青年期 十六歳の秋 三
何か偉大なことを成し遂げたであろう男の顔というものは、男が見ても惚れてしまうものなのだなと実感できた。
「ただいま」
秋の日の昼下がり、農民達が刈り入れや納税の準備で大童になっている頃にフィデリオ氏は雑嚢を抱えて帰って来た。その体は方々に包帯が巻かれ、頬には大きな綿紗が宛がわれており激戦の残り香が漂っている。
しかしあくまで物腰は穏やかに、悩みを解きほぐす優しい聴罪僧の雰囲気を崩さずに氏は微笑みを携えて帰参を告げる。
「お前様!」
客が数人居るにも拘わらず、女将さんは盆を投げるように置き――それでも中身を溢さないのは流石の年期――カウンターをひらりと飛び越え衝車もかくやの勢いで胸に飛び込んだ。
「遅いじゃないの! 刈り入れが始まる頃には戻るって言ったのに!!」
「すまないねシャイマー、全員ボロボロで動くに動けなかったんだ」
今まで気丈に心配の一言も漏らさず宿を回してきた女将さんの言葉には涙が滲み、猫人が喜ぶときに発する喉の唸りを高鳴らす。そんな彼女を包むように抱き留めていた英雄は、ここではなんだからと妻を横抱きに抱え上げる。
「おかえりなさい、フィデリオさん」
「無事のご帰還、何よりですわ」
酒場のスペースで女将さんを手伝っていた我々も帰参を言祝げば、氏は屈託のない笑みを向けてくれる。
「ああ、二人ともただいま。すまないが、暫く店を任せても?」
勿論と元気よく応えた。なんなら暫くと言わず朝までずっとでも構わないとも。これでも仕事に出ない時か、日帰り仕事の時は毎日お手伝いしているのだからウェイターの真似事くらいは勤め上げてみせる。女将さんほどではないが、私も黒茶を煎れるのは結構上手い方だし、マルギットが作る軽食もなかなかの物なのだ。
それに御勘定の必要が出てきても、騒ぎを聞きつけてやってきた旦那様がいらっしゃるから心配ご無用だ。耳を伏せ、仕方ねぇなと言いたげな顔をしていらっしゃるので旦那様も同じ気持ちだと思うしね。
お前様、お前様と嬉しそうに涙声で喉を鳴らす妻を連れ、また何か偉業を為してきたであろう英雄は足音も立てず店の奥へ消えていく。
それと同時、店の中に響くは溜息の多重奏。ああ、これが尊みか……としみじみ感じ入るそれは、客と私達のクソデカ感情が完全に一致した証左であった。
「いいねぇ、帰陣の光景はいつだって最高の一幕だ。これがあるから物語は華やぐ」
派手な格好をした常連が黒茶を啜って呟いた。彼はこの地を中心に活動している吟遊詩人であり、かなりの名うてとして通っているお得意様だ。部屋も一番上等なものを年間契約で借り切っており、作詩はいつもそこでやっているそうな。
六弦琴の名手――ギターに近い楽器だ――たる彼は帝城に招かれて公演したこともある有名人で、特に“聖者は征く”という英雄譚の作者として名高い。
そう、他ならぬフィデリオ氏の物語だ。
氏は誇張が過ぎるとして、彼のことを“ヘボ詩人”だとか“三文物書き”と呼んでいるが、その言葉に親しみが込められていることを誰もが察していた。
元々は取材から始まっただろう仲であるが、冒険者として憧れずにはいられない間柄だな。
なんといっても詩人こそが一番のファンなのだ。然もなくば、情感たっぷりに物語を紡ぎ、何度となく歌い上げることなど能うまい。
「英雄は帰り着く、ただ常の如く、微笑みを纏い、小用を片付けたるかの如く、勲章たる傷を誇りもせずに……いや、ちと諄いか? もう少し簡潔に……」
「おっ、始まったぞ先生の仕事が」
「絡みすぎてドつかれねぇでくださいよ!」
小声なのに明朗に響くバリトンの歌声、懐から取り出した覚え書きの帳面に書き付けしながら詩を紡ぐ詩人に他の常連達も嬉しそうに反応する。街に住みながらもこの店で穏やかな午後を過ごすことを好む人たちは、広場で人の黒山を作る男が新作の試し弾きをしにくることを目当てにして集まっている節もある。
それはきっと、彼なりの恩返しでもあるのだろう。店の名を派手に喧伝するでもなく、静かに“弁えた”客を集めてやるための。
いいねぇ、いつか私も詩に歌われてみたいものだ。
あ、そうだ、その内にジークフリートも誘ってやろう。彼もフィデリオ氏の英雄譚を好きな英雄譚の一つに挙げていたからな。たしか運河をせき止める巨大な無肢竜を退治した話をいたく気に入っていたようだし。今度、連れてきてもいいか一度お伺いを立ててみるか。
詩人の染み入る声を聞きながら、英雄の物語に思いを馳せ午後に浸る。
私達が土産話をせがむのは、次の日の昼にやっと面映ゆそうに降りてきた夫婦が落ち着いてからになった…………。
【Tips】吟遊詩人。様々な詩を楽器の伴奏と共に語る物語の紬手。英雄達の偉業は彼らの口から旋律に乗って語られ、誉れ高く後の世に繋げられる。冒険者の最初のファンにして終の伴侶と呼んでもよい。
二度と一緒に仕事などするか、と内心で固く誓ったいけ好かない金髪の顔面に拳を叩き込みたい気持ちを抑え、英雄志願の少年は深く息を吐いた。
「やぁ、ジークフリート、奇遇だな」
奇遇だなも何も組合で冒険者が出会うことに運もへったくれもあるまい。それに、少し前に“死ぬような目に遭った”せいで、少し遅れたが階級で並んだのだから依頼を張った衝立の前で合う確率も増したというのに。
英雄を志す少年は少し前のことを思い出し、苦虫をグロス単位でかみつぶし、ついでもって奥歯に引っかかって飲み込み損ねたような渋面を作る。
あれは本当に酷かった。付近を掠める矢、突き込まれた槍の穂先に引き裂かれる旅装の裾、そして容赦なく降りかかる生暖かい血飛沫。
どれもこれも今でも夢に見る。悪夢に飛び起き、幼馴染みを何度心配させてしまったものか。
「こんにちは、エーリヒ」
「ええ、カーヤもご機嫌よう」
だのに幼馴染みが胡散臭い笑みの金髪を気に入っているのが気にくわなかった。話を聞けば、旅の間何くれとなく気を遣われ、知らない薬草の調合を教えて貰ったと上機嫌に話すのが少年の心をざわめかせる。
話を聞いて以降、それくらい俺にもできると荷物を持ってやったりするようになった少年は、挨拶は良いから何の用だと突き放すように問うた。これ以上関わり合いになると、絶対に碌な目に遭わないと、魂のどこか深い所が囁くのだ。
故にさっさと話題を切り上げ、仕事を選びにかかりたかった。ジークフリートには金が必要だったからだ。
紅玉になったからといって赤貧度合いがマシになったかと言えば断じて否であり、未だに三食の内二食は麦がらが混じる安い麦粥で誤魔化す程度に金がない。宿代を出し、日々の雑費や仕事の下準備をすれば残る額は雀の涙。
だのに、大事な大事な手槍の柄がへし折れてしまった。
数日前に受けた仕事でヘマをしたのだ。用心棒という名目で酒保に立っていたが、そこで酔っ払った客を受け止めようとして失敗し……転倒した際、小脇に挟んでいた手槍が最悪な角度で壁の隙間に挟まった。
支点力点作用点、極めて運が悪く単純な図式が相まって手槍は真っ二つに折れてしまった。
幸いにも穂先は無事であり、そもそも槍の柄など消耗品ともいえるのだが、日銭に困る冒険者には大問題。慌てて研ぎを頼んでいる武具工房に顔を出せば、新しい柄の新調には二五リブラも必要だという。
思わず目が飛び出そうになる金額であった。しかし、一から木を削り、きちんとした品質の柄が欲しいならこれくらいは必須だと言われればぐぅの根も出ない。それこそ、適当な枝きれを拾ってきて自分で作るのとは訳が違うプロの仕事だ。むしろ初心者冒険者だからと、幾らか贔屓して貰っている方でさえあった。
手槍は剣を頼みとする者でも必要だ。獣が相手ならば長物が欲しくなるし、他の冒険者も多くが槍を採用しているため、急場の戦列を組む際に必要不可欠だ。むしろ、本当に剣と盾一本で動き回っている目の前の金髪の方が珍しいのだ。
自作の何時折れるとも知れぬ握り心地が悪い柄に命を預けたくないので、彼にはどうしても金が必要だった。
しかし紅玉では面倒な仕事でも稼げて銀貨が一枚か二枚。生活費をさっ引けば費用を稼ぐのに何ヶ月必要になるか分かったものではない。
斯様な境遇でエーリヒが持ちかけた話は毒のように甘く苦いものであった。
「先ほどだね、ご指名の護衛依頼をいただいてしまったんだ。この間、野盗に襲われたことがあっただろう? あれが隊商主の間で噂になったようでね。紅玉なのに仕事ができるからと日当一リブラ五〇アスで依頼が来てね。そこで、よければ“幸運のジークフリート”もと言っているそうなんだが」
一リブラ五〇アス! と金額を聞いてジークフリートは跳び上がりそうになった。紅玉が賑やかしとして雇われる護衛仕事の日当は平均で五〇アス。それも隊商で食事やらの面倒を見て貰えば減額される安い仕事だ。
しかしながら、相場の三倍といえば、ある程度護衛としての力量も期待される一つ上の階級の金額に近い。正規の琥珀であれば二から三リブラは必要になるが、紅玉でそれ並みの仕事をする者を安く雇えるならとお声がかかったのだろう。
実に魅力的であった。一日で三日働いた額の報酬。その上、隊商護衛なので宿代が期間中は浮き、期間によってはかなり稼げることになる。
「……き、期間と目的地は?」
理性は脳内でさっさと断れと警鐘を乱打するが、浅ましい本能が口を動かした。
最寄りの衛星諸国の名と往復で厳冬期までと聞き、今まで頼りなくも縋り付いていた理性が欲望に容易く引き剥がされ、あっけなく現実に撲殺される。
知らぬ内にジークフリートはエーリヒから差し出される手を取っていた。
「よかった。私も君が着いてきてくれるなら心強いよ」
何を白々しいと思わないでもなかったが、金が稼げるのであれば隔意を収めよう。差し迫って金が必要であり、選んでいる余裕はないのだとジークフリートは苦手な愛想笑いを作ってみせる。
「それに安心してくれ、今回は馬車七台で専属護衛が一〇人もいる大規模な隊商だ。個人営業主の帯同も募っているし、もしかしたら三桁にも達する大規模なものになるかもしれないぞ。道中に本格的な仕事はないはずさ」
それを聞いて安心した。専属の護衛が一〇人も居るなら相当に有力な隊商のはず。単に剣をぶら下げたそこいらのあんちゃんを“護衛”と称している訳ではあるまいし、更にかさましの冒険者が雇われるなら安心感はいや増していき、人数三桁ともなれば至れり尽くせりの大船気分だ。
確かに前の隊商もボチボチの規模だから安心していたが、今回はそれ以上となれば全く不安はない。こんな大規模な隊商に襲いかかる阿呆は余程でもなければいないのだから。
それこそ高額な懸賞金が掛けられ、軍勢にも等しい手勢を率いていなければ。
「そうそう、専属護衛にも二つ名持ちの名高い人が居るそうだよ。詩にまではなっていないみたいだが、尚のこと安全だね。やっぱり上質な宝石を扱う商人は金払いもいい」
更に二つ名持ちのお墨付きまでやってきたら、もう何の文句もつけようがない。石で出来ており立派な鉄製の補強が入った橋を徒歩で渡るようなものだ。一体何の心配があろうというのか。
出立は来週になると聞いてジークフリートは早速準備をすることにした。季節を跨ぐ遠出になるなら必要になる物は多いし、この辺は雪こそ降らねど普通に冷えるので少し上等な毛布なども必要になる。
どうせ仕事中に手槍が必要になることはなかろうし、帰って来たら直せばいいだろう。剣さえぶら下げていれば護衛としての格好もつく。
「よかったね、ディー」
はにかみつつ声を掛けてくれる幼馴染みに、だからジークフリートって呼べよと軽口を叩きつつも少年は口角が上がるのを止められなかった。
帰ってくる頃には手槍の柄を新調、いや、鉄芯入りの上等な柄に入れ替えることもできそうな報酬に心が躍る。鎧を買うために貯めている貯金の足しにもなる。あの金髪が着ているような――そも、あの年齢と階級でどうやって仕入れたのか――立派な鎧が早く欲しい。
ああ、いや、幼馴染みのローブも襤褸くなってきているので、反物を買ってやる方が良いだろうか? 彼女は自分で仕立てられるが、それも生地あってのものだからな。いつも好んでいる若草色の良質品を探してやろう。
そんな大きな皮算用をしながら去って行く少年は知らなかった。
差し出される手には特大の毒が塗られていたことを。
そして、今後、そんな特別甘いけれど死なない程度に美味い毒が何度となく差し出される己の境遇のことを。
今はまだ。
ただ、それはそれで幸せなことだろう。新しく格好良い槍の柄や、幼馴染みの喜ぶ顔を考えていられる間に苦痛はない。矢玉を霰と浴びてベソと色々な物を垂れ流す瞬間まで苦しみと縁遠くいられることのなんと幸運なことか。
それに考えても見るとよい。冒険者など苦難が性質の悪い悪妻やヒモ男のようについて回る職だ。仕事がないための飢え、中々昇級できぬことによる焦燥、予想外の支出が立て続くため装備を更新できぬ苦悶。
挙げ句の果てに冒険者という職歴はさして役に立たぬ。荒くれや破落戸のヤクザ者扱いされるだけで、やめて就職しようにも低い階級のままでは大変な苦労が伴おう。
塗炭の苦しみに長々と締め付けるよう苛められるのと、一瞬の艱苦に命を賭けて偉業を拾う。元来、冒険者とは後者を選ぶべくしてなる職業なのだ。
故にジークフリートは笑う、高収入の仕事を期待して。
故にジークフリートは叫ぶ、こんなはずではなかったと。
されど彼は折れぬ。ちっぽけな矜恃のために。幼い憧憬を捨てぬために。
しかし、世界とは、生きるとは、全てが思い通りだと満面に笑みを浮かべて送ることができるようなものではないのだ…………。
【Tips】武器の価格は公定価格が決められているため、真っ当な手段で手に入れようとすると前線が近かろうとも相応の値がするものである。
また、取得した剣を職工同業者組合に売却する場合は、取得の申請が必要となる。それが非合法に手に入れたものではないと証明するために。尚、戦や野盗への防戦による追い剥ぎは非合法に含まれないものとする。
ああっ、逃れられない!
ジークフリートは今後もこんな感じで必要に迫られて、ぱっとみ優良な罠仕事に誘われます。
騙して悪いが、とエーリヒが口にしない分怒るに怒れず、かといって旨みもあるので切るのは惜しいという実に鬱陶しい同期。
そしてここで時間が跳び、やっとこ本格的な冒険が始まりますよ。




