ヘンダーソンスケール 2.0 Ver1.2
良い夫婦の日と聞いて(1年ぶり2回目)
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の設定の続きになります。
家庭のおかしさというものは、大人にならないと分からないものである。
「ああ、帰ってたの」
久しぶりに母の顔を見て、しみじみとそう思った。
息子にかけるにしてはあまりに素っ気ない台詞にも慣れたものだ。この母親は、たまに鬱陶しくなってしまうほど構ってくる親父と違って俺の人生に殆ど干渉してこなかった。
なにも俺が見放されているという訳じゃない。姉貴共も似たような対応だった。
「また随分なお出迎えですね、母上」
むしろ俺は塩っ辛い母親と比べれば、孝行息子と賞賛されていい方だと思うんだけどね。出不精の母親と忙しくてどうしようもねぇ親父の代わりに社交界の隙間を埋めてやり、方々で迷惑を掛けまくる――この間、ちぃ姉がこじらせた縁談のリカバリーは死ぬほど大変だった――姉共の尻を拭う。普通だったら嫌気がさしてどっかに婿に出るか逐電してるぞ。
今日も今日とてサロンを巡り、親父殿と縁故を結びたい連中とのつなぎをした所だ。信じられるか? 俺まだ成人してねぇのにこの働きっぷりだぜ。
そして、イベントの前に疲れを癒やそうと思って喫茶室に足を運べば、久しぶりに拝んだ母親から頂戴する言葉がこれだ。また何ヶ月も家そっちのけで書庫に籠もってたというのに自由極まりないな。
というより、この人忘れてんのかね。孝行息子が態々予定を調整して帰ってきた理由があるってのに。
貴種らしさを脱ぎ捨てていらだちを打ち消すために頭を掻けば、母は身を投げ出していたカウチから自然と立ち上がって俺の側にやってきた。そして間合いを詰めると、母親だとしても一瞬ドキッとする美貌を首筋に寄せてくるじゃないか。
「ちょっ、なっ……」
「また日も高いのに香水の移り香を漂わせて豪儀なことね」
別の意味でドキッとさせられた。
ちゃうねん、これはちゃうんや。ほら、娘さんからの印象が良ければ繋ぎもしやすくなるから……。
「まったく、どうして貴方はこうも遊び人になっちゃったのやら」
「お、俺から誘いをかけているわけじゃ……」
「それでも乗って“いただいて”しまっているなら話は別でしょう」
馬鹿にするように一つ鼻で笑って、母は元々腰掛けていたカウチに戻って手紙の検分を始めた。しかし目は手紙に移っていても、意識だけは俺から外してはくれないらしい。
「ヒト種と遊ぶのはそこそこにしときなさい」
「なんで分かるんだよ……」
「そんなに必死こいて香を焚きしめるのは、大抵ヒト種だからよ」
相手まで当てられると実にヒヤッとする。世の人々は一体どうやって母親と付き合っているのだろうか。こんなおっかない生き物の股ぐらから取り出されたなんて考えるだけで股間が縮こまる。
「……そういう母上はお父上と番われたのでは?」
叩かれっぱなしは癪に障るので反撃してみれば、小馬鹿にしたようにまた鼻で笑われた。
「私は良いのよ」
笑いながらの言葉の後、なんといってもくたばるまで面倒を見たんだから、と続ける母の言葉を親父に教えたらどんな顔をするだろう。多分、悪くなった苺を気付かず囓った時と同じ、苦くて酸っぱいものを噛んだような顔だろうな。
「ヒト種というのはね、私達よりずっと感傷的なのよ。時間の密度が違うから」
手紙を間断なく開けながらも母親の語りは止まらない。どこか学術的な持論は、母親が定命、とくにヒト種に抱く感慨を理性的な言葉に組み替えたものか。
ヒトは脆く、その生は俺たち長命種と比べると瞬きの間のようだ。俺と同じ時期に生まれた子供がとっくに成人し、年老いて現役に幕を下ろして墓穴に収まっていく姿は見ていてあまりに忙しない。
だからだろうか、俺たちとヒト種では考え方を似せることはできても、感じ方を寄せることは難しい。
ヒト種の感情はどんなものでも俺たちにとっては激発的に思える。なんでたかだか一瞬、この一日一時間のため、そこまで全てを擲てるのかと思うほど。
「ヒト種は思い入れ易い生き物なのよ。気に入られたなら、その瞬きのような生の全てを貴方に注ごうとする……それを受け止めきれる器があって?」
問われ、思わず唸ってしまった。
事実、そういった思い入れを持たれることは多かったからだ。
貴方のためなら、君が喜ぶから、卿が望むなら安いものだ。そんな言葉と共に多くの贈り物と便宜を定命の友人知人――時に一時の恋仲と呼べる者からも――から捧げられてきた身には痛いほど覚えがある。
その中には、きっと比喩ではなく望めば心臓を差し出してくれるほどの想いを抱く者もいたのだから。
血族を差し置いて、臨終の床で最期まで手を握って欲しいと頼まれるなんてよっぽどであろう。
「覚悟がないなら適当にあしらっておきなさい。どうせ貴方は当主になりたくないのでしょう?」
「それは……まぁ」
「いいのよ、別に。あの人は期待してるみたいだけど、別に三重帝国貴族の頭首なんて男でも女でも能力があれば成り立つんですから。特に家みたいに直系の一門だけで纏まってるこぢんまりした家はね」
手紙を淡々と処理しつつ、時に返事を書くためか覚え書きをする母――本来必要も無いの紙に書き出しているのは、親父から移ったクセだろうか――の言葉に俺は曖昧に応えることしかできなかった。
スタール家の当主位、考えれば局所的に重力に異常が生じたと錯覚するほどの重みがのし掛かる。
言っては何だが、母が言う“こぢんまり”という言葉が似合わないくらいに家は結構な勢力だ。血族は俺たちしかないほど小さく、領地だけみれば中小規模の広さに過ぎない割に政治力で言えば七選帝侯家に劣らぬ、いや一部では上回るほどの力を持っている。
帝室とのつながりも深く一時は比類無き忠臣扱いされたこともあれば、社交界の覚えも広く友好関係はかなりの規模。唯一の欠点と言えば、成人したのにふらふら落ち着きのない姉貴共のせいで姻戚関係がちぃとも結べていないところか。
財力においては帝国広しといえど間違いなく十指に入り、武力においては俺の製造責任者や……それが手に負えない長姉を思えば大した物。一時期親父殿が力を入れて編成した即応軍――他領からは狂気の沙汰とも言われるが――により一般の兵力も頭一つ抜けて高練度だ。
うん、“灰の捲き手”なんて言われてる戦闘魔導師のお姉様が出張ると聞けば、大抵相手は顔色が悪くするから、通常兵力以前にヤベー奴ら扱いされているので何とも言えないのだけど。
まぁ、家の歩く戦略兵器の存在はさておくとして、海外の有力貴族であるフォレ男爵とも血族となれば政治的な立場も更に補強されて倍率ドンってところ。
こんな家の当主とか、相当のメンタル強者でなくばやっていけまいよ。
その点、今のところは後継者として有力視されている大ねぇ様は良いよな。見た目は母親と親父殿の良い所取りって具合で整ってるし、何をすりゃ殺せるんだという恒常的に張り巡らせた結界防護や身体賦活術式を維持する膨大な魔力、その上で親父が「ティルトウェイトや……」とか謎の感嘆を溢した広域殲滅秘匿術式まで抱えてる規格外の戦闘魔導師だから暗殺の心配もない。
あまつさえ、これだけ畏れられ物騒な異名がダース単位で囁かれているのに欠片ほども気にしない魔導合金とタメを張るメンタルの太さ。きっと血族の誰よりも上手く当主をこなしてくれることだろう。
さしあたって、当主位を継承する気も自覚も欠片もないところが玉に瑕だが。
「気に入ったヒトを囲いたいなら当主位は存外役に立つわ。番うにせよ囲うにせよ、下に着けて働かせるにせよ思うがままですもの」
「……そこまでする気はないですよ」
幾らあっという間に過ぎ去る時間とは言え、俺には定命の人生を全て見届けたいとは思わない。彼らが自儘に生きた結果、俺と友人になるのはいいさ。
けど、親父みたいにお袋に囲われて一生を終えさせるのは……なんだ、一個の命として考えるに余りに忍びなかろう。
飾らずに言おう。俺はヒト種を初めとする定命が好きだ。俺たち非定命にとっては激発的に過ぎる感情は花火の様に艶やかで、意識しなければあっという間にさび付く感情を鮮烈に溶かしてくれる。
かといって、温室の薔薇や菊のように飾って愛でたい訳じゃない。
それらは全て過酷で短い時間の中でこそ咲き誇るからだ。
俺の考えが非定命の傲慢なものだとは分かっている。彼らは彼らなりに苦労し、その目映い感情に悩まされていることくらい分かっている。
そして、どうあっても俺が同じように感じてやれないことくらい。
分からないから美しい。分からないから愛おしい。手に入らないが故、狂おしいほどに目映い。
ああ、母は一体どうして親父を掌中に収めていられたのだろう。あんな放っておけば、もっと面白く生きてくれたかもしれない人を。俺の父親として、俺を膝に乗せて本を捲らせておくには息子ながら惜しいと思っていたのに。
そんな目映い人を……どうして死霊なんかにしてしまったのか。
「おや、もう帰っていたのかい」
自身をして処理しづらい感情とも呼べぬナニカを持て余していると、ドアを開きもせず後背に気配が湧いた。
振り返らずとも分かる。落ち着いた声音、静かな気配、また面倒がって物体を透過して抜けてきたのだろう。
「おかえり。サロンは楽しかったかい?」
「ええ、父上もおかえりなさいませ」
穏やかな笑みを浮かべる、俺が産まれた時よりもずっと若々しい姿をした親父殿。後ろが微かに透ける死霊の姿、あの頃に肉を持っていた親父は、どんな人間だったのか。どんな感情を咲かせ、どんな色をして母の隣に侍っていたのやら。
色々な物を父譲りの薄く曖昧な笑みに溶かして隠し、俺は浅く腰を折った。
「あら、どうしたの貴方まで」
「どうしたも何も、忘れたのかい?」
「……なにかあったかしら? まぁいいわ、来たなら代わってちょうだいな」
呆れたことを宣う母はカウチから起き上がると親父殿の手に書簡の束を押しつけ、強引に座らせたと思ったらその膝に上体を投げ出したではないか。この人は本当に働こうという気がないのだな。貴種の友人は当主位を譲られても父からの口出しが五月蠅くて、と苦悩していたが、我が家では無縁の悩みになることは疑いの余地もないな。
後、それを唯々諾々と受け止めてやる父も父ではなかろうか。嫌なら実体化を解いて頭をスカしてやればいいものを。溜息を吐きつつも受け止めてやるからいかんのだ。甘やかしたから、今の母があるのだろう。
「随分と誘いが来ているね……そして、隙あらば断ろうとしない。流石にヴェルディアン子爵の婚姻式典には参列しないと拙いだろう。交易路整備の話をしているんだから」
「もー、いいじゃないの……次女の輿入れでしょ……祝いの文でも送ればいいでしょ、あんな木っ端……」
「皇統家の傍流を捕まえて木っ端扱いしない。それに一番溺愛している子だ、晴れ姿を自慢したいのが文章から丸わかりじゃないか。ほら、何やらうちの子達も連れてきて欲しいみたいだし、ちょうどいいさ」
「姻戚関係になりたいの丸出しだから嫌なのよぉ……治水にしじくって金がないのが分かってるし……」
空気が弛緩し、途端に情けないことを言い出す母親に息子として実に反応しづらい。なんかこの人、親父殿が帰ってきてからポンコツ化が進んでないか? あれだ、親父不在の数十年間、頭首として気を張っていた時間を取り戻すように適当になってきている。
父が冥府で休暇を取っていた頃なら、一も二も無く俺達を捕まえて豪奢に飾らせ、楚々とした笑みを引き連れ参列していただろうに。こんな政治的に美味しい所を見逃してまで自分の趣味に没頭したがるほど、色々擲ってなかった筈だ。
ああ、老いた父が足を悪くした時だってもっとしっかりしてたろうに。親父が居るから反比例して駄目になるなら、甘やかさず尻を叩いて母にきちんと貴種をさせればいい。そうすれば、貴方は貴方でしたいことができたのだ。
本当に、我が血に二人の因子が流れているとは思えぬほど不可解な夫婦である。
あれやこれやと書簡に文句をつけつつ手早く片付けた父は、隔離した空間から物を取り出して溜息を吐く。ふと気付けば、廊下に喧しい魔導波長が三つ……間違いようのない、我が優秀にして不出来極まる姉貴共の気配だ。母からの呼びつけにはシカトを決めることもある彼女たちも、今回は父からの呼びかけなので流石に無視しなかったか。
「……なにこれ?」
急に押しつけられた小箱を見て怪訝な顔をする母。ただ、俺は知っている。この人、どうせ祝われることが気恥ずかしくて、わざと脳を弄って“忘れた”ことにしているのだ。これくらいは百年近く親子をやっていれば、察することもできるとも。
まぁ、百年以上夫婦やっている父上が気付かないのは、元定命であることを考慮してもどうかと思うけどね。
「お母様、結婚記念日おめでとぉー、ご馳走食べましょー。ねぇ、父様、お祝いなんだしセーヌの五四四年物開けてもいいよねぇ?」
「目出度いのかしらねぇ、果たして……私達が産まれてしまった原因の日なのに」
「おめでとうございます、母上、そしてご愁傷様、父上。今回はやっかいな縁談を持ってきていませんよね?」
ろくでもない挨拶をしながら――親相手でもここまで無礼なら、普通の家ならどうにかされてしまいそうだが――扉を開ける姉たちを見て察したらしい母上は、つまらなそうに押しつけられた小箱をつまみ上げ「ああ、なるほどね」と胡乱な目を注いだ。
婚姻の日にちょっとした食事会を催すのは、たしか元々父が意趣返しとして始めたものらしい。誰から聞いた訳でもないが、当時の日記を見れば分かる。そういえば、父の没後に日記を読んだこと、バレてないよな?
「まぁ、そういうことだ。おめでとう、これからもよろしく」
「はいはい、ありがとありがと」
おざなりに返事をしつつ、しかし慎重極まる手付きで小箱の包装を解いた母は中身を取り出して灯りに翳す。
中に入っていたのは新しい簪だった。血のように朱い小さな宝石が数珠折りになった飾りが数本先端に連なる、飴を思わせる美麗な光沢を放つ木の簪。
父上の魔力波長の残滓が残るそれは、間違いなく手作りの一品だ。かなり強い守りの魔法が込められており、素材も貴種が身に付けて恥じることのない物だと一目で分かる。
なるほど、こないだ帝都の帰りに「ちょっと用事が」といって姿を消したのは、これを調達しに行っていたのか。
本当に我が父ながら分からない人だ。
さて、アレの後に祝いを出させられるのはちょっと悩ましいな。
「管理が面倒なんだけど……」
そんなことをぬかしつつ、いそいそ髪に挿している姿を見せられると絶対に勝てる気がしないから…………。
【Tips】婚姻日を祝う習慣というものは特になかったが、スタールの如しというオシドリ夫婦と同意の言葉が広がるにつれ、彼の家の習慣であるとして少しずつ貴種の間に広まりつつある。
良い夫婦の日なので突発更新。
このアーチエネミー夫妻が気に入って頂けているようでなによりです。




