が悪さをした……訳ではあるまいな。
狙うにしてもモノがモノ、売り払った所で大した価値もなく、危険を冒す価値があるとは思えない。馬車に乗せられた工業製品は蝶番や金枠などの建築資材であり、重要なれども急ぎ働きにまで手を染めて手に入れる価値はない。
なら、襲うに値するナニカが車列には潜んでいた筈。
「で、誰が乗ってた」
「……なぁ、エーリヒ、お前本当に知らねぇんだよな?」
「当たり前だろうジークフリート、私が態々知っていて君を危地に送り込むような男に見えるのかい?」
「見える」
……なんだ、その、ノータイムで答えられると流石の私でも凹むんだが。
そんな酷いことした覚えは無いぞ戦友。あとカーヤ嬢、口を隠してそっぽを向いたのは優しさかい? どう見ても笑いを堪えているようにしか思えないから意味が無いぞ。
「……ともかく、私は無関係だよ、神々に誓ってね。なんなら我が剣の誉れにかけてもいい」
「チッ……まぁいい、乗ってたのは貴種の娘だよ。貴種つっても、木っ端みてぇな家名も聞いたこっちゃねぇ土豪崩れの貴族だがな」
貴族と聞いて思わず手に力がこもり木製の匙が悲鳴を上げた。おっと、いかんいかん、壊したら女将さんに叱られる。これくらい幾らでも作って弁償するけれど、余計な仕事を増やすのは賢くないからな。自重自重。
「で、乗ってた理由は?」
「べらべらしゃべり出す前に黙らせた」
「完璧な仕事だ、ジークフリート」
親指を立てて賞賛すれば、はいはいとでも言いたげに掌をひらひらさせる我が戦友。私と仕事をする中で貴種相手の付き合いを覚えてくれたようで何よりだ。
私達根無し草の冒険者は、その絶大な権力に叩き潰されぬよう貴種なんぞと関わり合いになるべきではないからな。どうでもいい罪をなすりつけられ、功績を取り上げられて闇に葬られた人間が歴史の中にどれほど沈んでいるのやら。
穏当に黙らせて、深い事情を聞かずに済んだなら何よりだ。
「お嬢様にお静かになって頂いたのは、カーヤ嬢の手際かな?」
「ええ……新しく作った眠り薬を試してみたんです」
おっとりと微笑む若草色のローブを纏った乙女は、その愛らしさに反して中々えげつないことを宣った。
ジークフリートが立派になるのに合わせて、彼女も見事な成長を遂げている。背はすらりと高く、幼馴染みが並んだ時にぐぬぬ呻いてしまう位には伸びている。そして、野暮ったい魔法使いのローブでさえ隠せぬ豊かな肢体は、魔法使いという価値を抜いても世の男性達が放っておかぬ艶めかしさ。
元々穏やかで優しそうな顔は成長するに伴って女性の優美さで艶っぽい丸みを帯び、しかし家を出て幼馴染みの冒険を手助けしようとする芯の強さが滲む得もいえぬ愛らしさ。ただ華を撒き優しいだけの女性には放てない、確固として強い女性がそこにいる。
まぁ、だからこそジークフリートを焚き付けて“意図的に襲わせ”責任を取らせるにいたったのだろうけど。いやはや、世の女性とは全く恐ろしいものである。
彼女が成長したのは見た目だけではない。調薬の技術も年々背筋が冷えるほど高まっており、今では実戦という誰憚ることなく実験に耽れる場のおかげで凄まじい躍進を遂げている。
傷口が荒れておらず、時間が経っていてはならないという制限はあれど千切れた指を接げる魔法薬なんて、魔導師でさえ早々調合できないものだ。更に戦闘にも役立つ魔法薬を次々作って行く様は、咄嗟に術式を練るのが苦手で魔法薬作成以外での魔法行使が苦手という欠点など完全に潰すほどである。
今回もまた良い支援を見せてくれた。たとえ木っ端であろうと貴種のご令嬢、それも何らかの理由があって密かに護送されるような人物に猿ぐつわを噛ませる訳にもいかないからな。眠らせておくだけなら、後から言い訳も――錯乱していたとか――立つしベストといえる。
「で、被害は?」
「ウチん会員にはナシ。だが賑やかしの紅玉が三人ほど初撃で逝った。けが人も十人前後……指揮取ってた騎士も矢傷を負ったけども」
「全員なんとか治療できたので、今は安定しています。うちの子達は、みんなかすり傷でしたし」
「大変結構、彼らは後で褒めてやらないと」
しかし、厄介なことになったな。これは終わりよければ全て良し、と軽く流す訳には行くまいて。私達の面子にも関わるし、クソ仕事に巻き込まれた紅玉の冒険者が哀れに過ぎる。
ジークフリートは酷い目に遭ったとしか言わないが、面倒見がよく、ここぞという所でクソ度胸を見せる彼のことだ。どうせ半人前達を庇ってかなり無茶な戦いをしてきたのだろう。
なら、私がここで一枚脱がなければ剣友会の格好がつかん。
「ジークフリート、午後の予定は?」
「……空いてるよ」
当然、仕事が終わったばかりの彼が予定を入れているとは思えない。それでも聞いておくのが礼儀というもの。
なら予定は決まったようなものだな。
「どこに行きますの?」
自分の汁物を飲み干して立ち上がれば、マルギットが気怠げに問うてきたので軽く答える。
文を書くため、ちょっと部屋に紙とペンを取りにと…………。
【Tips】依頼仲介業。貴種や行政が直接下賎の場に赴いて依頼を投げる訳にもいかず、家格によっては下働きを送ることすら憚られるため、代わりに組合へ依頼を行う仲介業者がいる。
仲介業とは名ばかりで委任された“代理人”ではなく、報酬を含めた依頼料を顧客から受け取って自身の名で依頼を行うので、制度上の直接依頼主も業者になる。責任逃れにもなるため重用されるが、組合からすると長年の悩みの種である。




