少年期 十四歳の秋
知性が取り繕えるものでないのと同じように、気品とは漂わせようと気負う者には纏えないものである。
礼節通りに並べられたスプーンをほっそりとした指が静かに、それでいてスムーズにつまみ上げて琥珀色のスープへと差し入れる。波紋さえ生み出すことなく静々とスプーンは沈み込み、多くの素材が煮込まれ得もいえぬ深みを醸す美味な滴をすくい上げる。
そうして無駄な滴をこぼすこともなく、流麗な所作ですくい上げられたスープは雑音の一つもなく微かに開いた唇へと消えていく。
まったくもってケチのつけようもない貴種の所作。私はそれを色々な場面で目の当たりにして見慣れていた。何の因果かハイソな場に――もちろん従僕として――引き立てられる機会も少なくないから、自然と慣れてしまったのだ。
まぁ、それも我が麗しの妹がやっていなければの話だけれど。
「どうかなさいまして? 兄様」
「いいや、なんでもないよエリザ」
給仕をしている私の視線に気づいたのか、エリザは振り返って貞淑に微笑んで見せた。この秋口、私がついに十四歳になったから、彼女も冬が来れば九つになる。
私の可愛い可愛い妹は、近頃ますます所作が洗練されてきて気品すら漂うようになってきた。少し前まではスープ一つ飲むのに四苦八苦して、内股で嫋やかな歩き方をするだけでも苦労していたというのに。
それが今やライゼニッツ卿肝いりの平服――荘のおしゃれ着も霞む豪奢さだが――が似合う、貴族のご令嬢のごとき佇まい。今の彼女を見れば、香油を垂らした産湯に浸かり、絹の産着を着せられて生まれてきたと言われても説得力を感じてしまう。
私は季節が二つ変わっても、未だに彼女の変容に慣れずにいた。
別に彼女がまるっきり変わってしまった訳ではない。記憶が変質している訳でもなく、嗜好に変化が生まれた様子もない。
「そう? おかしな兄様」
ああ、そうだ、言うなれば成長している。
今までエリザは言うなれば幼かった。八つの幼子としても幼いと思えるほど成長速度に乏しく、むしろやっと年相応になり始めていると言える。
上流階級向けの宮廷語が舌に馴染み、所作の端々に教え込まれた作法が滲む。荘を出て一年以上、貴種の下で毎日仕込まれたとすれば自然とすら言える。
事実、魔導院を歩けば時折見受けられるエリザと同年代の聴講生は、みな年齢を感じさせぬ気品と知性を漂わせていた。あの年齢から聴講生として受け入れられているということは貴種の子弟であろうから、教育を受けた身分ある者として妙なところはない。
だから、これはきっと私のエゴだ。エリザはいつまでも小さくて可愛くて……頼りない妹だと思い込んでいた私のエゴ。
きっかけがどうあれ、人は成長するものである。私は兄としてそれを受け入れねばならない。
エリザはエリザだ。私が可愛い妹として見ていたエリザも事実であるが、彼女自身が“こうなりたい”と望んで成長していく姿の先もエリザである。
私は思っていたよりずっと我が儘で独善的な人間であったらしい。あの日、帰ってきたエリザに感じた“恐れ”は、エリザ自身の変質への恐れではなかったのだろう。頼られる兄であることに存在骨子の一つを感じていた私が感じた不安、それが感情としてあふれ出したに過ぎない。
エリザは確かに半妖精であるけれど、それ以前にエリザなのだ。故に私は恐れるのではなく、受け入れねばならない。彼女の成長を。自分が感じた“錯覚”に整理をつけて。
それに変わらないところも多いじゃないか。所作に気品を帯びていても、好きな物ばかりに伸びがちなフォークや、嫌いな物を少しでも細かくして味を感じづらくしようと刻んでしまうナイフ、大好物であるデザートのプディングをついつい多く掬ってしまい後悔するスプーン。
達者になってきた宮廷語でも、未だに私のことを“おにいさま”ではなく、幼児語の“あにさま”で呼ぶ所だって。
これはもしかして、親離れされた親が感じる寂しさや違和感と同じものなのかもしれない。ある日を境に子供は一人称を僕から俺と言い換え、親と並んで歩くことを恥ずかしがり、本当は大好きなのに「別に甘い物好きじゃねぇし」などと宣って三時のおやつを辞し、夕方六時のアニメを見なくなる。
エリザも大人になることが必要だと思い、大人になりたいと思った。そして、精神の相がヒトよりも妖精に近い半妖精である彼女は、ヒトとは違う成長を見せるが故、ヒトでしかない私には違和感を覚えるしかなかった。
なればこそ、私は彼女の成長を受け入れて喜ぼう。
うん、舌っ足らずに頼ってくれるエリザも可愛いけれど、大人になろうとする彼女もきっと可愛い。
私の妹のことだから、きっと耳目を集める美人になる。母のようにすらっとしていて、楚々とした振る舞いの似合う一本の百合の花が如き淑女に……。
はっ、魔導師として大成する美人!?
アグリッピナ氏やライゼニッツ卿のような致命的欠陥を抱えていないエリザは、ともするとそれはもうモテてしまうのではなかろうか。そうなれば悪い虫が花に集るようにぶんぶんと……。
「……兄様、本当に何もございませんこと?」
「ああ、大丈夫だよエリザ。ちょっと決闘の作法で、どっちの手袋を顔面に叩き付ければいいんだっけと思い出そうとしていただけだから」
「決闘!? あ、あとそれ、正式には足下に叩き付けるはずでは……」
可愛い妹にちょっかいを出そうとする不埒者の顔なんて床と似たようなものだろう? あとで踏みつけるのだから一緒一緒。
なにやら焦る妹に「何も心配はないよ」と笑顔で答えてやりながら、私は給仕の続きをした。
どうせ今晩はアグリッピナ氏も帰ってこないし、夜はゆっくりできるようエリザも下宿に招こうか。何やら大きなイベントがあって帝城にいくとか仰ってたしな…………。
【Tips】三重帝国において私闘は罪だが、届け出の上、制度に則って行われる決闘は正当な行為として認められる。剣によってのみ雪げる恥があることを専制君主制の国家はよく知っているからだ。
帝都に聳える白亜の帝城に存在する都合二十五室の会議室にはすべて華の名が与えられている。最も華やかな催しのための議場は赤薔薇の間として他国に知れ渡るほど誉れ高く、荘厳に飾り立てられた白百合の間は厳粛なる催事の場として名高い。
そして、皇帝臨席の教授会で用いられる専用の会議室として畏怖を以て語られる場。
その名を黒睡蓮の間という。
広大に伸びるすり鉢状の階段席が設けられた会議場は中央に据えられた演台のせいもあって、一部の口性のないものからは“処刑場”とも呼ばれている。
まぁ無理もなかろう。国中の英知を集め、これ以上頭が回る人間を集めるのが困難といって差し支えのない面々が座る会議室だ。如何なる身分であれ的外れなことを口にすれば、魔導士どもが基礎教養の如く修めている容赦ない煽りが浴びせられるだのから。
長い歴史の中、ここで魔導師達に突飛な協力要請をし、アラというアラを突き倒されて憤死した官僚がいるほどの地獄だ。
農繁期の最中、貴族は国元で徴税業務に励んでいる微妙な時期に開催された教授会に参列者の多くは嵐の到来を感じていた。
社交シーズンの開幕目前に魔導院に通しておきたい話などそうはない。皇帝の首が挿げ変わるのだ。
教授勢の中には政治に関心が薄い根っからの学者も多いが、どっぷり政治に浸かって研究という名の黄金を溶かす大釜の燃料を集める者もまた多い。それ故、名誉称号しか持たぬ教授も、実権ある地位を持つ教授も社交界の趨勢には敏感であった。
教授たちは一波乱ありそうな空気に胸を高鳴らせながら、重要な議題の前に新たに教授とならんとして訪れた者たちの発表を聞く。
とはいえ、ここで行われる発表会は殆ど最終確認作業に過ぎない。参加する教授たちの全員に前もって論文は配布されており、大体の内容が把握されているのだ。
それもそのはず。音楽の発表会と違って研究の発表とは難しいもので、精査しなければ正当性は認められない。実演が必要な分野であったとして、それが偶然できた魔法なのか、きちんとした理の上に立った魔法なのかを判断するのは一度見ただけでわかるはずもないからだ。
彼らは全員前もってこれでもかとばかりに査読を済ませており、嬉々とした表情で「その分野に関しては門外漢ですが」や「聞き漏らしていたら申し訳ございませんが」などといった枕詞とともに致命の一撃を用意しているのである。
そして予定調和で数人の心がボッキリへし折られた後、一人の長命種が演台に立った。
シニヨンに編み上げたまばゆい銀糸の髪、そして紺碧と薄柳の金銀妖眼を挑発的に輝かせるアグリッピナ・デュ・スタール研究員である。
赤や青の原色を好む彼女にしては珍しく、黒い本繻子織の生地に暗色の生糸で幾何学模様の複雑な刺繍を施したローブを着込み、これまた珍しいことに普段手にしない魔法の発動を補助する杖を担っていた。
生まれながらにして焦点具を身に宿す長命種が杖を持つことは少ない。彼らが杖を持つときは、生来持った焦点具では出力が足りなくなる魔法を使う時か、儀礼的に杖を持つ必要があるときばかり。
だが、あの禍々しく奇妙な緑色に輝く宝珠をいただく杖は、どうまかり間違っても儀礼で引っ張り出してくるような品ではなかろう。実演をするしないにかかわらず、本気の装備で挑むほどの心意気を表しているのだろうか。
「では、発表をはじめさせていただきたく存じます」
朗々と響く声に迷いはないが、教授たちはそれぞれ査読した結果のアラをどこで突いてやろうかと内心で舌なめずりをした。却下するほどではないが、言及不足というところが幾つかある論文は下手にできが悪い物より教授たちの嗜虐心を擽ってくるのだ。
彼らもまた、多方面から叩かれ煽られながら教授の位に上ってきたのだから。
脚本を演じる役者の如く歯切れよく語られる論文を聞いている内、誰かが首をかしげた。
ある一人は「おや?」とつぶやいて持ってきた論文をめくり、ある一人は「ん?」と自前の手帳をめくって覚え書きを浚う。
語りが提出されてきた論文からズレてきていた。
よくある準備不足や緊張によって論文の内容を逸脱した語りになっているのではない。突っつかれるはずだった穴に蓋をするように精緻な理論の当て布が施され、さらには“言及”のなかった……いや、記述の意味を変える新しい論理が刺繍として刻まれる。
提出済みの論文の内容を逸脱しないまま、全く別の結論を導き出す語りに議場はざわめき始める。
普通であれば分からない。魔導師が書く論文とは過程こそ明確にせよ本旨や結論を本当に魔導に精通していなければ欠片も理解できぬように書くから。
しかし、ここにいるのは魔導師の中でもハイエンド。伊達や酔狂で他人に教えを授ける立場にある者達ではない。
それに普通であれば為されない、ここだけでの語りが教授たちへ“教えてやっている”かのように論を支えていく。語りがなければ、読むだけであれば表題通りの内容にしか受け取れぬ論文が変貌する。
彼らには分かる。分かってしまう。
この論文は“非幾何学平面上における効率的魔力伝達”の論文ではない。
その表題を借りた……三重帝国において禁忌の一つとされ、同時に“不可能”と見られていた魔力を負の時間軸に載せる魔導の極点。
時間遡行魔法の基礎理論魔導論文であると。
抑えきれぬざわめきの一切を無視し、長命種の魔導師は全くの無傷のままで語りを終えた。
この語りだけでは“極めて実現性は高いが理論的には不確か”という絶妙な塩梅の内容にとどめたままで。
そして、質問は? の一言もなく、締めの言葉を勝手に紡ぐ。
たっぷりの毒を込めて。
「拙論のご静聴、誠にありがたく存じます。皆様のお耳に若輩の論、まこと小賢しく不出来なものに響いたことと愚考いたしますが、今後も精進し“掴みかけた”尻尾を逃がさぬよう鋭意精進いたします」
湛えた微笑みは意図なく見れば至高の彫刻が如く映ろうが、意図を察した者からすれば悪鬼羅刹のそれに他ならぬ。論壇で最初はニヤニヤと笑って推移を見守り、途中から死者である事実を差し引いてなおも顔色を悪くしたライゼニッツ卿には、それがいやというほど分かった。
「また、改めて私の研究に“全面的な支援と添削”をしていただきました我が師、マグダレーネ・フォン・ライゼニッツ教授……そして“強力にご後援”いただきましたマルティン・ウェルナー・フォン・エールストライヒ教授に感謝いたします」
やられた! と死霊の才媛は場も憚ることなく頭を抱えたくなった。
魔導院において禁忌とは故あれば紐解き、実力あらば扱うことが許されることだ。
そこはいい。教授会など禁忌に浸りきった、世間的には人非人と誹られても何の反論もできぬ人種の集まりなのだから。
問題は今まで完全に不可能だとされていた技術。コレ一つが可能になるだけで実現不可能だと諦められていた技術に手が届く一種の技術的特異点にして、魔法・魔術の視点を不可逆に革命する変化。
すべての学閥、あらゆる魔道士が欲する技術。
それを一つの閥が握りかけて、あるいは掌握している事実を匂わせており、ついでに“三重帝国”の大公までが触れているという。
あまつさえ、これからただの大公ではなく三重帝国の皇帝となる人物が関わり、存在していることを知っていたと匂わされた日には……。
優位極まる一つの技術。それを一つの閥が独占しているとなれば、一体どれほどの混乱が魔導院に巻き起こされるか想像さえできない。しばらくはおとなしかった“学閥紛争”の再発を嫌というほど予見させる。
勿論、確実にとは言うまい。閥を率いる長の絶妙な政治差配さえあれば、平和裏にコトを進め更に閥の地位と名声を高める起爆剤にもなりうる。
ただ、その起爆剤は処方をほんの僅か、粒子の規模でさえ誤れば周囲の人間を鏖殺する特上の毒薬でもあるだけだ。
そして残念ながらシステマティックな官僚制を敷いている三重帝国において、一度決まって引き受けられた叙爵をその場のノリで取り消すことはできない。
特大の爆弾が“宮中伯”の名を借りて、皇帝と教授を盾にしつつ好き勝手動けるような場が作られたのだ。
すべてを覆すことはできない。これから決まっていることは予定通りに進む。
さにあらずんば三重帝国が三重帝国として成立しなくなるが故、正当性を担保するべく過回転の歯車は回り続ける。絶望の軋みを供にして、皇帝と学閥の長を破滅にも栄達にも導く機構はすでに動き始めてしまった。
本当の死人の方がマシと言いたくなる顔色をした師に向かい、アグリッピナ・デュ・スタールあらためアグリッピナ・フォン・ウビオルム伯爵にして魔導宮中伯は艶然と微笑んで見せた。
自分だけでは地獄におちねぇぞ、と…………。
【Tips】三重帝国における君主の権力は絶大であるが、腐敗と一家による独占を防ぐ構造により皇帝の独力で爵位の剥奪や叙勲の取消などができぬといった、普通であれば当たり前で些細な欠点が存在する。
要は二言を口にせねばいいだけ。それだけの話。
エーリヒは事態を自分の都合がいいように解釈し始め、そして外道は外道らしくそっちがその気ならこっちもやることをやるだけだと反撃に出る。
少し間が空きましたが私です。繁忙期は開けましたが、コロナのせいで色々あって難儀しております。
しかし4月25日に拙作が正式発売と相成りました。まぁ、あまりの忙しさに未だに本屋で実物が並んでいるところを見られていないのですが……。
挿絵の出来も素晴らしく、書籍版だけの展開もありますので是非お手にとっていただければと思います。一冊税込みで800円もしないので、私にラーメンでも奢ってやったと思って買っていただければ幸い。食事を奢ってシナリオを書かせるのがTRPGサークルでのお約束ですからね。まぁ、リクエストされたシステムではなく、お気に入りのシステムで気に入った内容を叩き付けられるのもよくあることですが。