青年期 十八歳の晩春 七
ハンドアウト:PC各位
可能ならウイスキーなどゆっくり嗜みながらどうぞ。
繊細な音を立てるギヤマンのグラスは冒険者の酒房に不釣り合いながら、お得意様に使うためか曇りない透明さを湛え灯火を反射して幻想的に煌めいた。
「強いお酒はお好き?」
「え? ああ、僕は……」
「物足りない……ように見えましてよ?」
鼓膜を羽毛が撫でていくような幼いが酷く艶のある声が洗練された宮廷語に乗って桜色の唇から零れる。上流にも通じる自然な発音、グラスを取り琥珀の酒を収めた酒精の瓶を空ける手付き、その全てが外見の印象から大きく乖離し認識を狂わせられた。
とろりと揺れる琥珀色の酒精は、上質で見栄えを気にした附票から見るにかなりの上級品だ。より深く観察すれば、その首には“Erich”と持ち主の名が書かれた印がぶら下げられているではないか。
「今宵は彼の奢りらしいので」
艶然と微笑み、酒に栓をしつつ童女は微笑みを強くする。水も注がずに差し出されるグラスを手に取り、魔法使いは躊躇いつつも鼻を寄せた。
鼻腔を焼く燻された強い酒精の香りに混じる熟成された木の爽やかな匂いと蜂蜜を想起させるかぐわしい芳香。香りが抜けた後、惜しむように残るのは果実の残滓であろうか。
良い酒である。相も変わらず、あの金の髪は良い趣味をしていると感嘆した。
恐る恐る口を寄せ、舌先に乗せるような微量を含む。濃厚な酒気に味蕾を焼かれ、繊細な風味は分からない。香りは楽しめるものの、スレていない若人の敏感な舌には生の味わいはまだ早かったらしい。
「良い香りだけど、僕には少し早かったかな」
言って魔法使いは焦点具に意識をやり術式を練る。すると、カランと心地よい音を立てて氷が一つグラスに産まれた。大気中の水分を集めてさせるだけの単純な術式ではあるが、氷室以外に氷を生み出せる貴重な魔術だ。
「あら、お器用でいらっしゃるのね。世のお酒のみの方々が羨ましがるでしょう」
「まぁ、魔法使いだから多少はね」
グラスの中で大きな氷を回して酒精を冷やすと共に甘く蕩かせ、僅かな水分で性質を変成させる。かすかな水、少しの温度変化で香りは艶やかに花開き性質を変化させる。
魔法使いはふと思い出した。成人して間もなく、師が祝いの席で良い酒を飲ませてくれながら言ったことばを。
お前は琥珀酒のようであると。
蒸留酒の中でも長い間樽で寝かせて作る琥珀酒の本場は北、中央大陸の北西部に遠く離れた北方離島圏。彼の種の故地である極地圏とは帝国よりまだ身近な場所で、厄介な略奪遠征の被害地の一つでもあったか。
そんな地で産まれた酒と形容されたのは、ほんの僅かな性質の変化で大きく味わいが変わるためか。
常温で、冷やして、微かに暖めて。手を加えず、氷を入れ、僅かに水を注ぎ入れ。そういえば、師は邪道と憤っていたものの、酒精神の僧が見つけ出した発泡性の苦い水で割るのも良いらしい。
それは、性別が変化する度に感性にも変質を来すことを揶揄されたのか。はたまた、美点ととられたのかは分からない。
ただ……この酒を寄越されたことに繋がりがあるように思えてならなかった。
氷を入れ、霜が降りるほどよく冷やしたグラスに鼻を寄せると香りの変化がよく分かった。酒精の強さは薄まり、代わりに微かにしか感じられなかった果実の匂いが感じられる。つられて一口舐めれば、やはり酒精は強いものの果実の風情と慈しむような木の味わいが撫でるように到来する。もっと大人になれば美味しく味わえそうな、複雑な味わいに舌が追いつけていない。
みれば、瓶の中身はあまり減っていないように思える。きっと持ち主も同じことを感じ、時折ほんの僅かに楽しんで舌の成長を見ているのだろう。
ひそやかな感慨を共有できたからか、自然と魔法使いの顔に笑みが浮かぶ。共に居られなかった三年間を僅かなりとも取り戻せたような気がして。
「お気に召したようですわね」
「ああ、良いお酒だ、十年したらまた飲みたいかな」
それにお気に入りを沢山飲むのも悪いしね、と前置きし言外にお代わりは断った。できれば彼の隣でという願いは飲み込んだままに。
もう数口で終わってしまうが、良いお酒は惜しいと思える程度にしておくのが一番だ。
さもなくば、シーツの海で誰に届くわけでもないのに謝罪しながら新たな知惠を得る師匠のようになりかねないのだから。
「魔法使いのお方は、帝都で働いていらしたので?」
「働いていたというより、勉強をね」
「まぁ、それは凄いことですわねぇ。金の髪ともそこで?」
首肯し更に一口。氷が溶けて加水される度に香りと味わいはまろやかになっていく。思えば、彼と知り合った時の自分もこうだったのかと魔法使いは思索を巡らせた。
「そうだね……彼は丁稚として働きに来ていて、そこで偶然知り合ったんだ。その後は何度も仕事をしたり、遊んだり、たまに実験に付き合って貰ったり……きっと、人生でも大事なものを共有した人だね」
瞼を閉じずとも思い出せる。初めて出会った時、今より幼かった金の髪は背に妹を負っていた。今では聴講生として講義に参加し、独特の術式を練ることで名前が通り始めた彼女を。
黒き兄弟馬に相乗りして仕事をしたことも多い。何度となく帝都間際の森を訪ね、御用板の依頼を受けたものだ。薬草学の初歩を教わり、上手な採取の方法も仕込まれた。今でも経費を節約するため自分で行っている触媒の採取で役立つ生涯の技術だ。
そして忘れ難きは互いの掌に命運を握り合った魔剣の迷宮。共に助け合って、死を目前とするほどの危難をよき思い出とはとても呼べない。されど、代えがたく何者にも穢せぬ経験であった。
あれのおかげで掴めた物も有る。より少ない魔力で効率的に術式を編む術を体感的に学び、魔導師として必要になってくる“限界”を知れた。魔法使いにとって多くの意味で忘れられない旅であった。
なにより、彼に全てを晒した切っ掛けでもあったから。
酒房の童女に問われて、魔法使いは浸るようにぽつぽつと思い出を語る。帝都であった笑い話、ちょっと格好良かった彼のこと、話したとして怒られはしないと分かる線引きをして楽しませてやるために。
ころころと笑う童女の反応がよいので、ついつい魔法使いの口は滑らかに動く。乗せられて話しているというよりも、思い出を補強するように彼とやったこと、行った所、話したことを口にすることが楽しくて仕方がない。
残念ながら、帝都では屈託無く思い出を共有できる相手は少なかったから。
己の研鑽のため、残してきてしまった僕たちの小さな妹はどうしているだろうかと彼の脳裏に兄とよく似た色合いの髪が過ぎる。随分としっかりしてきたから、寂しくて泣いているということはあるまい。
いいや、もしかしたら、律儀に望みを聞いて、そのままに保たれた彼の下宿だった所に逃げ込んでいるかもしれないな。匂いなど、疾うに薄れてしまっている寝台に包まって泣いているかもしれない。
魔法使いは落ち着いたなら、色々な人から預かった手紙などを金の髪に渡さねばと記憶に刻み直す。それでも、今日くらいは誰にも気遣わず、再開を喜んだとしても神々とて許してくれようと自己弁護しつつ。
空いたグラスが交換されて酒精が足される。今度はもっと手頃な、先ほど金の髪が呑んでいたのと同じ銘柄だった。鼻を寄せれば抹香にも似た淡い木の香りと香草の優しい風味。癖のないそれはきっと呑みやすく、彼が好むのも分かるような気がした。
同じように氷を入れて味わえば、先ほどの複雑な味わいとは違ってすっきりと纏まった甘い口当たり。まだ若い舌でも美味しく感じられる良い酒は、自分に出来ることと出来ないことの見極めが上手い彼らしい選択といえる。
とはいえ、その中で限界を探りつつ、不可能の一歩手前まで斬り込んで勝ってみせるのも良い所なのだけども。
ひっそりそんな考えを内心で弄んでいると、自然と口角が上がってしまう。薄い笑みは貴種の武装、いつでも誰にでも崩さず、無表情より尚硬い感情を覆う装甲だ。
しかし、この笑いは些か感情を塗りつぶすには強すぎたらしい。童女もにんまりと微笑んで感情を悟ったかのように口を開く。
「それで……魔法使いのお方、結局、金の髪は貴方にとってどんなお人でして?」
本質的で直裁、一切の迂遠を嫌った問い。
酒精で暖まった体が一息に冷え込んだ。たとえ故郷の蒸し風呂に入り、氷を割らねば飛び込めぬような川に浸かったとしても味わえぬような落差。じわりと手に汗が滲み、背に氷を這わされるような感覚が突き抜ける。
額より汗を垂らさなかったのは、せめてもの意地か。頬の筋肉が強ばるのを感じながらも、魔法使いは辛うじて自然な笑みを維持しつつ脳を回す。
この問いの意味は何かと。
酒場の童女が憧れの冒険者の友人に対して投げかける屈託のない質問でしかないように思える。されど、この卓に着いた時と同じく本能が囁きかけるのだ、よくよく考えるようにと。
自分にとって金の髪。いや、ケーニヒスシュトゥールのエーリヒはどのような関係か。
言葉で飾るのは容易い。だが、言葉で到底言い表せるような感情を抱えて生きてこなかった。
本質的に己を己として。中性人の魔導院聴講生でもなく、気の合う同性でもなく、ただミカそのものとして受け入れてくれたのは、両親を除けば他ならぬ彼だけだったのだから。
あの夜、世界の全てに絶望すると共に生まれ出でたことに感謝するような一夜。紛れもなくミカは救われた。エーリヒに友人として、ただミカがミカであることが尊いのだと受け入れられて漸く生きている実感が得られた。
故に彼にとって金の髪は言葉にし難いほど崇高な存在なのだ。
救いであり、憧憬であり、そして愛。この感情の重さと複雑さは、仮に神であろうと「分かるよ」などと言わせてなるものか。
ああ、故にこそ、なればこそ言うのだ。
「彼は僕の友人さ」
様々な想いを押し込めて一つにし、感情という熱で鍛造した揺るぎなき心。ただ一身に自分は彼の友人であると決めた。
家族よりは気安く、伴侶よりは遠く、そして知人とは比べるべくもなく。友人だからこそ癒やせる傷もあれば、打ち明けられる悩みもあろう。その上で……行くところまでいってしまったところで、友人として受け入れてやるのも重要だ。
友誼とは感情と親愛によって結ぶ物。肉体とは付属品に過ぎない。軽視することはないけれど、あくまで大事なのはミカにとってエーリヒが友人であり、エーリヒにとってミカが友人であり続けること。
「幸いにも、彼も僕を無二の親友として扱ってくれているからね」
これだけは揺るがないし揺るがせない。性がシフトしようと、年を重ねようと。
同時に否定もさせはするまい。己に誇れる所があるとするなら、数少ない燦然と輝く一つであるから。
唯一の例外を認めるとするなら……彼から望んできた時くらいだろう。
「満足いただけたかな?」
さて採点は? と軋む顔の肉に最低限の仕事をさせて自然な笑みを作ってみれば、童女は瞑目し腕を組んで暫し考え込んだ。
魔法使いは今になって不思議に思い首を傾げた。今の今まで、この少女は椅子か何かを踏み台にして成人の鳩尾ほどの高さにあるカウンターに上体を乗せて居るのだと思っていた。
しかしながら、両腕を組んで目を閉じ、少し背を反らせている姿は踏み台に乗っているようには見えなかった。むしろ、よく考えてみれば後ろの棚から酒瓶を取る時も踏み台を気にしたような動きはしていなかったような。
「……まぁ、及第点としておきましょう」
恐ろしく尊大な、なれど当然のようにも聞こえる調子で宣って童女は嘆息した。
「色々重そうだけれども、決して軽い……あの子の名声目当てとか、単なる古なじみって感じでもないし」
あの子? と魔法使いが首を傾げると、不意に童女の姿が消えた。
なにも不思議なことが起こったのではない。単にカウンターから上体を下ろし、その向こう側に消えただけ。
それでもだ、外見相応のヒト種の童女であれば頭くらいは見える筈。特にカウンターに座っている側からすると。例え食事や酒を広げても十分過ぎる奥行きがあるカウンターであるとしても、何かがおかしい。
「ああ、どこに居たんだい、君を紹介したい人がいたのに」
「あら、ごめんなさいね、少しジョンのお手伝いをしていたのよ」
酒宴効果という話を聞いたことがあるだろうか。多数の声が折り重なり、ざわめきにしか聞こえないような場でも自分を話題にした会話や気にしている人の声は不思議と雑音に消えず聞こえてしまうもの。無意識に脳がフィルターをかけ、雑多な音の中から意味ある文言を拾おうとする機能の一つと人体構造に詳しい落日派の魔導師が解明したもの。
冒険者が好き勝手騒ぎ回る酒房の中でも金の髪の声は、福音の如く耳によく届く。そして、それに受け答えする声も。
魔法使いが慌てて振り向けば、つい数秒前に消えた筈の童女がそこにいた。
栗色の髪と光の角度によっては金にも見える剣呑な琥珀の瞳も愛らしい彼女は、ヒト種ではなかった。黒く滑らかな光沢ある外骨格の下肢は、紛れもない亜人種の証。
蜘蛛人、それも三重帝国においては斥候や狩人、暗殺者の種族として恐れられる蠅捕蜘蛛種の蜘蛛人であった。
ようやく魔法使いの脳内で思考と記憶が合致し、違和感が一つの回答へと姿を変えた。
金の髪は故郷の話をすることを好んだ。ミカが幸せそうに語る彼の姿を愛でていたのもあるが、自慢するというよりも“憧れているもの”に触れるような横顔が本当に眩しかったから。
その話題の中で多く顔を出し、時に言語化し辛い感情の対象となった人物がいた。
マルギット。彼の幼馴染みにして、冒険者になると誓いを立てた狩人の乙女。宝物のように大切にし、たとえ友人であろうと不用意に触れることを許さぬ耳飾りを贈った人。
むしろ何故気づけなかったのか。栗色の髪の美しさを褒めることも、酒精のようで麗しい色と称していた目も思い出話の内容そのもの。そして、普通に考えたら分かるだろう、酒房の主が荒くれ者共が大酒をかっ食らうような時間に大事な娘を晒すはずがないことくらい。
一目見て気付くべきであった。否、彼女が気付かせなかったのか。彼の側に居る者が獲物か……同胞であるかを見定めるため気配を消して。
あの冷や汗も本能の警鐘も今なら分かる。彼女は徒手に見えて尚、魔法使いを“獲物”と見ることができたのだ。如何に魔法使いといえど、術式の発動起点は“思考”である。自律稼働で対象を判別する高度極まる術式を恒常的に張れる大魔導師であるならまだしも、魔法の発動に思考を必要とする魔法使いなら“思考する暇”さえ与えず殺せば常人と変わらない。
笑顔のままに彼女は品定めをしていた。敵対者としてではなく。
これを大事な大事な相方の側に置いてやってもいいものか……ずっと考えていたのだ。
「ははっ……」
思わず乾いた笑いが零れていた。やってくれたなと思うし、してやられたと唇を噛みたいような気もする。今が男性体だからといって、決して甘い採点などしてはいなかったに違いない。魔法使いには確信があった。
向こうを知っているのと同じく、向こうもきっと聞かされて知っていたから。
だから魔法使いが中性にも女性にもなることを加味し、男性という性別の裏側まで全てそっくり漁っていかれた。
吐き出した言葉や息に含まれていたのは、なにも酒精ばかりではないのだから。
「いやいや……まったく、恐ろしいね」
魔法使いは髪を掻き上げ、懐から煙草入れを取り出した。自分の師から教えられた特別配合した、精神安定と集中を助ける煙の愛撫が必要だと思って。
覚書や書き損じを切って作った紙巻きの煙草を咥え、簡単な魔術で火をつける。
「我が友、来てくれ! 紹介しよう!!」
甘い香りと薬草に染み込ませた魔法薬が肺から素早く全身に回る。酒精の濁りが瞬く間に失せ、冴えた思考を取り戻す。
「応とも我が友、聞こえているとも、そこの麗しい狩人殿をご紹介いただけるかな?」
夜は始まったばかりなのだから…………。
【Tips】琥珀酒は楽しみ方によって様相を賑やかに変える酒であり、三重帝国では女性の喩えとしても用いられる。
この話は夜の遅い時間の方が良いかと思いサプライズ更新です。
退かぬ! 媚びぬ! 顧みぬ! 帝王の前では敵は全て選ぶべき獲物なのだ!!




