ヘンダーソンスケール1.0 Ver0.1.1
ヘンダーソンスケール1.0 致命的な脱線によりエンディングへの到達が不可能になる。
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の続きになります。
優しい感覚で目を覚ますのに慣れて、どれほどの時間が過ぎただろうか。
ゆっくり水底から浮かび上がるような目覚めに意識を取り戻せば、唇に柔らかな感覚があり鼻腔を甘い匂いが擽る。
触れるような口づけ。慈しみを感じる接吻により目が覚めることの贅沢さよ。
ただ、今日はもっと贅沢をしたい気分になったので、目は閉じたまま寝たふりをする。
とはいえ彼女も私と連れ添って長い。これくらいの演技はとっくに見抜き、私が目を覚ましていることくらい分かるだろう。なにせお互い、遠くで小枝が踏み折られる程度の音でも目を覚ます戦闘民族だ。ここまでされて起きなければ、相当具合が悪いか死んでいるかのどちからである。
「もう、仕方ありませんわね」
鈴が転がるような愛らしい声。文言に反して愉快そうな声音と共に再度の口づけ。
しかし、今度はそれで止まらなかった。
小さな舌先が唇を探るかの如く擽り、寝ていて乾いたそこへ潤いを与える。そして、僅かに開いた部分を見つければ、ゆっくりと這うように歯と唇の合間に侵入してきた。
こつこつと門歯をノックされたかと思えば、唇を唇でしゃぶられる。心地よいくすぐったさに思わず口を開けば、一瞬の隙を見逃さず口腔へ舌が侵略してきた。
蠱惑的な柔軟さを持つ桃色の侵略者は、口の奥で縮こまっていた同類を遠慮無く捕まえ、なめ回し、絡め取り、口中より引っ張り出して自陣に連れ込み蹂躙する。
音を立ててしゃぶり、痛みを感じさせぬ程度に噛み倒し、軟体生物の交合もかくやに踊らせる。
顎を唾液が伝い、生暖かく愛おしい熱が首筋に達する頃、漸く私の舌は侵略者の魔の手から解放された。
目を開けば、そこには満面の笑みを浮かべた丸い童顔、悪戯っぽく歪められた琥珀の目、紅も差していないのに嫌に赤い唇は荒い目覚ましによって艶を帯び、頬は興奮に上気して食べ頃を迎えた桃のよう。
「おはよう。お目覚めは如何?」
「ああ、おはよう。最高の気分だよ」
愛しの我妻、マルギットの弾けるような可愛らしさは今日も健在であった。
「じゃあ起きてちょうだいな愛しの旦那様。そろそろ独り寝に慣れないうちの子がぐずりながらやってきましてよ?」
仰向けに寝ていた私の上に跨がって唇を弄んだ妻は、当然の如く一糸まとわぬ姿であった。ひょいと寝台に降りたって丁寧に手入れした――やったのは私だが――髪を手ぐしで整え、体の前に回してサイドで緩く括って整えると、なだらかな新雪も霞む背中が露わになる。
そんな雪原を舞うのは一匹の黒い蝶。透かし彫りのようなデザインの羽を腰の裏側で広げる姿は、黒い揚羽蝶を連想させる。
色っぽい虫といえば何が思い当たります? と婚姻後暫くして聞かれた時、何とも為しに答えたら、数日後にこれが後ろ姿を彩っていた時は実に驚いたものだ。今では見慣れてしまい、ただ美しいという感想だけが浮かぶものの、当初はギャップのせいで見る度に頭がクラクラしたものだ。
「もう、そんなに見ても駄目ですわよ? 今日はとっても大事な日なんですから」
視線に感づかれたのか、首だけで振り向き彼女は窘めるようにそういった。なら、敢えて気になるようチラチラ上体を傾けるのはやめていただきたい。悪い男になってしまいそうだから。
「いや、たまには昔の髪型も見たいなと思ってね」
されど、あまり浅ましい思考を見せては格好悪いので苦しい誤魔化しを口にしながら起き上がる。垂れた唾液を手の甲で拭い、寝間着にしている古着を脱ぎ捨て、前日に寝台脇に畳んで置いてあった着替えに手を伸ばす。
それは体の線に沿うようデザインされ、偏執的なまでに細かな縫製で作られた、深い紺色の装束だった。
女郎蜘蛛種の蜘蛛人ほど糸を大量に出せぬ蠅捕蜘蛛種の蜘蛛人が、生涯に数着分しか用意できぬ糸を用いて織り上げる狩人装束。体の線に沿ったデザインは衣擦れの音を極限まで殺し、紺色の色合いは闇夜に紛れ樹上でも迷彩として機能する考え抜かれた逸品。
婚姻に際してマルギットから贈られた、鎧に並ぶ私の戦装束だ。
伸縮性に富み肌触りの良い装束へ体をねじ込むように納めれば、とてとてと短いスパンで床を踏む足音が戸口から聞こえてきた。
そして、数秒の後に遠慮するように開かれるドア。指数本分だけ開かれた隙間から覗くのは、世界で一番可愛い少女の顔。
差し込む朝日を反射して綺麗に輝く金細工の髪。澄んだ碧色ながら瞳孔の縁に近づくに至って沈んでゆく複雑な虹彩の瞳。顔つきは愛しの妻にうり二つながら、目と髪だけは私とよく似た少女は口をまごつかせ、ドアを上手くくぐれずにいる。
「父様……母様……」
今日をもって七歳になる最愛の娘、イゾルデが私達を起こしに来た。ドアに隠れて見えていないけれど、きっと誕生祝いとして枕元に添えた機械式の弩弓と狩猟用の大型短刀を抱えていることだろう。
「おはようイゾルデ。七歳の誕生日おめでとう」
「良い朝ですわね、イゾルデ。絶好の狩猟日和りですわよ」
今日は彼女の誕生日にして、初めて狩りの手ほどきを受ける日。さぁ、素敵な誕生日になるよう精一杯頑張ろうか…………。
【Tips】蜘蛛人の狩人装束。自分達が出す糸を丁寧に集めて紡績し、織り上げた布で作り出す特別な装束。頑張っても三着ほどしか生涯に生産できぬため、特別な相手にのみ贈られ、時には先祖の物を直して着ることもある。
しなやかにして強靱で、体に張り付くそれは衣擦れを殺し、伸縮性に富むため動きを阻害しない。そして生半可な刃で切り裂けぬ頑強性は着る者の身を強固に守る。
狩猟とは大半が捜索と待ちの時間だ。
林を行く獲物の痕跡を探し、位置を予測し、待ち構え、時にいぶり出して追い込む。そして決着をつけるのは弓弦から手を放す、或いは弩弓の引き金を絞るほんの一瞬だけ。
狩りとは忍耐と執念に依って成立する、極めて根気が必要な作業なのだ。
その点、我が娘には大変な才能があるようだった。
じぃっと樹上にて身を潜め、練習用ではなく初めて自分専用に作られた弩弓を構える姿は実に堂に入っている。まるでそっくりに作られた彫像の如く微動だにすることはなく、呼吸は静かで隣の枝に陣取って尚聞こえない。
元々蜘蛛人は狩猟で身を立てる種族であり、徘徊して奇襲により獲物を仕留める蠅捕蜘蛛種は伏撃に関して天与の才を持つ。
ヒト種とは構造が異なる骨格は長時間身動ぎもせず待機しても苦痛を訴える事はなく、準備運動を要さず最高速へと移ることができる。そして特徴的な蜘蛛の下肢は、不安定な場において溶接しているかのように体を落ち着ける。
なにより驚嘆に値すべきは、獲物を待って何時間でも何日でも一所で粘り続けられる精神性。ヒト種であれば、余程適性がなければなしえない難事を彼女たちは当然の如くやってのける。
暇だと意識を散らすこともなければ、緊張に耐えかねて間抜けにあくびを漏らすこともない。
正しく天性の狩猟者。同じ土台で競り合って勝利できる種族がどれほど居るだろう。
こうやってじぃっと獲物を待ち受けて長い。陽の傾き具合から察するに三時間は待ち続けているだろう。同じ年頃の子供であれば、疾うの昔に飽きてぶちぶち文句を言っているであろうにイゾルデは小言の一つも言わずに待ち続けている。
三人で林を歩き見つけた獣道。糞などから鹿の存在を察知できたことが、それ程に嬉しかったのだろうか。
しかし、こうやって樹上で獲物を待ち受けていると懐かしさを感じる。よくマルギットと並び、冒険に出るための予算を稼ぐ準備をしたっけな。たしか、あの日も待っていたのは鹿だったはずだ。
鹿は代官許しの猟師において最も一般的な獲物だ。
肉を食い皮を剥ぐことは勿論であるが、鹿という生き物は林業にも農業にも大敵であるが故。
彼らは農作物を食い荒らすことは勿論、国の根幹に拘わる林業によって植えられた若木を好んで荒らし、育った木も皮を食って殺してしまう。建材が足りねば街が発展することは勿論、煮炊きの薪にも苦労することになるため正しく死活問題なのだ。
故に我々、荘にて暮らす代官許しの猟師は一定の駆除を申しつけられている。年貢の代わりに討伐の証として牡鹿であれば角を一揃い、牝鹿であれば前足の蹄を一揃い納めねばならない。
故に最も狙い、最も狩る生き物が鹿であった。
かといって容易い相手かといえば断じて否だ。イノシシの恐るべき突進力と頑強性があるわけでもなく、狼のように群れを構成して数の力と戦術により殺しにかかってくることもなければ、熊みたいに理不尽な暴力を携えてもいない。
されど、優美に発達した足の移動力は凄まじく、被捕食者であるがための警戒心はうすらデカい人類種の存在を容易に見つけ出す。
今より狩猟具が比べものにならぬほど発達した前世でも簡単に獲れる相手ではなかったのだ。より原始的に、より泥臭く挑む中で狩る難易度は実に高い。
こうやって獣道を見つけ出し、伏せて待っていてもほんの僅かな違和感で通る道を変えることさえある。どれほど優れた弓の腕を持とうと、射程に入ってくれねば逆立ちしたってどうにもならぬ故、本当に難しい相手なのだ。
まぁ、それは別に良い。新人狩人見習いに狩りの本質を教えることにも繋がる。こんな日もあるさ、という諦めにも似た学びは、いつか必ず必要になるのだから。
ただ、我が娘は運に恵まれていたらしい。
長い雌伏の時間に報いるかのように獲物は静々と現れた。
若い牡鹿だ。まだ体躯は育ちきっていないのか小振りであるが、角は立派なので獲っても問題ない。あまり若い個体を狩ると、今度は荘に供給する肉が減るため獲りすぎても問題がある。
空気がぴんと張り詰めるのが分かった。今まで静かだったイゾルデが、一度だけ音を立てて息を吸う。
まだ遠い、私は窘めるように優しく彼女の肩を触った。
歩数で言えば一五〇歩、やっと視界に入っただけで、有効射程内ではない。最低でもあと七〇歩、欲を言えば五〇歩の距離に入ってから撃ったほうがいい。
弩弓のボルトは甲冑でさえ抜く威力を誇るものの、空気抵抗によって威力は大きく削られる。それに動物の生命力は人間が思うよりずっと高く、即死する場所に当たらなければ血を流しながら何kmと逃げ続けられるのだから。
そうなれば自分にとっても相手にとっても悲惨極まる。獲物が獲れぬ猟師もだが、先のない逃走と痛みに苛まれる獲物の悲運といえば想像するに申し訳なくなるほど。
殺す側が何をと思うかもしれないが、我々は殺して食わねば生きていけないのだ。なら、せめて少しでも苦痛が少なくと思うって何が悪いのか。
偽善やもしれぬが、それが善であるなら無いよりあった方がずっといいだろう?
間合いが詰まるのを見て、そっと手を放した。お前の腕ならもう当たるよ、と教えてやるために。
私の意図を察してか、手を放すのと殆ど同時、弩弓の機構が弓弦を解き放ち大気を切り裂く音がした。
ボルトは瞬く間に宙を駆け、鹿の胸に突き刺さる。微かに血飛沫が舞い、彼は悲鳴を上げて数歩走った後……力尽きて倒れた。
バイタルパートを一指し。位置からして心臓を一撃だ。本当は余計に血が回ってしまうから味が落ちるので、頭を潰して即死させたほうが美味しいのだが初めての狩りなら大したものか。
「やった……!」
小さな歓喜の声を上げるイゾルデの頭を撫でてやる。視界の端では、外したり半矢――当てても仕留め損ねること――になった時に備えて、別の木で待機していたマルギットが飛び降りているのが見える。
手に縄を持っているので、さっさと川に運んで冷やしに行こうとしているのだ。
「ねぇ、父様! 父様! やりました!」
「ああ、凄いなイゾルデ、良い子だ。とてもいい腕だったぞ」
木の上でも地面と変わらぬように危なげなくはしゃいで飛びついてくる娘を受け止めると、あの日の光景が脳裏に浮かぶ。
本当に懐かしい。あの時、待ち受けていたのは鹿だったけれど、やってきたのは群狼の群れだった。
七頭の成犬と数頭の子犬からなる群れは、どこかから追いやられてきたのだろうか。酷く飢えて痩せていて……反比例するように凶暴だった。
普通ならやり過ごし、荘の男衆と自警団総出で狩りに出るべきだろう。
だが、その時は本当に間が悪かった。隣の林で荘の子供達が遊んでいたのだ。幼い頃の私達のように狐とガチョウに興じていた。危険が迫っていることも知らず。
退くことはできなかった。いや、念頭から退くという考えがなかった。
二人とも五体満足で生きていられたのは、サイコロの出目がよかったに過ぎない。二人で成犬七頭の群狼を相手にするのは無茶どころか自殺に片足を突っ込んだような愚行であったから。
それに群狼というのは普通の狼よりも結束力が高く、一頭がやられれば復讐のため勢いをいや増して襲いかかり、最期の番いになるまで退かぬのだ。こちらが死ぬか、相手を全滅させるかの戦いは獣に比べて脆い人類種にとって凄まじく不利な戦いである。
無我夢中で戦い、ボロボロになりながらも私達は生き延びた。
そして、そして……まぁ、生き延びた興奮とか、死を前にして子孫を残そうとする本能とかが働いてね、仲良くしてしまった結果なんだよ。
ほんと、あの時はも燃えあがっ……違う違う、娘を褒めながらなんつぅ雑念を抱いてるんだ、自制しろ私。
「さぁ、イゾルデ、狩りは撃って終わりじゃないぞ。解体も覚えないとな」
何とか表情を正して地面に降り立つ。これからまだまだ狩人として大事なことを教えてやらないといけないからな。解体はきちんとやらないと、肉が不味くなってしまうことだし。
にやにや私を見る妻の顔から、あー、きっとあの時のことを思い出していたと悟られているのだろうなーと察しつつ、私は何食わぬ顔で妻の手から縄を取り上げ、鹿の足に括るのであった…………。
【Tips】群狼。中央大陸に広く生息する狼の一種。魔獣と獣の中間とも言える高い知能を持ったイヌ科動物であり、成体は平均して胴体長1.5m、体重90kgほどと極めて大型で、雌の方が雄より僅かに大きくなる傾向がある。
知能が高く、群れの中の結束を重んじ、他の獣と違って一頭が殺されると逃げるのではなく“仇討ち”に走る傾向があるため極めて危険。
とても素敵なファンアートを頂いたので突発的更新。
キスだけなのでノクターンでやれとは言われまい。
ファンアートに関してはTwitterにてどうぞ。
なんどかRTしているのと、タイトルで検索していただいたら直近の投稿なので簡単に引っかかるかと。
あと投稿主様のpixivにも記載があるので、是非どうぞ。
これを機に書いてくれる人が増えたら実に嬉しいですな。




