青年期 十八歳の晩春 三
貴種が硬く閉じて民草に晒さぬ行政法典の内には、都市規模において必ず備えねばならぬ施設や設備が事細かに記されている。
五〇〇人以上の規模であれば下水及び公衆便所が。一〇〇〇人を超えれば上水道と大規模な屎尿集積所が。そして、その中には当然、帝国が世界に誇る文化であり、諸外国から潔癖とも笑われる公衆浴場があった。
ユストゥス恩賜浴場も斯様な背景を以て建造された公衆浴場である。エンデエルデの地を争うに至り、最も力ある地方豪族にして反帝国の旗頭であったユストゥスなる男が討ち取られたことを記念して建造された、帝国行政府が基本として備える敵対者への高度な挑発を込めた浴場は今日も……さほど混んでいなかった。
まだ日が高い時間というのもあるが、地方行政府の限界というものもあり、恩賜浴場にしては極めて珍しく入湯料が無料ではなかったからである。
食う物を食ってとりあえずの屋根があれば財布が薄くなるなら風呂は後回しにされるのは自明の理、天幕や蛸部屋めいた宿で暮らす者も多い中で五アスの入湯料をケチるのも無理からぬ話であった。
そんな浴場に金の髪は自らの一党を率い――結局、酒は帰ってからということでぞろぞろ皆着いてきた――訓練の汗を流しにやってきた。ここでも気前よく全員分の入湯料を払ってやり、男女別れて脱衣場へ向かう。彼の一党には少ないながらも、剣を志した女性もいるのだ。
「やぁやぁ、風情があるじゃないか」
「だろう? 正面に浴場の名の元になった男の首を掲げる五代目マルスハイム伯の銅像とか実に攻めていると思わないか?」
「ああ、反乱が起きたら城館の次くらいに焼かれそうなほど風情たっぷりで気に入ったとも」
かなり際どい会話をして笑う二人に道連れの冒険者達は、この人何言ってんだろうとの微妙な表情を作ってみせた。元々金の髪自身が帝都で働いていたこともあり難しいことをいう人物であったが、更に学のありそうな魔法使い先生が加わることで理解の難易度が更に上がっている。
まぁ、その学のおかげで誰もが食い物にされることなく、健全に働けていると思えば文句のつけようもないのだが。
さて、仲の良い――歩く時も肩を組まんばかり――の二人に置いていかれつつあり、知人もいないため取り残され気味だったヨルゴスであるが、そんな彼の肩を叩く者があった。
「よぉ、新人、服入れの使い方くらい分かるよな?」
「へ? へぇ、まぁ……」
エーリヒに率先して酒や得物を渡していた牛躯人の男だ。彼も適当な服を仕舞う収納に鍵となる割符を差し込んで開け、こうやるんだよと教えるように服を脱いでいく。
「まぁ、仲良くやろうや、俺はエタンだ」
「へぇ、よろしくお願いします。ヨルゴスってぇ申します」
「悪かったな、全員で睨んだりして。だがあんま引き摺んなよ、俺らも最初は似たような……」
「こんなチビが金の髪だってぇのか!? だもんなぁ!」
「うるっせぇマチュー! てめぇ後で中庭に面貸せや!」
訳知り顔で巨鬼の肩を取る、彼に引けを取らない巨躯の牛躯人は過去の過ちをあげつらって笑う人狼の同胞に拳を振り上げてがなった。
誰も彼も、金の髪の詩を聞いて顔を見ようと集まり、一度はヨルゴスと似た態度を取ったことがあるのだ。
だよなぁ、とヨルゴスはしみじみ思った。こうやって見れば見るほど、立ち振る舞いもあって良い所のお坊ちゃん感があるのだ。口調こそ多少は下町調で頼りがいがあるものの、お上品な立ち姿のせいで平服がどうにも似合っていない。剣を取って貰わねば、その強さに気付くのにどれだけの時間が必要であっただろうか。
「でもよ、見てろよ?」
何ですか? とエタンが指さす方を見れば、服の裾に手を掛ける金の髪が居る。随分と大きな上衣だと思っていたが、彼が一息にそれを脱いだ時に巨鬼の息が止まった。
凄まじく練り上げられた肉体が現れたのだ。
しなやかに鍛え上げられた筋繊維が絡み合い、素早く動ける限界量の際を図るかの如く骨格に張り付いている様は機能美さえ秘めていた。硬く撚られた鋼の縄もかくやの肉は見事な稜線で肉体の輪郭を縁取り、見ているだけで力強さを醸し小柄さを露ほども感じさせない。
あれならばどんな剛剣であろうと受け止められる、そう自然に思えるほど無駄なく鍛えられた剣士の体は、研ぎ済まされた一本の剣を想起させる。
それも美しく飾られた宝剣の見栄えだ。ようよう見れば真っ白な肌には冒険者家業につきものである古傷が全くない。それどころか角質化しやすく茶色くなりがちな間接部でさえ磨いた大理石の色合い。何の鍛錬もせず、ただ身を磨いたとして“ああなる”のか疑問である。
「な、すげぇだろ」
「ええ……スゲぇ肉だし、傷がいっこもねぇなんて……娘っ子の肌みてぇだ」
「俺らも結構やる方だと思うがよ、ほれ、見ろ」
牛躯人が差し出す右手を見やれば、薬指が中程から無く、小指にも大きな斬り込んだ傷がある。敵の攻撃を受け損なってついた傷であり、長く荒事をやっていればよくあるものだった。
「小指はよぉ、なんとかカーヤの姐御の薬が間に合って繋がったんだ。あいつは左手の人差し指が欠けちまったし、あいつなんざ腹の疵痕がすげぇだろ、もうちょっとで腸零れる所だったんだぜ。腹圧がなんだと言ってエーリヒの旦那が縫ってくれて助かったが……」
対して服を脱ぎ肉体を晒す冒険者の体には大なり小なり傷がある。仕事でついたものもあれば、日常生活で負った物まで様々だ。ヨルゴスの肉体にも地肌の青とは異なる白くなった蚯蚓腫れの後が幾つもあり、金の髪と比べれば絹のハンカチと使い古した雑巾のようだ。
「だから俺らは、ひっそり“欠けずのエーリヒ”とも呼んでる」
「な、一緒に風呂に入らなきゃ分からねぇ話だが」
「それにずりぃよなあの人、むしろナメられるために、あのダボい服着てんだぜ。油断してくれた方がやりやすいこともあるとか言ってよ……」
口々に感想を述べる冒険者だが、噂の当人は聞こえてか聞こえずか、凄く鍛えたねと言って無邪気に触ってくる友人に腕の筋肉を自慢していた。
「どうだい、こうすれば少し盛り上がるようになったぞ」
「いやいや、大したものだね、お腹も割れてまぁ……」
「おっふ!? やめろ、くすぐったいじゃないか!」
妙に仲よさげで、ともすればいちゃついているとも見える二人に冒険者達は一抹の邪念を抱いてしまった。そういえばあの人、金持ってんのに女遊びは全然しねぇなぁと。むしろ、常に寄り添い誰よりも大事にしている相方がいなければ、その邪念の確度はかなり高いものとなっただろう。
というのも、金の髪は高い背と秀でた筋肉に憧れでもあるのか、たまに羨ましげに配下の肉体を見ていることがあるのだから。
「だけど……」
「ん?」
なんとも言いがたい視線で二人を見ていた配下は、ぼそりと呟いたヨルゴスに顔を向ける。すると、彼は実に神妙な顔で、まだ服を着ていた魔法使いに目線をやっていた。
「先生も、まぁ凄いぞ」
友人に悪戯するのに忙しく服を脱いでいなかった魔法使いが少し遅れてローブに手を掛ければ、周りで男達が生唾を飲むのが分かった。
肩幅や首に腰付き、膝の形など見れば明確に男と分かるのに、その肢体はあまりに艶めかしかった。艶のある白い肌、うっすらと筋肉で被甲された肉体は男性的なれど蠱惑的に柔らかな線を描き、特に初雪が降った雪原もかくやの背中の妖しさといえば性別を問わず引きつける魅力がある。
思わず触れてみたいと思う背中に勝る女を抱いた記憶が彼らには無かった。
良くも悪くもマルスハイムは場末の辺境、商売女は多く何処にでもおり、半官半民の花街から無許可営業の“たちんぼ”まで含めれば数は多い。だが、どうあれ田舎娘や息子を集めただけに過ぎず平均的な質が高いとは言いがたかった。
奮発してもそこそこの顔と体、しかし洗練されぬ所作の田舎くさい者ばかり。
斯様な状況に慣らされた男達にとって、魔法使いの所作は目に悪かった。
ボタンを外す指の動きから袖から腕を抜く所作、脱ぎ去った服を畳む仕草の一つ一つがまるで女性のように麗しい。性差を感じさせつつ男の色が薄い肉体も相まって、なんとも複雑で酔っ払いそうになる色香が滲んでいた。
「俺ぁ驚いたよ……野営で風呂のお手伝いをした時、そりゃあもう、間違った天幕に入ったかと思った」
野営でも風呂に入ることはある。風呂といっても盥に水を張り、傍らに湯を入れた桶を用意して体を拭う程度の簡単なものだ。それでもやるとやらないでは快適さも違えば、健康の維持にも役立つため定期的に催される。
湯を沸かした釜をそのまま運べるヨルゴスは、そんな手伝いの最中に今と同じ光景を見たのだ。
しかし、その時は日が沈んだ後、微かな篝火と月や星が投げかける淡い光の下。あいまいに照らされた肢体は今より更に妖しく、本当に男か女か分からなかったという。
「それで背中を頼めるかい、とか言われちまったらねぇ……」
「お前……凄いな」
それ以降である、彼が魔法使いの先生に同種の女性に仕えるかの如く侍り始めたのは。元々巨鬼の男性は他種であっても女性に弱いものだが、何故だか“そうしなければ”という気になってしまったそうな。
「何やってるんだ? 脱いだら入れ、汗で冷えてるのに更に体を冷やしてどうする」
なんなんだろうな、この人たちとしみじみ考え込んでいた一同に金の髪は首を傾げ、さっさと入れと促した。体を綺麗に、できるだけ身綺麗にと常日頃から口を酸っぱくして言っている通りに。
「動いた後の風呂は格別だが、それ以外にも利点があってだな」
洗い場で隣に座れとヨルゴスを誘い、桶に汲んだ湯に石鹸を漬けながら金の髪は語る。
彼が“剣友会”に参加し、教えを請うてくる者に厳命していることが幾つかある。
その内の一つが清潔の徹底である。
というのも、冒険者と耳障りのよい呼び名こそ与えて貰っているが、実態として彼らは住所も職業も不定の山師に過ぎない。言うまでもなく大抵が教育をうけておらず、更に金に余裕があるとも言いがたいため素行も宜しくなく、田舎であることに目を瞑っても清潔とは言いがたい。
「だが、それでは印象がよろしくないし、名が上がろう筈もない」
故に冒険者は級が低い内は軽んじられる。人品清らかならざる者に尊敬が向けられることもなく、ましてや重大な仕事など任せたくはない。たとえ報酬が大判銅貨一枚に満たぬ雑事であろうと、あまりに小汚い者が片付けてくれば、それだけで評価は落ちるもの。
では、そんな泥まみれの中、一人綺麗な者が誠実に仕事を熟せばどうだろうか。たとえ格段によい成果を出さずとも。
「泥まみれの石の中、綺麗な一つがあれば目立つものだ。ともすれば拾い上げて貰えて、磨かれる可能性もでてくる」
当人が駆け出しの時よりやっていたことだけあって、言葉には深い含蓄と重みがあった。
他より綺麗な服、汚れていない顔、ちょっと整った言葉遣い。実に単純で軽いことでも印象はがらりと変わる。野卑で当然、大して期待もしていない下級の、煤が落ちていない冒険者や赤くなったばかりの者が来ると思っていた顧客には大変印象深くなることだろう。
「マチュー、お前、たしか前の依頼の時に昼食を馳走になっていたな?」
「ええ、つまんねぇ荷運びでしたが、まぁ貰ったごった煮はぼちぼち美味かったっす」
わしゃわしゃと石鹸で毛皮を泡立てる人狼は、倉庫の荷下ろしの依頼で番頭から好印象を受けたのか賄いの食事に混ぜて貰ったらしい。他にもちらほら湯冷ましや茶をいただいたとか、顔なじみになった顧客から駄賃を貰ったなど良い反応が返ってくる。
「三日に一度の風呂、たった五アスと石鹸代で得られる利点としては実に大きかろう? だからヨルゴス、お前も早く稼ぎたいなら入れる時に風呂に入り、服を良く洗うことだ。金に余裕が出たら香袋なんぞを買うのもいい」
「へぇ、かしこまりました……で、そのー」
好きに呼べ、と言われ、ヨルゴスはとりあえず周りに倣って“旦那”と呼ぶことにした。
「旦那、何してるんで?」
「見ての通りだが?」
その見ての通りが分からねぇから聞いたんだよ、と周囲の心が一つになった。
金の髪は石鹸を溶かした湯で頭を洗っていた。これは極めて普通のこと。都市衛生が行き届かぬ故日常的につくシラミやノミなどを払い、汚れを落とすのに石鹸水で頭を洗うのはいいことである。
問題は、それをなぜ自分ではなく魔法使いの先生にやっていて、やられている側も当然であると言うように、しかもご機嫌そうに足をぱたぱたさせながら受けているのか。
「……なにか変か?」
「何も変じゃないと思うよ、我が友。ああ、もう少し左側を頼む。やっぱり<清払>の魔法があってもお湯で頭を洗うのは格別だ」
日光浴する猫みたいに機嫌良さそうに目を細めて頭を洗われる魔法使いは豪儀にも辺境の英雄に注文までつけるが、命じられた側はむしろ嬉しそうに「よしきた」と応えているではないか。
男衆からすれば異様な光景も、この二人にとっては帝都時代からずっとやっていたことなので至極普通のこと。むしろ、エーリヒにとっては「お前らも私の背中を流したりするだろう」と主張するだろう。
「しかし我が友、君も結構鍛えたな」
「万一に備えて棒術に手を出してみてね。それでも君に比べれば薄くて恥ずかしいばかりだよ。」
「なぁに、よく整っている、大したものだ」
丁寧に髪の房を一つずつ気遣うように洗ってやり、優しく桶から綺麗な湯を掛けて石鹸を流す。元々艶のあった髪が更に輝きを増し、天窓より差し込む午後の光が冠を思わせる光の輪を作る。
二度三度と湯を流して偏執的に洗い上げ、そこまでやってようやく金の髪は満足したようで、今度は隣に座り直し結ったままにしていた長い長い髪を解く。三つ編みを二本つくり、それで髪を束ね後頭部の高い所で団子にする編み方は髪の長さを暈していたが、解かれた髪は腰元に達するほどに長い。
護衛依頼ともなれば着たきり雀で数ヶ月も旅をする冒険者が、よくぞここまで綺麗に伸ばせたものだと感心するほど惚れ惚れする長髪。人ならざる者の加護があり、見惚れた貴種の娘が飾りとして欲したと謡われるのが分かるほどだった。
この髪で組紐を作れば、さぞ美しく手首を飾れることであろう。
「じゃあ、次は私の番だな」
「ああ、任された」
冒険者達は遠慮の無い言葉に大変驚いた。特に彼との付き合いが長い剣友会の者は、長いから手間だろうと言って今まで誰にも任せていなかった、彼の代名詞たる髪を他人の手に委ねたことに驚愕する。
魔法使いは剣士の後ろに立ち、美術品に触れるような厳かな手付きで髪を手に取った。
そして、長い髪を指の間で遊ばせ……誰にも見えぬよう気を遣い、慈しむように唇を堕とした…………。
【Tips】恩賜浴場は都市衛生を行き渡らせるため無料であることが原則であるが、財源に乏しい地方においては入湯料を取ることがある。
※湯船に浸かる前はタオルで腰を隠しています。
なんでこの人、女性陣の裸より野郎の裸の描写ばかり入れてんですかねぇ……(困惑)
補記:表題は三人称視点が終わったら切り替わります。




