少年期 十三歳の晩春 二十三
その日、アグリッピナは朝から嫌な予感がしていた。
彼女の専攻は実践魔導分野に寄っており、東雲派の霊感に寄りすぎて魂がアッチの方にいった連中と違って予見だの予知だのに興味はない。
予感も気配も全ては脳が覚えた既視感に過ぎない。理屈屋が多い払暁派の中でも屈指の理論派であるアグリッピナはそう考える。今までに蓄積された経験が脳の中で現状と勝手に重なり合い、確度に欠ける幻覚として形を結ぶだけのことである。
だから彼女は努めて普段通りに振る舞おうとした。ようやっと偏執的な吸血種の手から逃れ、久方ぶりに塒に帰ってきたのだ。何があったかはしらないが、途端に成長し始めた弟子が気になりはするし、今後について相談がと宣う丁稚の言葉が気にならなくもないが暫くは休憩が必要である。荒んだ心を癒やしてくれるのは、長椅子に寝そべって怠惰に本を捲る時間だけなのだから。
故にアグリッピナは自身の不在時に何があったかを丁稚や弟子に敢えて問いはしなかった。この丁稚はほったらかしていたら何かしでかすのは目に見ているのだから、後々調べればいいだけの話である。復讐という料理は冷めれば冷めるほど美味いと聞くが、他人の騒動はできたてでも冷め切っていても美味しい万能な料理である。
何やら余人を工房に連れ込んだ形跡はあれど、荒らされている訳でもなし――幾つか秘蔵の酒や乳酪が消えていることに関しては、きちんと閻魔帳につけておいたが――疲労をおしてまで問い詰める必要もなかろうて。
外に出しても恥じぬほどの品質で黒茶を煎れられるようになった丁稚の一品を堪能し、さてどの本を読もうかと思っていると不意に鈴の音が工房に響いた。
独特のテンポで響く鈴は来客を報せるものではなく、特別な書簡の到着を報せる物。魔導院の工房には気送管が備えられており、重要な文書はこれで主の元へ届けられる。空間的に隔絶した工房へ書類を送るための設備は滅多なことでは使われず、これで寄越されるものは魔導院における重要事、ないしは“主個人”への重要な伝達事項であるときだけ。
手元にぽんと放り出された浮き出し加工の施された書簡を見つめ、いやいや予感なんてあり得ないからと頭を振ってみる。されど手に伝わる羊皮紙の上質さや、封をする蝋院が三首龍の国印である事実から逃避しきることはできなかった。
「どうかなさいまして?」
明白に自習の成果だけで上達したとは思えぬ流麗な発声で問う弟子の声を無視し、アグリッピナは書簡の封を解いた。
目が美麗な筆致の文章を追うこと暫し。二度三度と同じ文言を挽き臼にかけていくように追う雇用主の姿を胡乱に観察していた丁稚は「まぁ静かならいいか」と普段の仕事に戻ろうとし……。
「ああああああああああ!?」
唐突に響き渡った奇声に驚いて、手前の人生を軽く買えそうな茶器を取り落としかけた。
「っぶねぇ!?」
同様に驚いた弟子の手から高価な茶器がこぼれ落ちたが、とてつもなく価値のある陶器は丁稚が能う限りの速さで練った<見えざる手>によって、すんでの所で途方もない価値があった陶器の破片にならずにすんだ。
「朝からなんですか、まったく……」
冷や汗を拭いながら茶器を安定した位置に逃した丁稚は、しかし雇用主の狂態を見て追求を続けられなかった。
「なんでっ!? どうしてこうなるのっ!? 最低限で済むように根回しして……!?」
工芸品もかくやの美貌を歪め、魔法で丁寧に結い上げた銀糸の髪を掻き乱す姿の鬼気にドン引きしたからだ。
未だかつて、この何をどうしたらぶち殺せるのだろうかと不思議でしようがない長命種がかくも無様に取り乱したことがあっただろうか。まるでこの世の終わりだと言わんばかりに血相を変え、この世の全ての理不尽に苛まれているかのようにしなやかな体が捻り上げられる。
ちょっと声をかけるどころか近づくことさえ躊躇われる狂態を前に丁稚は一瞬で宥めることを諦めた。これは多分、そんなことを気にしていられる状態ではない。下手につっついたが最後、八つ当たりで自分まで酷い目に遭わされる案件である。
「……エリザ、ちょっと散歩に行かないかい? 温かくなってきて、広場の噴水周りの花壇が綺麗だから」
「……それは素敵ですね、兄様」
なので彼は極めて賢明なことに妹を連れ、さっさと工房から離脱することに決めた。精神的な変質――あるいはこれをして成長と呼ぶ――により多少大人びてきた少女も、不安を覚えたのか兄の手をきゅっと握って同意を示す。
刺激しないよう可能な限りこっそりと出口に向かう二人には見えなかったが、あらんかぎりの精神力を費やしてアグリッピナが破り捨てるのではなく、放り投げるに留めた書簡に目をやれば事態を多少は理解できたのだろうか。
三重帝国の文書らしからぬ率直さで認められた書簡の内容を要約すると、こう記してあった。
三重帝国魔導院正規研究員アグリッピナ・デュ・スタールを教授会へ推薦し、教授位への認定試験を実施させるものとする。また、国策である航空艦建造において有意な助言をなした功績を讃え、三重帝国皇帝とバーデン公爵家及びグラウフロック公爵家の連名においてウビオルム伯に叙し、相続人不在により天領として管轄していた同地の徴税権及び兵権を汝に委ね、同時に宮中伯の位を与える物とする。
さて、教授推薦に対してアグリッピナは既に銀色の貴人もといマルティン教授の口から直接聞いていたため覚悟を決めていたし準備もしていた。
教授になるには奇人変人の集積所である魔導院の中でも一等の奇人を煮詰めて作った蠱毒もかくやの教授会にて認められねばならない。単に論文の出来が優れているだけではなく、実践能力も問われる試験の難易度は極めて高い。
なんと言っても多義的に“ぶっこわれた”教授共から凄まじい追求を受け、鋭すぎる質問が雨霰と浴びせられるのだ。このイベントによって「初歩的な質問で申し訳ないのですが」とか「その分野は素人なのですが」という枕詞で精神的外傷を負った研究員も少なくない。
唯一ハードルを下げている要素と言えば、人品や品性を問うことがないという点か。なればこそ、色々なネジとかストッパーにブレーキを脳から撤廃した連中が集まってしまったのかもしれないが、それは一旦置くとしよう。
当然、年に何人も教授への栄達を目指して挫折している試験だけあって、アグリッピナはこれを穏当に失敗する計画を立てていた。
要は実力を疑われない程度に出来の甘い物を持っていって、悪くないけど将来に期待かなぁと過半数以上から思われれば良いだけの話。常軌を逸したフリーダムさを見せ付けながらも、所属閥の教授をガチギレさせるまでに数年は保たせた彼女であれば簡単とは言わぬが困難でもない。
が、後に続く物が酷かった。
さて、三重帝国における爵位とは封建的な主従関係における世襲的な官職であるが、家につくものであると同時に土地の支配権にも基づくものでもある。これによりだれそれの家系の某伯爵であると同時に、与えられた領地である何処其処領主のなんとか子爵でもあるという一見奇妙な構造が同時に成立する。要は爵位とは家に紐付けられた格付けであると同時に、領地を治める者に与えられる称号でもあるのだ。
これは魔導院の教授達をみれば分かりやすかろう。彼等は名誉称号としての貴族位と爵位を持っている。元々家名がなければ縁者から新しい家名を付けてもらうか、以前に絶えた家系に肖って付けるものであるが、貴族としての権利は付帯すれど領地を持っている訳ではない。
三重帝国にはこのような貴族位を持つ官僚であれど、支配地を持たない貴族というものも多い。とどのつまり爵位とは、高位官職であることを示すシンボルでもあるのだ。
そして三重帝国は血縁を軽視こそしないものの、最も尊ばれる物は実力である。
故に皇帝が承認し他の有力貴族数家からの推薦があれば、生粋の貴族でなくとも貴種になることはできる。それが地下の出身であったとしても、外国出身者であったとしても。除外規定は精々が犯罪者や大権侵犯をしでかした極度の阿呆くらいのものである。
「どうせ初代は皆どこぞの馬の骨よ」と常のように言い続けた開闢帝リヒャルト以来の国是があってこその制度であった。
この国風により、有用な人物であると見出された――本人からすれば捕まったというべきか――アグリッピナは正式に叙爵されてしまったというわけだ。
先の例で言うならば、何らかの不幸によって途絶えたウビオルム伯爵の家名を褒美として与えると同時に、そのウビオルム伯爵家が治めていたウビオルムという領地の支配権も同時に与えるといった二重に貴族位を与えるという形である。
これは魔導院の貴族においては極めて例外的な処置であった。
原則として三重帝国は国家として魔導院を運営監督しているが――できているかはさておき――内部に大きく干渉することはしない。それをやるとキリがないことと、存在そのものが戦略兵器に等しい教授連中を過度に刺激しても誰も得をしないからだ。
だが、その原則を破って教授位に推薦した人間に先渡しで領地付きの爵位を放り投げ、あまつさえ“宮中伯”という帝城に詰めて皇帝の補佐をする事務方貴族でも最上位に近しい役職に任ずる事態はアグリッピナに重すぎた。
いや、誰にとっても重いだろう。
言外に皇帝がこう囁いているのだ。厄介極まる魔導院と自分の間に入り一切の折衝をせよと。
三重帝国皇帝が魔導院の奔放さに胃を痛めつけられていることをアグリッピナは重々知っていた。そして魔導院を古巣に持つ希なる人物の名が、どういう訳か“皇帝”として書簡に記されているのだから意図は明白である。
畜生やられた! その一心が思考を塗りつぶし、沸騰せんばかりの感情が呻き声となって口から溢れた。なんといっても想像していた最悪の事態、その斜め上を軽くブチ抜いて行ってくれたのだから。
狂態を晒しながらも髪が魔力で逆巻くこともなく、大気が震えもしなかったのは一欠片の理性が残っていたからだろうか。殆どが赫怒に塗りつぶされた多重の思考、その一部が冷静になって次の手を打てと処理能力を落としながらも回っている。
ただ、こうなって取れる手は少ない。
相手は既に電話帳を数冊束ねるレベルの横紙を裂いてきている。これを上回るには戦車並みの横車を押しきらねばならないが……父の権勢も故国ほど通用しないこの地においてアグリッピナに取れる手はなかった。
事態は教授位認定試験に落ちればいいという段階を越えている。むしろ、何がなんでも落ちることができなくなった。
ここで“やらかした”場合、皇帝の権威に傷をつけることになってしまう。
三重帝国の貴種達は全員がとはいわぬものの、大凡が寛容な方である。ありがちな平民がクソ貴族と愚痴っただけで舌を抜かれるような、貴種に非ずんば人類に非ずなノリではない。
それでも限度はどうしてもある。ここまで皇帝に目をかけられておいて、それを裏切ったとあれば……?
血液の代わりに液体窒素が血管を流れていくような怖気がアグリッピナの総身を抜けていった。思考の速さと半ば予言に近しい演算の精度が見せる最悪の未来が最悪すぎて、胃が絞り上げられたかのように蠕動する。妄想を打ちきるのがもう少し遅ければ、さっき飲んだ黒茶と感動の再会を果たす所であった。
勝手に期待をかけて裏切られたらキレるとは如何なものか、という世間一般での理屈は通用しない。なんといってもこの地は君主制によって統治されている。なれば、君主の面子というものは命よりも重い。
「……上等ぉ」
アグリッピナは乱れた髪を手ぐしで掻き上げ、手近に転がっていた櫛で雑に纏めた。そして暫く使っていなかった文机の椅子を引き、投げ出すように腰を降ろすと羊皮紙を引っ掴みインク瓶の蓋を開ける。
弱肉強食が世の常であり、文明を築き倫理というお綺麗な皮を被った人類も未だ本質的にその理屈を捨てきれていない。
相手を利用するのは貴族社会において極めて普通のこと。皇帝が自分の仕事を楽にする為に政治折衝で人間を一つ擦り潰そうが、学閥の主が意趣返しとして自分の閥の人間を生け贄に捧げて評価を上げようが誰に誹られることもない。
むしろ、それで利益を得ているのであれば帝国貴族かくあれかしと褒められるほどだ。
だが、喰いつかれた獲物が喰い返してはならぬという法もまたない。
アグリッピナは名声に興味はないが、我慢ならないことが一つあった。
舐められることだ。
嫌われるのは結構、無視したならこちらも関わらぬだけで、好意も鬱陶しくなければ適当にあしらい利用の一つもしてやろう。
だが軽んじられることだけは我慢ならない。嫌悪と違い、軽く見られる事は将来的に必ず悪い方向に働くから。人間という生き物は格下と認定した相手に何処までも残酷になれることを彼女は重々知っていた。
なればこそ、この奮戦もまた相手の評を上げることにも繋がるとしても、認定試験のため筆を執らざるを得ない。
最終的に相手の度肝を抜いて、この企みさえ手前に都合のよいよう転がしてやる為ならアグリッピナは一時の怠惰を捨てる覚悟をした。
結局、自分の人生に責任を負えるのは自分だけなのだから。
これより暫くの間、殺気さえ感じられる気迫で紙面を引っ掻くペン音だけが工房を支配した…………。
【Tips】宮中伯。上級官僚の中でも皇帝に直接侍る大臣級の役職。高度に専門的な知識を持つ者がそれぞれ専任分野における責任者として任命され皇帝を補弼する。平均して二〇人前後の宮中伯が帝城で政務を補佐しているが、時代によって人数と役職は大きく変動してきた。
ということで更新です。余裕があっても有用な人材を遊ばせておくほど勿体ないことはないですからね、しかたないね。シミュレーションゲームでハイスペック人材を連勤させたことのない者だけがマルティン教授に石を投げる権利を持ちます。
インターバルも数話というところで、次は夏に場面が飛びます。
また間を開けないで更新できればいいのですが、弊社は昨今の事情があっても殆ど平常営業だからどうなるでしょうか。