青年期 十五歳の初夏 九
大外套の頭巾を被り、雨に濡れながら街を歩くのは久しぶりだった。
アグリッピナ氏に仕えていた時は馬車での移動が多かったし、魔法の制限もなかったので隔離障壁による守りで雨を気軽に弾いていたから。冷静に立ち返って気付いたのだ、外套が全く濡れないのは不自然ではないかと。
「足下が悪いね」
「そうですわね。下が石畳なのに泥が多いせいで不安定なこと。二本の足では不便でなくって?」
マルスハイムの街路はかなり荒れている。石畳が脱落している部分もあれば、人々が外から持ち込んだ泥が堆積している部分もあり雨が降れば酷い有様だ。宿酔いを抱えたマルギットは不快そうに脚を器用に蠢かせて滑ることもなく歩いているが、二本の足で歩いていると中々に滑るので苦労させられる。
ううむ、これは多少なりとも熟練度を支払って、薄皮一枚の所で障壁を張れるようアドオンを弄るべきか。服は濡れるが体は濡れぬようにせねば不自然さは拭えないが、あまりに精緻な制御は習熟もだが発動の燃費も悪いので悩ましいところである。
「滑らず歩くコツは掴んでるけどね」
ただ、足下だけは要対策なので見えないように魔法を使っている。
単純に着地点に<見えざる手>を展開して地面を踏まないようにしているだけだ。毎度の如く足場にして跳躍や空中での方向転換に使っている技術の応用である。やっていることはシンプルだが、剣士の命である踏み込みが泥で滑らないと考えれば神の如きスキルだな。こればっかりは自分でも上手いこと考えたなと自画自賛しても許されるのではなかろうか。
「ほんと、見ていると羨ましくなるコツですこと」
しみじみと呟く彼女にも使おうかと提案してみれば、踏み心地が気持ち悪いので遠慮すると断られてしまった。狩人として、また蜘蛛人として地面の感覚が直接感じられないのは生理的に受け付けないらしい。
まぁ、分からないでもないか。私も腰にぶら下げる剣の質が悪かったら重心が狂うから気持ち悪くなるし、きっと同業や同種族にしか分からない職業病というやつだな。
「ただ……雨の日はお仕事も考えたほうがよさそうですわね」
「そうだねぇ……余程じゃなければ、宿でのんびりしているのが正解かな」
陽が高くなって来ても尚、雨の中を歩いている人間は少なかった。
それもこれも雨の中を突っ切ってまで仕事をするような文化がないからだ。農家や酪農家なんぞと違い、雨が降ろうが風が吹こうが仕事をするのは近世になってからのことであり、この時代においては天気が悪ければおやすみににするというのは実に普通のことである。
なんといっても効率が悪いからね。それだけではなく普通に危ないというのもあるし。ゴム底のグリップ力が強い靴なんて無い中で力仕事や土木工事ができるはずもなく、余程の急ぎ以外でなければお家で大人しく内職でもしているのが世間一般での過ごし方。
そんな中で泥に悩まされながら歩いているのは、お宿を探すためである。
歓迎もされたが黒い大烏賊亭は居心地がよくなかったので別の宿を探さねばならなかったのだ。
流石は素泊まりの最安値が五アスの超安宿、ロランス氏のお客様待遇で通された部屋はギリギリ我慢できないでもなかったが、普通に借りる場合の部屋は……まぁ、酷かった。
前世と今世でも割と良い方の生活をしていた清潔観念では到底受け入れられぬ惨状は、思い出すと気分が悪くなるので描写は避けよう。少なくとも一月滞在しても一リブラ三五アスで良いとされる大部屋は、私に言わせれば人間の生活空間ではない。トコジラミや南京虫、あと黒いアレと同居するのは御免被る。
二人で顔を見合わせて、生活空間の良さは人生の質に直結すると目だけで瞬時に同意し合った私達は別の宿を求めて黒い大烏賊亭を辞した。
さて、現在は“あばらや通り”なる入り組んだ市壁のせいで酷く歪な道が続く区画を歩いている。かなり野放図に発展していることもあり、道は幅もまちまちで実に落ち着きがない。この通りの名でさえ、住人達が勝手に着けて馴染んだものだというのだから、行政府の手が届いていない感が実に辺境味を感じさせてくれる。
帝都は良くも悪くも整っていたからな。小綺麗なファンタジーという風情は感じられたが、やはり地方は良い。私はどっちかというと泥臭い骨太な幻想小説の方が好みだったのだ。映像作品にしても小汚いことに定評があり内輪揉めと裏切りが八割を占める、ちょっとドラゴン弱くない? と思うタイトルのファンだったからな。
不便さに風流を感じつつ、たどり着いたは一つの酒保。
雨に濡れて尚、その酒保は他の建物と比べても随分と小綺麗に整えられていた。
壁や屋根瓦に欠けはなく、窓にはガラスこそ嵌まっていないもののきちんと整った板がかけられている。店の前は泥が掃き清められており、そこだけ石畳が覗いていて店主の拘りが感じられた。
そんな酒保は“子猫の転た寝亭”と流麗な筆致で刻まれた店名と、丸くなって眠る猫の意匠が彫り込まれた看板を掲げていた。
そう、ケヴィンとエッボから話を聞いて居ても立っても居られなくなった私が宿探しのついでにやってきてしまったのだ。
だって、英雄譚に唄われるような冒険者に会えるんだぞ!? 帝都ではそんな機会なかったから、テンション上がって軽挙に走ったって仕方ないじゃない。好きな作家の行きつけ喫茶店が近くにあると聞いて、行ってみたくならない人間だけが私に石を投げると良いさ。
ただ、着いてみて懸念が一つ。
「店構えは悪くないですわね」
「そうだね。ただ、なんというか……」
「冒険者の酒場らしくはないですわね」
外から見ていて覚えた感想は二人とも同じであった。気を遣われた綺麗な外観というのもあって、良くも悪くもある程度荒く使われることを前提とした冒険者の塒らしくない。
というよりも、受付の女史勢のおすすめとして名前が挙がらなかったことも引っかかる。そんな評判の良い冒険者が拠点としているくらいなら、教えを受けたがる若人が群れていてもおかしくなさそうなのに。
これならば旅商や旅人が立ち寄る普通の宿ではないか。
「いきましょうか?」
「ん、そうだね」
考え込んでいると、ずっと繋いで歩いていた左手が一度強く握られる。疑問を一つ覚えると延々考えて動きが止まるのは私の悪い癖だ。思考が横道に逸れると長いことを知っている私を上手く操ってくれる幼馴染みの有り難さよ。
店に入る前に靴の泥を払って、高鳴る胸を抱えながらドアを押した。
可愛らしい鈴の音が私達を出迎える。そして、店構えに面食らう。
なんというべきか、小洒落た喫茶店とでもいいたくなる見た目をしていた。
長方形の奥に向かって長い店は、スペースの三分の一ほどを大きなカウンターが占めており、席は僅かに八つしかない。後は四人がけの四角いテーブルが縦に五つ連なっているだけであり、収容人数はかなり少なめだ。
板張りの床は隙無く磨き上げられており、壁には埃の一つもない。調度も壊れていたり傾いている物は一つとしてなく、カウンターの奥に設えられた棚に並ぶ酒瓶の数々も愛着を持って整えられているではないか。
何より目を惹くのは天井からぶら下がる都合三台の照明。魔法の光を放つそれは、都会の大店で輝きを放つような一品。昼間から灯りを放ち、店内を優しい昼光色で照らすそれは地方であれば家が建つほどの貴重品である。
いやはや、色々な意味でイメージを裏切られたな。来る前に想像していた猥雑な冒険者の酒場の印象は露ほども感じられず、奥まった小道でひっそり営業している夜はバーに早変わりする純喫茶といった店構えだ。
こんな所でゆったり文庫本片手に煙草を燻らせ、珈琲を楽しめたら幸せだろうなと思った。
「あら、いらっしゃい。お初の顔ね」
驚きを吸収しきるより前に店の奥から現れた女給に声をかけられる。エプロンドレスに三角巾という一般的なスタイルで身を飾った彼女は、尖った三角の耳と鼻、そして天鵞絨のような黒い毛並みが艶めかしい猫人であった。
猫人は帝国のある中央大陸とは違う大陸の民族であり、南西の大陸から全国に広がった猫と同じ起源を持つ亜人種だ。外見は猫のしなやかさと人のシルエットを絶妙な具合で混ぜたもので、僅かにほっそりした人の要素が香る猫頭が印象的だ。
「外套は壁際に掛けてちょうだいね。そこなら風が通るから乾きやすいわよ」
口の形がヒト種とは違うからか、有りがちな「にゃ」という語尾はないものの、僅かに単語の端々が巻かれており本当に猫のような印象を受ける。肉球を備え爪のない――正確には格納されているだけ――指先で示された壁際にローブを引っかけ、誘われるままにカウンター席に座った。
「少し半端な時間だから、適当な内容になるわよ。朝ご飯でいいかしら? 帝国式? 王国式? あ、東方遊牧風もいけるわよ」
「あ、いえ、朝食は済んでいるのでお茶をいただけますか」
「少しつまめるものもいただけると有り難く存じます」
店に入って何も頼まぬという無粋は気が引けるのでお茶を頼めば、マルギットは軽い物をお望みのようだった。朝に出された昨晩の残りは、重すぎて殆ど食べられてなかったみたいだしな。
「お茶なら三アスだけど……あら、そちらのお嬢さん、宿酔い? それなら良いものがあるわ」
猫頭の女給さんはパタパタという擬音が似合いそうな仕草で――しかし全く足音は立てず――厨房へと消えていった。火の扱いは前世と比べると大変であるため、こういったカウンターの向こうで調理はできないのだ。
「良い雰囲気ですわね」
「そうだね、落ち着いててゆっくりしてて」
他に客の居ない静かな店を見回してのんびりと話をする。想像と違う内装から、当初の目的であったフィデリオ氏のことは頭から飛んでいた。
「私、こういう空気が結構好きかも知れませんわ。故郷でも古都でもみたことのない風情ですけど」
「帝都で一件だけ見たことがあったよ。たしか北方離島圏の人が、自国の大使とか商売人相手にやってるお店だったと思う。麦酒が沢山あるお店だったね」
「あっちの人は麦酒をお好みなのかしら」
微かに香る異国の情緒に思いを馳せていると、暫くして女給さんが盆を手に帰って来た。カップが二つと小皿が一枚。
「お待たせ。はい、お兄さんはこっちね」
私の前に置かれたのは素朴で香ばしい匂いの黒茶。三重帝国人なら一日に何度かは口にする血に染み込んだ飲み物だ。色合いと香からしてチコリではなく蒲公英かな。
「で、お嬢さんはこっち」
一方でマルギットの前に置かれたのは見慣れない飲み物だった。白く濁ったそれは牛乳を温めた物であろうか。牛乳本来の甘い香りに混じってピリリと刺激的な匂いが一掬い。
「生姜と蜂蜜……かしら」
「そう! 酒精神の長居には一番利くのよ。旦那直伝なんですから」
へぇ、いいことを聞いたな。二日酔いは滅多にしないけど、たまに安酒を寄越されたときは軽く悪酔いすることがあるから覚えておこう。蜂蜜はちょっと値が張るけど行動食としても優れているし、生姜なら安価に手に入るから今後は携行してもいいかも。
「それで、こっちは小魚?」
「そうそう、川魚の酢漬けと生姜の漬物を添えたのよ。とてつもなくすっっっぱいけど、一撃で酔いが吹っ飛ぶのよ。これも旦那のお墨付き」
小皿に乗せてあるのは小魚と短冊切りにされた生姜だ。マリネというよりはピクルスといったほうがふさわしい浸かり具合だな。人は選ぶが確かに酒で疲れた体には覿面に利きそうだ。川魚特有の嫌な臭いも酢で飛んでいるし、私も一皿貰おうかな。
って、旦那? たしか、ケヴィンから聞いた英雄譚だと……。
「シャイマー、檸檬を忘れているよ」
不意に奥から柔らかな男性の声が届いた。ついで軽い歩調で明るい光の下に滑るように姿が晒される。
「これがないと味が締まらないって何度も言ったろう?」
「あら、お前様。ごめんなさいね、ついつい避けちゃうのよ檸檬。絞った時、鼻にかかったら地獄ですもの」
服装に目立った所はない。綿のシャツ、リネンのズボン、帆布の前掛けは使い込まれていてヨレヨレで酒場の亭主という肩書きが実に似合う姿。
種族はまごう事なきヒト種だ。帝国人にしては薄い顔つきで彫りは浅く鼻も然程高くない。澄んだ緑色をした優しげな垂れ目と野放図に弧を描く赤毛に近い栗色の髪と相まって、見ていて穏やかな気分になる顔つきをしている。
人好きのしそうな良い店主という第一印象。
しかしながら、見る者が見れば一目で気付くだろう。
その立ち姿、目線の動き、服に隠れた体の輪郭。切った檸檬をのせた小皿を持つ無骨に歪んだ手指。
あらゆる物が主張する。彼が揺るぎない武によって身を纏った武者であることを。
盛り上がった肩の筋肉は縦横に槍を振るい、時に盾を構えて突貫する騎士の肉付き。丸太の如き威容の足は騎乗と行軍によって膨らんだ兵士のそれ。儀礼のためではなく、実戦で磨き上げた鎧に等しい己という武器の一部。僧衣が似合いそうな顔に不釣り合いなほど見事な武威が香りとなって鼻に届くかのようだ。
なにより粗雑な服に身を包めど隠せぬ清廉さ。なるほど、これならば神々が祝福を与え奇跡の請願を許すのもよく分かる。
私は自然と立ち上がり、亭主に。
「聖者フィデリオ殿とお見受けいたしますが、如何に」
いいや、聖者と讃えられる一流の冒険者に礼をした。
みれば幼馴染みも一目で技量を見抜いたのか、座席から降りて礼をしている。僅かなりと武を嗜んだ人間であれば、彼の練度は嫌でも分かってしまうだろう。
分からないのであればよっぽどの阿呆か間抜けか、ないしはその両方だ。
「まいったな」
しかし、礼を送られた冒険者は困ったように頬を書き、顔をへにゃりと曲げて力ない笑みを作る。
「僕はそんな礼を送られるほど大層なモンじゃないよ。それにここは冒険者向けじゃない酒保だ。まぁ、落ち着いて座りなさい」
仰々しい態度を取られ慣れていて、されど好まぬらしい聖人は肩書きと語られる物騒な英雄譚に似合わぬ柔和さで微笑んだ…………。
【Tips】猫人。南西大陸に起源を持つ亜人種。猫の頭と被毛を有する柔軟にしてしなやかな肉体が特徴。環境適性が高く、居住地によって毛の長短が異なり数千年前に猫と同時に世界に移民を始めて以降様々な土地に根付いている。
飄々としており移り気と言われることもあるが、他の人種と同じく個体差の程度に過ぎず、情に厚い者も決して少なくないし、飄々としつつ肝心な所で慈しみ深い所もある。
連休初日のお供になればと更新です。
少し間が空きましたが忙しかったのです。決してプレインズウォーカー業のせいではないです。
ないのです。
前回に引き続き感想ありがとうございます。
読者のフィデリオ氏のイメージがモズグズ様で固まる前に更新できていればよいのですが。