青年期 十八歳の晩春 八
嬉しそうに金の髪が自らの傍らに立つ蜘蛛人の乙女を紹介した。
我が幼馴染みにして最も信頼する“相方”であると。
「あらためて、お初にお目にかかりますわ魔法使い殿。私、ケーニヒスシュトゥールのマルギットと申しますの。近頃では“音なし”とか“背負子”に“守り刀”とも呼ばれていますわね。以後、よろしくお願いいたします」
艶然と微笑みスカートの端をつまみ上げて淑女の礼をする狩人。サーガにおいては金の髪の相棒として名高く、時に恋歌なども紡がれる永遠に愛らしき狩猟者。牙を見せつけるような眩しい笑みと、まるで彼の影に溶け込むよう背後を護る姿は金の髪の相方としてこれ以上はないと讃えられる。
事実、彼女は何度となく名声目当ての闇討ちを防いできた。無防備に一人で歩いていると思って金の髪の背後から斬りかかった慮外者が、その影から飛んでくる短弓の矢によって指を飛ばされて名誉の全てを奪い取られる。
樹上や屋根からの狙撃も同様だ。冴え渡る剣の腕に恐れをなし、ただ討ち果たしたという事実だけを欲して卑劣に手を染めれど、その全ては耳元で「悪い子ね」と甘やかに囁かれて潰された。悪童の手は短刀によって容赦なく打ち据えられ、弓手の命である親指と人差し指を代価として悪事を窘められるのだ。
あらゆる正当ならざる悪意から金の髪を護ってきた彼女には相応しい二つ名の数々であろう。そして、それだけ有名なれど狩人の人となりや外見をつぶさに観察した者は少ないというのだから、隠行の腕前は本物といえよう。
なにせ街には有名な冒険者から直に話を聞き、名を挙げようと手ぐすねを引いている吟遊詩人志望は幾らでもいるのだから。
斯様な怪物に弄ばれていたことを遅れて認識した魔法使いは、紫煙を一つ吐いて意識を切り替えた。魔導院にて催されるサロンに招かれた時のように。
本当に恐ろしいのは目に見える術式ではない。言葉は短刀にして毒薬、見えぬ害意をくぐり抜ける時のように心を武装する。
薄く甘い笑顔、そして本意を滲ませぬ歌うような声で。
「うん、ご丁寧にありがとう。僕はミカだ、気楽に接して欲しい……君のこともエーリヒからよく聞いているからね」
「あら、そうですの? 私も色々伺っておりましてよ。もう、この人ったら魔法使いの話になったら、必ず貴方の名前を出すんですもの」
「そうなのかい? それは少し恥ずかしいな。でも、旅に出れば彼は君のこともずっと話していたものだよ。彼女が隣に居てくれれば心強いのにとね」
「あらあら」
「ふふふ」
端から見ていれば初対面同士の穏やかな挨拶に過ぎまい。酒場の大勢も同じ気持ちで見ていた。
ただ、一部の聡い、ないしは狩人の本質を知る者であれば話は別である。
背筋に嫌な悪寒を感じたジークフリートは、酒を吹き出さないようにするので精一杯であった。なんといっても、あのいつもの笑顔……口角を上げて牙を晒しており、眉根は下がっているのに目の光が欠片も笑っていない狩人の笑顔は、正しく獲物を見る時に晒すものだから。
ジークフリートは知っていた、不本意ながら一番金の髪の隣に立っていたから。偵察に出て行く時も、伏撃を察知して利用してやろうと提案している時も、そして金の髪に群がってくる他の女を見ている時も同じ顔をしていることを。
帰りたくて仕方が無かった。今頃寝床で穏やかに寝息を立てているだろう幼馴染みが羨ましくて仕方がない。タダ酒がなんだ、こんな空気を吸わされるのであれば、あって無きに等しい利点であろうと油混じりの汗が額から伝った。
だのに金の髪は気付く気配もない。この男、敵意や悪意には異様に聡いのに、こういった当てこすりにはとんと鈍いのである。こと信頼し、信用している相手同士となると途端に木偶の坊になるのが性質が悪かった。
魔法使いは薦められるままに席に着き、金の髪も同じく座り直す。
「ええと、エーリヒ、彼女は……」
「ん? どうかしたかい、ミカ」
そして、さも当然のように金の髪の首に縋り付いたままの狩人。咥えた煙草が一瞬傾きかけるのを必死に留めながら、魔法使いはその仕儀について何事かと問う。されど、金の髪にとっては常のことであるため全く気にした様子はなかった。
彼にとって首元にマルギットがぶら下がっているのは、腰に愛剣を帯びるのと同じくらい普通のことである。それを指摘されても何を今更としか思えないのである。
首から手を話した狩人は金の髪をクッションにし、丁度良い高さになったテーブルに肘を乗せて両の手で頬杖をつく。杯のように広げた手に顎を乗せて笑う姿は、屈託のない童女そのものに見える。
それが、関係性と親しさを見せつける恣意行為でなければであるが。
この期に及んで語るべくもないが、金の髪と狩人の関係性は深い領域に至っている。それはもう、十八にもなろう男女が同じ臥所で一つの生き物のように寝起きしているのだ。むしろ“男女の関係”に至っていなければ不自然とも言えよう。
男の膝の上に女が乗るというのは、帝国の貞操観においてはそれほど直截に性を匂わせるものである。酒場娘でもなければ、ああも衆目を前にして堂々と男の膝に跨がりはするまい。
しかし、偏に深い信頼と彼女の愛らしさが嫌らしさを完全に拭い去っているが故、この光景は破廉恥でもなんでもない“普通のこと”と思われている。ある意味において、蠅捕蜘蛛種の蜘蛛人が持つ特性の面目躍如といったところか。
然れども、故にまだつけ込む隙があると見て、英雄の寵愛を縁と女給などが目ざとく周りを遊弋しているのでもあるが。なにも彼女たちが狙っているのはチップばかりではない。一夜の甘い夢をあわよくば、などとも思っているのであった。
そんな甘い夢を粉砕するスパイダーなウーマンであるが、余裕たっぷりに机の上に並べられたもので腹ごしらえを始める。金の髪も弁えたもので、女給に蜂蜜と水でたっぷり割った葡萄酒を持ってくるように頼んでいる。種族柄、大人になろうと嘘偽り無く酒精に弱い幼馴染みのために。
甘い筈の酒が苦く感じるジークフリートと、やっぱり詩の通り仲がいいんだなぁとミカより前に紹介してもらったヨルゴスの落差は凄まじい。なんといってもエーリヒが気配を察知するまで、首に飛びつこうと忍び寄ってくる彼女に誰も気づけなかったのだから。
未だ未熟といえど巨鬼とて多少なりとも戦陣に立ってきた。その感覚をくぐり抜けてくる狩人の力量に感嘆すること頻り。そして、巨鬼の部族社会においてはあまりに乏しい男女関係の経験値が彼にとって苦痛となりうる場の空気を感じさせずに居た。
考え方によっては、この場で最も幸福な人物であろう。
もう抗議なんか後日でもいいからと逃げ出す気を伺うジークフリート、暢気に酒を呷りながら詩に劣らず小さくて可愛らしいなぁと感じ入るヨルゴス。反撃の機会を伺いつつ、煙草を燻らせ狩人に干し肉の話題を振る魔法使い。
しかし、空気など読まぬと言わんばかりに金の髪が言った。
「ミカ、君は珍しい物を咥えているな」
「ん……? ああ、これかい?」
ぴこり、と唇に挟んだ煙草が揺れた。
三重帝国において煙草とは中産階級の富裕層や貴種、または魔導師の文化であり市井で広く吸われている訳ではない。
主な楽しみ方は煙管に詰めて数口ずつゆっくり楽しむものであるが、紙で巻いた簡便な吸い方も一つの地方では楽しまれている。また部屋に腰を据えて楽しむ水煙草などもあるが、やはり文化として主流なのは煙管である。
金の髪も愛煙家であり、薬草を調合した甘い香りの煙草を愛飲している。喉を整えると共に良い香気で汗の臭いを抑えられる代物らしいが、魔法使いが吸っている紙巻きの物は同じく甘い香りでも装いが随分と異なる。
「師匠謹製の調合法で作ったものだよ。精神安定と魔力の滋養に利くんだ」
「ほう……紙巻きはあまり見ないが、それも師匠が?」
「いや、これは僕が帝都で見て手軽で良さそうだなと思って真似しただけさ。サロンじゃ風情がないとして嫌われるけど、私的に吸うには楽で良いだろう?」
細く吐き出される紫煙からは爽やかな柑橘の匂いがした。檸檬よりも橙などの甘みと酸味が混じったような香りは、香にして焚きしめてもよいと思えるほど香り高い。煙っぽさは魔法によって消されているのか、果汁を煙にして吸ったかのような心地よさがある。
「いいじゃないか、美味しそうだ。煙管盆は持ち歩くのが面倒だからな」
「おや、持ち合わせがないのかい?」
「今日はこんなに嬉しい日になると夢にも思っていなかったのでね」
苦笑して杯を差し出す友人に魔法使いも笑って杯を返した。コツンと触れあわせて喜びを分かち合う。
今日は本来冒険者の面々と稽古をしたら、夜はゆっくりする予定であったのだ。如何に冒険者といえど平素から酒を飲んでいる訳でもなし、規則正しい生活をして冒険により狂った体内時間を戻すことも必要だ。
特に金の髪は冒険者としての位階が上がって以降、少し仕事を減らし気味にしている。
一時、階級が低いのに冒険譚が歌われるほどの活躍をしたせいで、相場より安く強力な護衛が雇えるとして明らかに足下を見たような依頼が大量に舞い込んだからである。今ではそれも収まったが、結局金の髪は自分を安売りすると周りが苦労すると気付き、仕事は厳選しペースも少し落とすことにしていた。
故に煙管も持ち歩いていなかった。稽古の後は軽く食事をし、大人しく拠点に戻る予定なので必要がなかったのである。
「なら、一本進呈しようじゃないか」
口寂しそうに煙草を見ていた友人を見かね、魔法使いは懐から煙草入れを取り出して一本差し出した。
「いいのかい?」
「勿論。口に合うかは保証しないけどね。良くも悪くも僕好みに弄ってある」
「君が差し出す物に私が文句を言ったことがあるかい?」
嬉しそうに煙草を受け取る金の髪。葉を紙の切れ端で包んだだけの簡素な煙草なれど、金貨でも受け取るような恭しい手付きで受け取って口元へ運ぶ。
ふと、それを見咎めて狩人の柳眉が険しくなった。
金の髪はのんびりしているように見えて存外警戒心が強い男である。余人の手より受け取った物は軽々に口にしないし、ましてや魔法が掛かっているような代物には最大限の警戒を見せる。
それに当人が何かを盛ろうとしておらずとも、悪意を持った第三者の手が介入していないとは限らない。近頃では狩人が渡した物以外では、何かしらの手段でこっそり安全を確認していることを彼女は見逃していなかった。
しかし、一切そんな様子も見せず、警戒もなく金の髪は煙草を咥えたではないか。
密かに誇っていた矜恃に微かな罅が入るかのようだった。ここまで無条件の信頼を示すのは、後にも先にも家族や己だけだと彼女は思っていたから。
侵しがたい領域に踏み入られ、誰にも悟られることがなくとも狩人は反撃を受けた気分であった。よもや自分以外にこうも気を許す相手がいようとは。
そんな精神的動揺を毛筋ほども表出させることなく、狩人は膝から降りた。そこらの灯りから火種を借りてくるために。
こうやって世話を焼いてやるのも狩人の仕事であり趣味であった。この男は貴種に仕えていた反動なのか、手前のことにはとんと面倒くさがりで、多少のことなら「まぁいっか」と言って適当にする悪癖があった。
そんな彼に仕方ないわね、と笑って面倒を見てやるのが楽しみの一つでもある。だから毎度の如く懐から火縄を取り出して火種を貰おうとした。
「エーリヒ、こっちに」
「ん?」
ごとりと音を立てる椅子。椅子ごと移動した魔法使いは首を傾げる友人に唇の煙草を上下に振って見せる。
その所作を見て得心いったと金の髪もまた顔を寄せ……煙草の先端同士が触れあった。
息を吸い空気の流れを産み、熱が分けられる。フィルターも噛ませない原始的な紙煙草が赤々と燃え上がり煙が立ち上った。
火は既に燃えている物から貰うこともできる。手慣れた煙草呑みであれば煙管から落とした火種を掌で消えぬよう弄び、新たに詰めた葉に移すこともあるように紙煙草であれば既に点火したものがあれば火を貰うことができるのだ。
まるで接吻を交わすような構図に卓の周りにいた者が息を呑んだ。
肉体的な接触は一切なく、体液を交換する深さもない。
だのに否応なく関係性の強さを理解させる何かがあった。
空気と紙が焦げる音。互いの唇から煙が漏れて混じり合う様は、ただの現象に過ぎぬというのに妙に淫靡に映る。
「ああ、たまにはこういう酸い味もいいね」
「気に入ったなら何よりだ」
元の間合いに戻って笑い合う二人。何かいけないものを見た気がするとばかりに顔を逸らす巨鬼や、俺は一体何に付き合わされているのだと掌に顔を埋めて幼馴染みの顔を思い浮かべて精神の平静を保つジークフリート。
小さく「きゃぁ」と黄色い悲鳴を上げた女給衆の影に隠れてた狩人は、してやられたとぽかんとして見せた後……実に珍しく。
そう、実に珍しいことに頬を小さく膨らませた…………。
【Tips】喫煙に関しては煙草盆を用意する手間も風情の一つとしてみるため、手軽さを追い求めた紙巻き煙草は下賎として嫌う上流階級も多い。
更けるのを待つ月の朧気な明かりを浴びながら、金の髪の一党が街路を行く。日が落ちたマルスハイムの街は帝都と比べると深い闇に沈み活気に乏しい。時折、遅い時間になっても空いている酒房から野卑な笑い声や喧嘩の騒音が聞こえてくる位のもの。
夜行性の種族はどこで働いているのだろうかと思いながら、微かな酒気によって温もった体をまだ冷える春先の夜の空気に晒した魔法使いは小さく身震いした。
正直に言って飲み足りなくはあるものの、明日も仕事を控えている者もいれば、予算も青天井ではないため宴にも終わりが来る。痛飲して倒れた剣友会の面々は、生き残った者達によって寝床にぶち込まれ、相伴に預かった客達もめいめいに引き上げていく。
同様に彼らも寝床に引き上げるため、ぞろぞろ列を成して歩いていた。唯一分かれたのは、酒精に潰れた者達を一息に数人担いで世話していた巨鬼であり、彼は今後もあそこに根を下ろすようだ。
頑なに魔法使いの荷物も持って送ると主張する彼を酒房に留め、自身の大荷物を魔法で浮かべて運ぶ魔法使いは小さく溜息を吐いた。
一勝二敗かなと。
意趣返しには成功できた。なにも彼の背を守れて、全幅の信頼を得ているのは君だけではないのだと狩人に十分示すことができた。
されど……自身の強みを理解している相手とは本当に恐ろしいものだ。
寝床へ向かう道の途中、金の髪は狩人を大事に抱えていた。腰と蜘蛛の尻に手を回し、赤子を抱くように抱えて歩いている。やにわに酒杯に手を取って、止められるのも聞かずに呷って潰れた狩人を金の髪は慈しむように運ぶ。
それだけで、二人の関係がより深いものであると分かってしまった。
最後の最後に重い一撃をかましてくれたものである。
「どうかしたか、我が友」
「ん……? いいや、なんともないさ」
実に聡く友が憂いていることを察知した金の髪に対し、魔法使いは首を振って大丈夫だと告げた。
「少し酒が回っただけさ。もう直に着くのだろう? 心配いらないよ」
「そうかい? だが無理はするものじゃないぞ。辛いなら遠慮無く言ってくれ」
そうして自分に言い聞かせる。別にいいじゃないか、彼は酔い潰れた自分を運んでくれたこともあった。きっと今でも運んでくれるだろう。男の時は彼よりも背が高くなってしまったけれど、彼ならば揺るぐまいと。
「そうだね……もしそうなったら頼むよ」
「って、おいおい、歩きづらいじゃないか」
「肩くらい借りてもいいだろう?」
「仕方ないなヤツだな君も」
ならば気にすることはない。変わったけれど変わらない物の方が多い。大事な物だけは変わらずに自分達の中にあると魔法使いは薄い笑みを作った。
面倒な仕事も多かろうが、また楽しい日々がやってくることを期待して…………。
【Tips】夜間の荷下ろしなど夜行性種族が働く場所は市壁の外部に設けられている。




