薔薇の思惑
一行が出発してから、しばらく経った後の話。
クラーク(ケビン・マイク)の姉エヴァ(エヴァンヌ・グリム)視点
ガーゴイルの鳴き声が、耳障りに響き渡る。
対するは褐色の肌を持つ武人。馬車の屋根を踏み台にして高く舞い上がり、あろうことか魔物の背に跨っての空中大乱闘だ。
水鏡の映像を見つめ、エヴァンヌはぽっと頬を染めた。
「まあ、素敵……」
野生化している魔物と違い、ガーゴイルは魔法生物に分類される。
特殊な技法によって生み出された仮初の命だ。知能は低いものが多く、創造主の命令を遂行する為だけに存在する。まあ、いわゆる空飛ぶトカゲだ。
そしてエヴァンヌが使っているのは「遠見」と呼ばれる魔術である。
アルバータ家にも水鏡に使われる水盆があった。しかし大画面での迫力ある映像を楽しむならば、女神殿の泉が最適だ。地面を掘り下げて作ってあるので、立ったままなのは少々疲れる。おまけに使用できる時間が限られているなど、欠点もいくつかあった。
それでも彼女が女神殿へ赴いたのは、弟が気になるからである。
「あんな口だけ男が主人で大丈夫かと思っていたけれど。ボリスがいるのなら、この先も心配いらなさそうね」
そんな風に呟いていると、隆々とした腕が一回り太くなったように思えた。
エヴァンヌが覗き込んだ矢先、会心の一撃がガーゴイルにめり込む。魔法生物を素手で殴るなど、正気の沙汰ではない。だが相当なダメージを受けたガーゴイルは情けない悲鳴を上げて、空中で体をのたうった。振り落とされたというよりは自主的に飛び降りたボリスが、すぐに上を睨む。
彼がまだ戦闘意欲を失っていないのは明らかだ。
「戻りなさい」
ぱしゃ、と水が跳ねた。
エヴァンヌはおもむろに泉の中へ手を突っ込む。そこはちょうど、逃げるガーゴイルが映っていた辺りだ。身を乗り出した彼女が手を引き上げると、ぴぃぴぃと鳴く生き物がもがいている。
中途半端に長い首、膨らんだ腹、羽毛のない二枚の翼。
ここに聡介がいたなら、指を差して叫んでいただろう。
犯人は貴様だ! と。
あいにく、当の本人はここから街をいくつも過ぎた街道にいる。
何も知らなさそうな少年が馬車を扱えるとは知らなかった。ボリスや可愛い弟に御者を任せないだけ、まだ評価してやってもいい。アルバータ家の御曹司を従者とする以上、それ相応の器が求められる。だが身分は関係ない。
ケビン・マイク=ドワロン・カート・アルバータは貴族だが、北川聡介はただの平民。通常では考えられない道理が、この国では通用する。
軍国主義とも、実力主義ともいわれるハルトリーゲル皇国。
「できれば、二度と戻ってきては駄目よ」
これでもエヴァンヌは姉として、クラークを愛している。
だからこそ思うのだ。彼の「ご主人様」を踏み台にしてでも生き延びろ、と。ガーゴイルをけしかけたのは、ソースケたちが長旅をするだけの能力があるかどうかを確かめたかったから。
ハルトリーゲル皇国において、アルバータ家は王族に次ぐ重鎮だ。
おそらく、どこの街へ行っても優遇されるだろう。十分な路銀は持って行ったようだが、それすらも使う機会がないくらいには家柄の影響は強い。強すぎるのだ。聡介は勘違いしているようだが、魔力の総量が大きいほど回復は早い。街から街へ移動するくらい、造作もない。一晩寝てしまえば、すっかり元通りだ。
おかげで無知が過保護に、倹約が優しさに変換されてしまった。
どんどん異世界人に傾倒していく弟を見ているのは忍びない。もう一度ガーゴイルをけしかけてやったら、今度は弱点を見抜いた上で倒したのだ。
「…………面白くないわね」
途中から現れた娘も、同行するつもりらしい。
観賞用員ではなく、人並み以上の戦闘能力を期待できる。明らかに聡介よりも実力は上だというのに、あの態度はなんなのだ。何様だ。彼女のおかげで何度か命を救われたというのに、恩も義理も感じていない厚顔ぶりは呆れを通り越して何も感じない。
「それにしても、異世界人というのは謎が多いわ」
大陸中の情報をかき集めると、思ったよりも目撃情報がある。
アルバータ家のように召喚魔法を使った例は少なく、偶発的に現れているらしい。その中の数件は異世界人が確認された地と、何らかの関連性が見受けられる。
この世界そのものに、異世界と引き合う原因があると考えてもいい。
「もう少し、様子を見た方がいいかしら」
「エヴァ」
後方から静かな声がして、エヴァンヌは慌てて立ち上がった。
乱れてしまった裾を直すついでに、髪も手櫛で整える。
この一連の仕草をばたばたとやらかしてはいけない。あくまでも優雅に、そしてたおやかにこなすのが、アルバータ家の令嬢として求められた最初のことだった。たとえ、相手に嘗められても感情を逆立ててはいけない。表面上は穏便に、その裏は苛烈に、報復を遂行すべし。自分自身と自身が大切にするものを蔑ろにされた場合の対処法を、エヴァンヌは忠実に守ってきた。
それが尊敬する人物であっても。
「神官長様、お久しぶりでございます」
「ええ、本当に」
ゆるりと目を細める彼女は、老女と呼ぶには若々しかった。
髪の色も落ちてきて、顔の皺もくっきりとしているのに美しさは衰えない。尤もエヴァンヌは彼女の若い頃を知らないので、さぞや衆目を集めただろうと想像するだけなのだが。
痩躯をたっぷりとした衣で包み、肩で切り揃えた髪が儚く揺れる。
(元々ほっそりとした方だったけれど、またお痩せになられたわ)
気苦労が多いのだろう。
女神殿に仕える最高位である彼女は、王宮にも顔が利く。ときどき相談役として呼ばれることがあるらしいが、最近の情勢はエヴァンヌも眉を顰めたくなる。
いや、ここ数年の大陸は静かすぎたのだ。
ちょうど代が替わって、若き君主が治めるようになった国もいくつかある。特に警戒すべきはバロアとプロスティンだが、ハルトリーゲルの隣国であるオルタンシア共和国が不穏な動きをしているとの噂だ。大陸の西にあるシクリア王国のような小国が複数集まって出来た国で、共和国としての歴史は浅い。
新しい国には、新しい国なりの勢いがある。
ハルトリーゲル皇国は強国であり、領土だけは大陸有数の広さだ。本来は気にも留めないはずの国に対して警戒するのは、隣国であるというだけではなさそうだ。
「ケビンは、無事に役目を果たせるでしょうか」
「あの子ならば心配いりませんわ。我がアルバータが最も誇る魔術師ですもの」
「召喚した異世界人は、使えそうなのですか?」
泉を借りた理由が水鏡のためだと気付いていたらしい。
美と豊穣の女神は、水を守護する女神でもある。己の願いを叶えるため、泉に祈りを捧げる風習がこの地にはある。エヴァは「弟の無事を祈る」という建前で通しておいたはずなのだが、やはり神官長まで騙せなかったか。
「少なくとも、考え無しの無謀人間ではなさそうですの。魔力持ちですし、何よりもケビンは女神様の祝福を受けた子。きっと宿願を果たしてみせますわ」
「そうですね。それを願うしか、ないのでしょう」
ふぅ、とため息を吐く神官長。
「お体の具合が思わしくないのですか? お顔の色がよくないですわ」
「年のせいでしょう。随分と長生きをしてしまいました」
「あら。神官長様のように年を重ねられるのでしたら、老いるのも悪くないと思っておりますのに」
「まだ若い貴女には、考えるべきことが他にありましょう」
しまった、とエヴァンヌは内心で臍を噛んだ。
ハルトリーゲル皇国の成人年齢は18才と、大陸の中ではやや高めの水準だ。しかし婚期は早く、女は成人する前に嫁いでいくのが一般的だ。エヴァンヌはとうに成人してしまっているので、親族からも早くしろとせっつかれている。
異世界人を呼び出すことに成功していれば、その限りではないのだが。
(ケビンでも失敗しちゃったんだから、慎重にもなるわ)
相手が異性の場合、主従関係を越えて婚姻ができる。異世界人としても貴族の後ろ盾ができるので、そう悪い話でもない。エヴァの一族から見れば、余計な親族を増やさずに済む。それに異世界人との間に生まれた子供は、潜在能力が高いのだ。
そういう事情もあって、召喚魔法を使う際に神殿を借りることができる。
「おば様、私って理想が高いんですの」
「エヴァ」
「たとえ異世界人であろうと、私が認める相手としか結婚したくありませんわ」
神官長は何か言いたそうにしていたが、結局諦めたらしい。
エヴァンヌが一度決めたら、絶対に曲げない性格だと知っているからだ。誰に対しても物怖じしないので、その美貌に反して寄せられる縁談は少ない。見た目と噂だけで近づいてくる男など、こちらから願い下げだ。
「こちらでの用は済みましたの。おば様、失礼いたします」
「ええ……」
慎ましく礼をとり、エヴァンヌは神官長の隣を通り過ぎた。
また聞こえてきたため息は気付かなかったことにして、意識は国境を越えたであろう弟へと向かっていく。彼らの試練はこれからだ。
きゅっと赤い唇が半月になる。
「せいぜい、死なない程度に頑張ってちょうだい」
誰に向けて言ったものか、それはエヴァにしか分からない。
神官長は、アルバータ姉弟にとって母方の親族にあたります




