少年期 十三歳の夏
長湯でほてった体に冷えた柑橘水を流し込む快感は何とも得がたい物である。
「ぷは……うまい」
これで氷が浮かべてあれば最高なのだがと思いつつ、私は浴場内で飲み物を売り歩いている水売りへとカップを返した。製氷機どころか冷蔵庫もないのだから、飲み物に氷を浮かべるというのは大変な贅沢だ。
「ああ、最高だね」
同じ柑橘水を飲んだ友人、今は中性体の見慣れた姿となったミカも水売りにカップを返す。
さて、ここは帝都の公衆浴場。入湯料が平均より幾らか高いが清掃が行き届き、設備も良好というちょっと立派なところだ。浴槽も一番安い浴場より多く、蒸し風呂も広くて熱い私好み温度。そして、中庭の休憩所や運動場も広いため、満足度は値段に比してかなり高いものを供給してくれる。
私達は今、三度ほど蒸し風呂と冷水の浴槽を行き来した後の小休止である。最近は風呂にも付き合ってくれるようになった――勿論、女性体の時は無理として――ミカと連れ立ってやってきたが、元々は北方育ちの彼と私は風呂の趣味が合っていた。
ただ、私をして十分と思う温度に「ちょっと温いかな」と呟く彼は、一体故郷でどれ程熱い蒸し風呂に入っていたのだろう。温浴に親しんだ帝都育ちがあんまり入ってこないくらいには熱い蒸し風呂だったのだけど。
タオルで胸から腰までを隠すという悩ましい格好をして、緩いウェーブがかった黒髪を掻き上げながら友人は運動場でレスリングに励む他の利用客を眺めて息を吐く。喉を通った水が全体に染み入るのを感じ入るかの如く瞑目し、渇きが癒える感覚を全身で愉しんでいるようだった。
吹き抜けになった中庭の休憩所のベンチ、昼下がりの木漏れ日が入るカラッとした心地良い夏の一時。お互い昼間に仕事で拘束されていない身分なればこそ楽しめる至福の時間である。
「で、調子はどうなんだい」
問うてくる友に私は悪くないと答えた。
お家騒動に巻き込まれて以来、アグリッピナ氏は連日眠りも遊びもせず大量の黒茶と砂糖菓子だけを供にし、憎悪や様々な感情をインクに練り込めて羊皮紙に叩き付け続けている。その傍ら、資料らしき覚書や本から視線を外すことなく私やエリザとやりとりしているが、それ程に注力しなければならない難敵と相対しているということだろう。
良い様である。まぁ、私の溜飲はさておくとして、何かをしながらでも会話に全く支障のないアグリッピナ氏と相談した結果、私はエリザが魔導院の聴講生身分を得ることができたら丁稚としての任を解かれることと相成った。
後援者を得たことでエリザの学費に心配がなくなり、私が労働することによって支払う必要がなくなったからだ。後援することの書状を渡した時、険しかった表情が更に険しくなり、一瞬凄い目で睨まれた理由は謎であるが……ともあれ、一つの課題が片付いた瞬間であった。
かといって私が直ぐに此処を発ちはしない。まだエリザは幼いし、正式な聴講生になってもいない。
何よりあの日、急に遂げた変貌が私の心に深く楔の如く突き刺さり未だに心配でならないのだ。半妖精である彼女の身に何が起こったのか、はっきりしない間は彼女の側を離れるつもりはなかった。
精神というものは一見安定している時の方が危ないと聞く。臨界を越えた精神の動揺、それが反動となって肉体表面に出てこなくなることもある。
だから私は兄として為すべきことを為し続ける。アグリッピナ氏が基礎教育の充足を認め、魔導師を目指すに足る領域に至ったと判断するまでは。
「で、君こそどうなんだい?」
「僕? 僕か……」
言って暫く呻った後、彼はこてんと私の肩に頭を預けてきた。
「お疲れのようだね?」
「……まぁね。やっぱり日銭を稼ぎながら聴講生をやるのは中々に難儀だよ。以前のファイゲ卿から賜ったお礼のおかげで、随分と楽にはなったけど」
彼も故郷の代官から後援を受けて魔導院の聴講生をやっているが、それでも生活は中々に苦しいらしい。代官からあてがわれた下宿に住んでいるので住環境と学費の心配はいらないものの、生活費は自弁せねばならない。
衣服も食費も安くはなく、都度都度必要となる触媒も手前で用意するのは大変だ。私も手伝ってはいるけれど、やはり買うのと比べると手間は段違いであり、さりとて買おうにもモノがモノなので御用板で費用を稼ぐ手間はさして変わらないときた。
そして生活のため日銭稼ぎに偏重すれば勉学がおろそかになり、研究員に昇格し魔導師として認められるまでの道が遠くなる。苦学生の辛いところだ。研究員にさえなれれば工房が与えられ、研究費と年金が出るのだが先は険しい。
なんといっても聴講生から研究員になるまでの平均年数が五年。厳密に種族適性などを加味した中央値を取れば七年前後とくれば気が遠くなっても仕方がない。
それをして登山に例えれば五合目にすら至っていないと来れば、魔導の深奥はどれほどに深い物か。神に近づく手段、と高尚に形容する魔導師達の気持ちが少し分かる気がした。
「僕ね、少し勉強のレベルが上がってさ」
「そうなのかい?」
「ああ。師匠が理論の理解が深まってきたから、そろそろ実践に舵を切るべきだとね……ま、たしかに僕らの領分は実践あってこそだけど」
北方生まれの彼は思わず触れたくなるほど白い肌をしているが、その肌が更に白くなっているような気がした。蒸し風呂でよくなった血行が収まって、先ほどまでは健康的に赤らんでいた体の白さからは魔力の不足が伺えた。
「作ったり潰したりの繰り返しって結構きついね。魔力もだけど精神的に……なんというか、徒労感が凄い」
説明して貰ったところ、彼は課題として穴を掘ったり埋めたりを繰り返すという、どこかの収容所みたいなことをさせられているらしい。
むべなるかな。彼が目指す造成魔導師というのは、そういった地味な作業が生涯の伴侶として付き従う職種である。全ての建物は基礎が固まっていなければ成立せず、基礎の設計をおろそかにして巨大な建築物の設計などできるはずもない。
弟子を立派な造成魔導師として立脚させるため、彼の師は殊の外地味でキツイ課題を課した。魔力切れで顔色が悪くなるほどの課題をこなしながら日銭を稼ぎ、日常の雑事をこなすのはさぞしんどかろう。
「毎日毎日作っては潰しだからね、気が滅入るよ。構築が甘かったら見せ付けるように潰されるし……」
溜息に苦労を混ぜて吐き出している彼の目ではハイライトさんが職務を放棄しているようにみえた。いかん、さっきまであんなにキラキラしていたのに。
「分かってるけどね、嫌がらせではなく、僕が将来作る物は人が住み、上を通っていく事になる所なんだから、絶対に甘い作りをするなと教えてくれるだけだって」
だとしても辛いね、と肩に預けた頭を擦りつけてくる彼は、郷里を離れて縋れる相手が少ないから無意識に甘えてきているのだろうか。中性の時であればいいかと私は慰めるように頭を撫でてやると、彼は嬉しそうに掌に頭をすり寄せてきた。
頭を撫で、額をさすり、掌が頬を覆うと彼は悦に入って小さく吐息した。なんというかアレだ、中性時の彼は雰囲気が耽美的すぎて見てて凄くドキドキする。まずいな、ソッチの趣味に理解はあっても私自身は習得していないはずなのだが。
「君は優しいね……」
感じ入って呟く彼から逃げるように私は一つの提案をした。コレ以上、このベクトルで話が進むと個人的に致命的な事態に陥りそうな気がしたからだ。
「なら、私の趣味が少し助けになるかもしれない。これからは家で食事を摂らないか?」
「へっ?」
色々苦し紛れな提案であるが、これは私の成長の一つでもあった。
さて、ツェツィーリア嬢のお家騒動キャンペーン――勝手に命名――攻略によってもたらされた熟練度は膨大であり、色々な使い道があったので私は悩みに悩み抜いた。
その結果、まず優先したのはかねてよりの宿願であった<器用>を<寵児>へと引き上げることだ。
神に愛されて産まれなければ至れない高みとされる最上位。<器用>を行き着くところまで行き着かせた理由は、使用する判定の広さやコンボで散々悪用している<艶麗繊巧>特性を一番効率よく活用するためである。<戦場刀法>を<神域>にまで引き上げるので最後まで悩んだが、日常生活のことを加味してこちらに軍配が上がった。
なんといっても固定値。基礎判定値を底上げすることは全てに優先される。固定値は致命的失敗以外の理不尽を踏破する我らの守護神。固定値を崇めよ!!
メイス様への信仰が溢れて一瞬オリジナルの手印を作ってしまったが、運が細い私が安定を取るのは普通のこと。この世界の事象がステータスの数値と特性を足した後、賽子の乱数で成否を決めていると推察できる以上は固定値こそが正義である。
一つの悲願を達成し、二つ目の悲願にこそ届かないものの熟練度のあまりはまだまだある。ということで<佳良>止まりであった<魔力貯蔵量>を一段階上の<精良>引き上げて継戦能力の向上を図る。
主動作に合わせて魔法を連発し、リアクションでも多用する私はどうしても息切れが早いきらいがあるので、魔剣の魔宮のようなミドル戦闘が多発する場面で苦労してきた。冒険者になれば遠出して戦闘以外でも魔法を使う機会が増えるだろうし、それでは困るだろうと思っての選択だ。
因みに一度に使える魔力量にを意味する<瞬間魔力量>は、消費の大きい術式を使う予定もないし、今の儘で不便していないから据え置きだ。まぁ、将来的に<空間遷移>でモノや人を移動させようと思えば、こちらも解決しなければいけない問題ではあるのだが。
それから余った熟練度をどうするかを考え、私は暫しの逡巡の後に野営に関する諸スキルを細々と取得した。<野営料理>や<料理知識>に<調味配分>などの低レベルであれば安価な特性を<基礎>レベルで取得し、多重発動することで一つのスキルを下手に高レベルにするよりも高効率で運用する。
これはかつて愛したTRPGのシステムでもよくやっていたが、実は結構難しい運用である。というのも、往々にしてコンボゲー的なシステムでは、新規スキルを習得するよりもスキルのレベルを上げる方が消費する経験点などは少なかったからだ。
私が与えられた福音もこの例に漏れず、習得だけを考えれば単純にレベルを上げた方が効率がよい。
ただ、組み合わせることとレベルを上げるだけだと、どこかの一点で効率の差が現れるようになるのだ。レベルを上げる毎に必要経験点が増えていくシステムだと効率の差が特に顕著であり、これを考えるのと考えないのとでは同じ経験点を消費していてもPCの強さに如実な差が現れる。効率の塩梅を見極められるかが巧者と下手を分けるのである。
斯様な点を熟慮の上、計算を重ねて現状の最高効率で簡単な料理を作れるようスキルの取得を行った。これで旅の途上でも最低限の品さえあれば、米軍の戦闘糧食よりはマシな食事が採れるって寸法よ。
この手の道中でも活躍できるスキルを取得して今回の成長は一段落と相成った。
ええ、体の若さに駆られて頭の悪いスキルとか特性に手が伸びて盛大な無駄遣いをしかけたけど、理性を総動員して我慢しましたとも。若さって恐いね。
……将来的にどうするかは、ちょっと余裕が出たら考えるけども。
閑話休題。料理のスキルを取った私の中では、今は料理がプチブームになっている。取得したスキルとはいえ使っておかねば体に馴染まないので、市場に繰り出して安い食材に目を付けて色々作っているのだ。
そのせいで灰の乙女が若干臍を曲げて、目が覚める度に髪が凄いことになったりするが――今朝はシニヨンにガッチリ固められていて滅茶苦茶苦労した。アグリッピナ氏とお揃いで出勤したら死ぬまで弄られるぞ――色々な発見もあるし、熟練度も溜まるので楽しめている。
そして自炊とは一人でやっても実は効率がよくなかったりする。
そこで私は友人に食事を提供すると供に雑事を肩代わりしてやろうと思った次第である。
「いいのかい……?」
「勿論いいとも。なんなら洗濯や掃除もしてあげようか? 最近そっちにも少し凝っててね」
少しでも頼りがいがあるように見えたらいいなと胸を張っていってやると、ミカは口をもごつかせて何か言おうとし、行為判定に数度失敗した後……。
「お願いします」
「うむ、任された。じゃ、夕方のお勤めが終わったら早速夕飯を仕立てて進ぜよう」
精神判定にも失敗したのか、折れて私の提案を飲んでくれた。
「……思わず君のことを母さんと呼びたくなったよ」
「せめて父さんにしてくれまいか」
「うーん……でも、君の後ろ姿は心臓に悪いんだよね」
「は? 何が?」
「いや、聞かなかったことにしてくれたまえよ。で、何を作るんだい?」
唐突に話題を変えようとする友人に疑念を抱かなかったといえば嘘になるが、聞いてくれるなと言われたことを追求するほど無粋ではないので夕飯の話題にシフトすることにした。失言をつっついて楽しむボドゲの最中でもあるまいし、まぁいいか。
さて、今晩は何を作ろうか。市場で何が安いか次第だが、香辛料が高価で流通が少ない以上は選択肢が然程ない。お金はかけずに手間かけて、と下ごしらえの際に鼻歌を歌っていた今生の母の苦労が偲ばれるね。
とりあえず前に御用板の依頼でやった薬草採取の際に取ってきた香草がいくらか残っているから、それで一品美味しいものができたらいいな…………。
【Tips】この時代における一般的な調味料は塩と香草類であり香辛料の類いは一粒で銀貨が飛び交う高級品である。
メイス様を讃えよ!(浅く手を組み、指同士を噛ませることでメイスのシルエットを表現する淀川区の方言的挨拶)
ということで成長報告。ミカは勉強のステージがあがって大変なようです。ここから先に行くと論文を書かされたりフィールドワークに放り出されたりと色々……。
経験点効率を考えてキャラ作するのが好きなので、ブツブツ電卓叩きながらルルブをああでもないこうでもないとなめ回すように見ていたら多分私の親戚か何かです。
※コメントで私的していただきました魔力のステータスを補正しました。