青年期 十五歳の初夏一〇
「本来は夕方にならないと店には出ないんだけどね」
彼、聖者フィデリオは前置きして四人がけ席に移った私達の前に座った。
「こうも天気が悪いと朝来もできないから……さて、改めて名乗ろう。僕はフィデリオ、アイリアのフィデリオだ。陽導神を崇める在俗僧で冒険者をやっている」
名前と生地を重ねる簡素な自己紹介は、家名を持つような身分ではないことを表す。一拍おいて自分のために入れてきたお茶が啜られる。
「断じて聖者などと呼ばれるべき身分ではないよ」
謙遜ではなく、強い自負と……どこか自戒を感じさせる強い言葉であった。
「冒険者としての色は青玉だ。これも身に余る色だけど、一応は君たちの先輩にあたる」
冒険譚が語られるほどの勇者にして、同業者の間でも“絶対に怒らせるな”と畏怖されるだけあって預かっている位は上から三番目。実質的には二番目という凄まじい英雄であった。
冒険者の階級というのは単なる強さの指標ではなく、冒険者同業組合が示す信頼の深さでもある。下級の組合証が身分証にならず単なる組合内での紐付けであるとするなら、上位の階級はそれだけで組合が対外的に「この人物は我々が身分と実力を保障します」と表すものなのだ。
青玉ともなれば領内の関所どころか国内の何処へでも通して貰えるだろうし、国外への出国も相当の便宜をはかって貰えるだろう。それこそ私がアグリッピナ氏に認めて貰った紹介状にも劣らぬ効力があるはず。
つまり戦闘能力だけではなく、それだけの人品も兼ね備えているということでもある。
上位者以外への謙遜が美徳にならぬ三重帝国において、自身の威名を否定することの意味は前世より尚も深い。なればこそ、氏族を作らぬ独立した冒険者である氏に組合は高い位階を与えたのだろう。
無駄に特権を振りかざされては、組合も人分達の格に拘わってきて大変だしな。
「それで、ここは冒険者向けの酒保じゃないんだ。僕は縁あって……」
「アタシの旦那だしね」
「ん……まぁ、色々な縁もあって特別に寄せて貰っているが、本来は旅人や商人向けの宿だ」
おっと、いきなり惚気が跳んできたぞ。悲壮感を感じさせる過去が二人の間にはあるようでも、どうやら決して責任感とか義務感とかで結婚したのではないという深い愛情が窺える。
「だから冒険者のお客は普段遠慮して貰っているんだが……態々僕の名前を聞いて尋ねてきたということは、誰かの紹介があってかな?」
咳払いを一つしてからの問いかけに私は門の前で出会った禿頭の冒険者、ヘンゼル氏の名前を出した。すると、彼は「またか」とでも言いたげにくせ毛を掻き上げて溜息を溢した。
「彼は僕の友人だ。一党を名乗っているつもりはないが、よく仕事を共にするんでね……まったく、少しでも気に入った子は直ぐに僕の所に寄越すから困るね」
「それだけ信頼して貰える友人ってのは貴重でしょ。あの人もたまには家に呑みにくればいいのに」
「彼の場合は好奇心の方が強いんだよ。なにより、家に来て良い酒を全部飲まれてはこまる。あれは量だけあればいいって手合いなんだよ。なのに僕のアルマンを……」
「はいはい、氷を入れて飲むなんて、ね。もう百回聞いたわよ、お酒に五月蠅いお前様」
愚痴混じりの台詞には紛れもなく親愛の情が滲んでいる。たしかアルマンというのは林檎の酒を蒸留して作るブランデーのような蒸留酒の名門だったはず。少し暖めて香りを楽しむのが最上とされる銘酒に氷をぶち込んでガブガブやられたといったら……うん、そりゃずっと文句言うのも分かるな。
むしろ相当に仲が良くなかったら刃傷沙汰だぞ。特に血の気が多く酒に目のない冒険者とあったなら。
「それで、君たちは見たところ……いや、冒険者としては初心者だけど、かなり“使う”方だね」
聖者は愚痴を斬り上げて再度の咳払いで気を直す。私達が彼を強者であると見抜いたように、彼も私達を昨日今日得物をぶら下げてマルスハイムで一旗揚げようとしている初心者ではないと見抜いたようだ。
うむ、少なくともLv1ファイターを名乗る上では荒事の初心者ではない。二人とも初陣なんて疾うに済ませているし、素人扱いされなくてよかった。
「私は自警団で訓練を少し。それと護衛の真似事も少々」
「荘で猟師をしておりましたわ。イノシシや鹿と戯れる日々でしたので、少しは弓と短刀が扱えましてよ」
ただまぁ、名だたる実力者の前では赤ん坊みたいなものだ。これぞ正しい意味で謙遜をしてみせた。
「少々……?」と首を傾げられたのにちょっと思うところはあるけれど、何も間違ったことは言っていない。
「ふむ……ということは鍛えてやれ、というより冒険者のABCを教えてやれ、ということか」
おお、なんとも嬉しいことを聞いた。ロレンス氏はエッボを通して私に氏族などの慣習、いわゆる“縄張り”などを教えてくれたが仕事のことは教えてくれなかったからな。フィデリオ氏の口ぶりからしてヘンゼル氏も全くの善意だけではなく、さっさと階級を上げさせて私達に何かをさせようと目論んでの紹介だと分かるけれど、得になるならなんだっていいぞ。
「それにしてもなんというタイミングかな。ちょうど前の子が巣立った所で……」
「あら、いいじゃない、なんだかんだで楽しそうにしてたもの」
「そんなことはないさ。お義父上は冒険者が此処に来ると迷惑そうにしていたじゃないか」
「父は父でしょ、父が感じていることとお前様が感じていることが全部同じだとでもいいたくって?」
いや、それはと言いよどむフィデリオ氏を制し、御内儀のシャイマーさんはお茶のお代わりを持ってカウンターから出てきた。そして私達にも並々と注いでくれた上で、指をひとつ立てて聞いてくる。
「ねぇ、お若いお二人さん。家事はお得意かしら?」
唐突な問いに二人で顔を見合わせてしまった。
答えは是である。私は側仕えとして物臭な主人の家事を一人で全て代行していたし、マルギットは猟師なれど花嫁修業を立派に熟していたことが見ていれば聞かずとも分かる。少なくとも繕い物や刺繍の腕前は私より数段上だ。
「この人ね、ついこの間の冬まで一組の冒険者の面倒を見てたの。四人組の若い子達でね、一人だけ魔法が使える子がいてとても助かったわ」
猫らしい嫋やかで音のない仕草でフィデリオ氏の隣に腰を掛けると、後ろで長い尻尾が機嫌良さそうに揺れているのが分かった。ぴんと上に向いて立てられた、上体と同じか少し長いくらいのそれはゆったりと揺れ、時折徴発するようにフィデリオ氏の首筋を掠めている。
くすぐったそうに、しかし決して身動ぎしない氏になにやら親近感を感じてしまった。私も前世で実家にいた時は猫と暮らしていたからな。
「ねぇ、この子達、家に寄せてあげましょうよ」
「いや、だけどねシャイマー」
「いいじゃない、お前様の弟子を泊めたげるなんて初めてでもないんだし。どうせ面倒見てあげるんでしょ?」
「まだ決めた訳じゃないよ。僕だって仕事があるし、この夏には少し遠出する予定が……」
「なら尚更よ」
父が膝を悪くしてしまって、二人で切り盛りするのが大変なのは分かっているでしょう? と噛んで含めるように言われて氏は言葉に詰まってしまった。
「それに、そんなこと言いつつどーせ済し崩し的に面倒を見ちゃうんですから。忘れてませんよ? 前の子達もすげなくしておきながら、何度も訪ねられたら結局折れて槍の稽古までつけちゃって」
冒険譚に唄われる聖人に槍の稽古!? なんと羨ましい……私の主武器は剣だけど、必要とあらば槍だって使えるから一手ご指南いただけたりしないだろうか。
「朝と夕方にできるだけお手伝いしてくれるなら、十五アスの宿泊費を五アスにしてあげるから、寝床は家に決めなさいな。二人だけで活動するなら色々大変でしょう?」
「ああ、もう、また君は……そうやって直ぐに面倒を見たがる」
眉尻が下がり本当に困ったような顔をするフィデリオ氏にシャイマーさんは一つ鼻を鳴らして笑ってみせた。
「だから貴方も此処に居るんでしょ?」
妻の強い押し、そして過去を用いた揶揄に対し、夫に返せるものは力ない溜息だけであった…………。
【Tips】子猫の転た寝亭。猫人の親子が経営する行商人と旅人向けの宿。聖者フィデリオの活動拠点であるが、とある一件以後は彼が周囲に強く“警告”したため拠点として使っていることはおおっぴらに語られなくなった。
一見さん大歓迎なれど、基本的に冒険者と傭兵はお断り。
塒に使うように、と通された部屋は質素であるが居心地良く整えられた二人部屋であった。
寝台は多少大柄な種族でも問題なく眠れる大きな物が二つ並んでおり、敷き布団は巻金こそ入っていないものの分厚くて寝心地がいいものだ。シーツは常に洗いたてで使い古したが故の褪色こそあれど石鹸の良い匂いがした。
枕は十分に太っており、頭を乗せれば潰れて板のようになることもない。内側に詰め込んでるのは鳥の羽だろうか。
夏向けの薄手の布団も天気の良い日に定期的に干しているのかカラッと乾いて、皮脂や湿気の混じった陰気な匂いが漂うこともない。これで素泊まり十五アスならば、かなり破格と呼べる品質だな。帝都であれば五十アスとか言われかねないぞ。
長期滞在向けの希望者には収納の貸し出しもやっているようで、鍵付きの収納箱を二つと衣装棚を一つ用意――運び込んだのは自分達だが――してもらい、私の作業用に文机とランプも貸して貰うことができた。勿論燃料代は実費であるが、外で使う頑丈さ優先のランタンよりも光量が強いので書き仕事をするなら必須なのだ。
「手伝った時は朝と夜に賄いを出したげるからね。あ、頑張ったらお昼ご飯も用意したげよっか。普通に食べるときは献立は選べないけど一食四アス。注文するなら、その時々でって感じかな」
女将さん――そう呼べと言われた――の後について子猫の転た寝亭での生活を教わる。建物はコの字型をしており、中庭に洗い場と小さな蒸し風呂、そしてきちんと下水に繋がった手動水洗――要は手前で水を流せと言うことだ――のトイレが備わっていた。
部屋数は全部で十六。三階建てで大部屋は無し、二人から六人向けの個室のみという強気な構造であるが、常に半分は埋まっており、長期滞在も含めれば三分の二は埋まっているとか。春や秋の忙しい期間であれば満室は当たり前で、床に寝床を敷いて二人部屋に三人から四人で泊まることもあるほどだそうだ。
「一番凄かった時は中庭に天幕まで張られたこともあったっけね! まぁ、洗濯の邪魔だからよっぽどじゃないとさせないけどさ」
これほど綺麗でサービスがよければ人気になるのも宜なるかな。酒場のスペース以外にも食堂も設置されているようで、滞在客はそちらで食事をすることが多いとか。
不思議に思ってスペースを分ける理由を聞いてみれば、女将さんは笑って道楽だと答えた。ふむ、道楽……なんだかどんな説明よりも腑に落ちる気がした。
通して貰ったご自慢らしい厨房は、言うだけあってかなり設備が整っている。パンを焼く大きな竈が一基あり、鉄製のそれは専業のパン屋が使うような代物で、三つの煮炊きをする竈も大型で大量調理に向いた立派な造りだ。それ以外に小ぶりな竈も三つ並んでいて、ちょっとした調理にはこちらの方が便利といった所か。
ここは木賃宿として素泊まりで借りている人にも開放しており、薪代さえ出せば自由に使って良いそうだ。手入れも行き届いているし、これを目当てにやってくる客もきっといるのだろうな。
中央にでんと鎮座する調理台は、なんと天面が磨いた鉄で出来ており大量の料理を作るのに勝手が良さそうだ。しかも、漸う見れば炉守神――家事と炊事を司る家守の女神――の聖印が刻印されているではないか。錆びず濁らず、清潔にも優れる全主婦垂涎の設備である。
「どうだい、立派なもんだろう? 家の親父殿が気合いを入れて……」
自慢げに説明する女将さんの言葉に耳慣れぬ異国の言葉が被さった。私の耳では上手くヒアリングできない言葉の発生源に目線をやれば、そこには杖をついた年かさの猫人が佇んでいた。
老齢からか僅かに黒い毛並みが白みを帯び始めた彼は、大型のネコ科動物特有の精悍な顔をしており、痩せてはいるが大柄な体を身綺麗に飾っていた。綿布の仕立てが良いズボンとシャツに黒く染めた前掛け。そして前掛けに金具で引っかけた台帳からして、子猫の転た寝亭の亭主であろう。
そして女将さんの父親にしてフィデリオ氏のお義父上。
猫にしても厳めしい顔からは実直な商売人の色と、同時に自分の拘りのため態々酒場スペースを別に作る趣味人としての筋が通った雰囲気が滲んでいる。
咥えた小枝を器用に落とすことなく異国の、いや、異種族の言語を操る亭主に対して女将さんも異種族語で返す。人の発声と鳴き声に近い音階の混ざり合いは帝国語、というよりも人類種ベースの言語とは体系が違いすぎて理解が難しい。
語調の強さから穏やかな内容なのか、言い争いをしているのかの区別もつかないのだ。こればっかりは体の構造が大分違うから如何ともし難い。
うん、前世でもどれだけ頑張っても猫語の単位はとれなかったからな。語尾ににゃーとつけて話しかけるのとはレベルが違うから仕方ないか。
二人して理解できぬ言語のやりとりをハラハラしながら見守っていたが、やがて会話は終わったのか中々に迫力のある顔つきの亭主殿が私達の前に立った。金色の瞳が鈍く光り、油断のない目つきで見下ろしてくる視線で値踏みされていることがよく分かる。
「初めまして旦那様、今日からお世話になるケーニヒスシュトゥールのエーリヒと申します」
「同じくケーニヒスシュトゥールのマルギットと申します。今後ともよしなにお願いいたしますわ」
何はなくとも挨拶だ。全ての人間関係は挨拶からはじまるのだから。
亭主は咥えた枝を幾度か動かしつつ、難しそうな顔をして私達を見下ろしていたが……。
「手ぇ抜いたらたたき出すぞ」
そういって不思議な食感の掌を頭の上に乗せてから去って行った。
これは、認められたということでいいのだろうか。
「アレがアタシの親父で名前はアドハムだよ。あんな感じで気難しい爺だけど、根は良い人だから許してやってね」
反応に困りかねている私達を笑い、女将さんはさぁてと女給服の袖を巻くって気合いを入れる。それと同時、中庭に面した勝手口からフィデリオ氏が大きな木箱を抱えてやってきた。
箱に満載されているのは大量の野菜ではないか。
「二人とも、冒険の話をする前に仕事だ」
人参を満載した一抱えもある木箱は相当重いだろうに、まるで手紙が入った小箱のような軽い扱いをしてフィデリオは宣言する。
これが冒険者として冒険者に教えを賜るための代価だとしたら、私達が冒険者として初めて行う仕事は“野菜の皮むき”になるのだろうか…………。
【Tips】木賃宿。素泊まりが基本で寝床だけを貸す庶民向けの宿であり、大抵は調理場を解放しているため自分で食事を用意する。宿によっては食事を出して貰える所もあり、木賃宿としても使えるが普通の宿もやっているという混合営業も三重帝国では珍しくない。
響の22年をコークハイにされた苦い思い出。
ということで連休のお供第二弾です。
第二巻発売からそろそろ1ヶ月、流石にAmazonランキングも落ち着いて参りました。
このライトノベルがすごい! の投票もじきに締め切りですので、
もしよろしければご投票いただきたく存じます。
ほら、ここで結果が出ればですね、売り上げが跳ねてコミk(以下検閲削除)