黒い服の男
鳴り響くサイレン。張り巡らされた規制線。忙しく動く警察官の姿。
その向こうに、親友がいた。
「茜⋯⋯」
呼びかけても、返事はない。
彼女の腹には、ナイフが刺さっていた。
「茜っ!」
隣では湊が警察官に止められている。
数時間前まで笑い合っていた。
くだらない話をして。
いつも通り、三人で笑っていた。
それなのに。
もう戻ってこない。
その事実が胸をえぐった。
その日、澪は親友を失った。
そして――。
人と話すのが怖くなった。
それから、二年――。
「澪、行くよ」
玄関の外から湊の声が聞こえる。
「⋯⋯今行く」
澪は靴を履き、家を出る。
「遅いって、遅刻するよ」
「ごめんね」
「まぁ、いつも通りだからな」
二人並んで歩き出す。
いつもの道。 いつもの時間。昔とは少し違ういつも通り。
「そういや、友達できたか?」
湊が振り返ってくる。
「⋯⋯」
「悪かったな」
湊は何かを察したように、そう言った。
「そのコミュ症どうにかしないとな」
そう。私はいわゆるコミュ症だ。
人に話しかけられるだけで緊張する。
何を言えばいいのか分からなくなる。
あの日から――。
私は、コミュニケーションができなくなった。
「でも、俺とは普通に話せるよな」
「湊は仲がいいから⋯⋯」
「何それ?そんな理由?」
湊は笑いをもらす。
しばらくすると、通学生が増えてきた。
澪は湊の後ろに隠れる。
「おはよう」
不意に後ろから声をかけられる。
振り返ると、一人の女子がいた。
「あっ、えっと⋯」
声が小さくなる。
「おはよう」
湊が挨拶する。
「二人、一緒に来てるんだ」
「そうそう、家が近くてね」
「そうなんだ」
女子は笑って、澪を見る。
「月島さんも、おはよう」
「⋯⋯」
普通におはようでいいのか。それとも、何か面白いこと言った方がいい?
いや、それでスベったら⋯⋯。
様々なことが頭の中を巡る。
「お、おはょぅ」
ようやく、それだけ言えた。小さな声だった。
「ふふ。おはよう」
女子は気にした様子もなく、先に歩いていった。
「うぅ⋯。うまく出来たかな?」
「まぁまぁじゃない」
「ん〜」
澪はしばらく悩んだ。
「⋯⋯変じゃなかった?」
「別に」
「本当に?」
「本当だって」
「⋯⋯なら、よかった」
少しだけ安心する。
たった一言。
たった一度の挨拶。
それだけなのに、澪にとっては大仕事だ。
「じゃ、急がないと遅刻するぞ」
「まだ大丈夫でしょ」
「今日、俺日直だから」
「⋯⋯そうだったっけ?」
しばらく歩くと、学校が見えてきた。
「今日の一時間目ってなんだっけ?」
「国語」
「おやすみ」
「早いって」
「いや、朝だから」
「だとしてもだよ」
そんな話をしながら、二人で校門をくぐる。
周りには、友達と話しながら歩く生徒。部活の朝練に向かう生徒。眠そうな顔で欠伸をする生徒。
どこにでもある、普通の朝。
二人はそのまま教室へ向かった。
「おはよう」
「おはよー」
教室に入ると、あちこちから声が聞こえてくる。
「湊ー、やっほー」
「やっほー」
「宿題やった?」
「もちろん、やってねぇぜ」
「さすが、湊」
「褒めるなよ、照れるだろ」
「褒めてないって」
周りから笑い声が起こる。
湊も笑っている。
澪は少し離れたところから、その様子を眺めていた。
楽しそう。
私も、ああいうふうに話せたらいいのに。
「月島さん」
「⋯⋯っ」
突然、名前を呼ばれる。
さっきの女子だった。
「宿題、やった?」
やったけど⋯⋯どんな返し方がいいんだろう? やったよとか、やったけどどうしてとかかな⋯⋯。というより、なんで?なんのため?なんで私に?
「⋯⋯う、うん」
「見せてくれない?」
どうしよう? 普通に見せればいいのかな。でも、きれいじゃないし⋯⋯。
「⋯⋯いいよ――」
「ホームルーム始めるぞー」
先生が入ってきた。
「あ、じゃあまた後でね」
「う、うん⋯⋯」
女子は自分の席へ戻っていった。
澪はほっと息を吐く。
「⋯⋯疲れた」
「お前、まだ何もしてないだろ」
いつの間にか湊が隣に立っていた。
「したよ」
「何を?」
「会話」
「ほんの少しじゃん」
「私にとっては大変なの」
「もっと気楽に話していいと思うぜ」
私だってそうしたいんだけど⋯⋯。
「で、宿題見せて」
「駄目、自分でやりなよ」
「頼む!」
湊が手を合わせる。
「幼馴染だろ」
「幼馴染だからだよ」
「日向、早く座れ」
先生が湊を指さす。
「分かりましたよ」
「ふふっ」
澪は小さく笑う。
いつもの朝。 いつもの学校。
授業が始まって。休み時間になって。昼休みになって。
何も変わらない一日が、今日も過ぎていく。
――そう思っていた。
放課後。
「帰るか」
湊が鞄を肩にかける。
「うん」
澪も教科書を鞄にしまう。
「今日、どこか寄る?」
「コンビニ」
「また?」
「いいだろ、別に」
「昨日も行ったよね?」
「もう、俺あそこの常連かも」
「そうかもね」
そんな他愛もない話をしながら、二人は教室を出た。
校舎を出る。
放課後の太陽が、二人を容赦なく照りつける。
「あっっっっつい!」
湊が眩しそうに太陽を見つめる。
「よし、今日はアイスにしよう!」
「今日は?昨日も同じこと言ってたよ」
「まじか?じゃあ、今日もアイスにしよう!」
湊が拳を突き上げる。
それを見て、澪は小さく笑う。
いつもの帰り道の坂道を上る。
朝と同じように、二人並んで歩く。
「イテッ」
湊が不意に立ち止まる。
それに気づかず、澪は湊の背中にぶつかった。
「も〜、突然止まらないでよ」
「いや、ごめんごめん」
「どうしたの?」
「いや、あれ」
湊が指さした方を見ると、人だかりができている。
「何だろう?」
「さぁ?」
人だかりの向こうには、見慣れた男性が立っていた。
「高橋さん!」
高橋は澪たちに気づいたやいなや顔をしかめた。
「また君たちか⋯⋯」
「その言い方やめてくださいよ」
「いや、だってなぁ⋯⋯」
高橋は頭を掻く。
「事件の現場にはいつも君たちがいる気がするんだよな⋯⋯」
「そんなことないですよ」
「そんなことあるんだよ」
「まぁ。でも、俺らのおかげで解決した事件もあるじゃないですか」
湊は指を折って数え始める。
「恐竜展事件に、黒猫の呪い事件⋯⋯」
「ああ、そうだな」
「あと、なんだっけ?」
湊は首を傾げる。
「知らん」
「え〜。何でよ」
「俺はもう、過去の事件を全部覚えてられるほど若くねぇんだよ」
「そうだっけ?高橋さんって五十歳?」
「三十五だ」
「そっか〜。ごめんごめん」
湊が手を合わせる。
「で、どんな事件なの?」
「関わる気なのか?」
「もちろん」
「はぁ〜」
高橋がため息をつく。
「さっき、ここで人が一人亡くなった」
その言葉に、澪と湊の表情が変わった。
「⋯⋯事故ですか?」
湊が尋ねる。
「まだ分からない」
「分からないって?」
「ビルの非常階段から落ちた。現場の状況だけなら、事故の可能性も事件の可能性もある」
「なるほど」
ピロン。
湊のスマホが鳴った。
「すいません」
見ると、澪からのメッセージだった。
後ろを振り返る。
「何か伝えたいことがあるなら、自分で言いなよ」
「私には無理だよ⋯⋯」
「で、どうした?」
「高橋さんは『現場の状況だけなら』って言ってた」
「うん、そうだね」
「だから、現場の状況以外ではなにか分かっているのかも」
「なるほど」
湊は高橋を見る。
「現場の状況以外では何か分からないんですか?」
「まぁ、あるんだが⋯⋯」
高橋はビルの方を見る。
そこには、一人の女性が倒れていた。
周囲には警察官が集まっている。
「桜木薫。二十歳。転落による死亡とみられている。おそらく、あのビルの非常階段から落ちたと思われる」
「あのビルって⋯⋯」
湊がビルを見上げる。
「結構、高さありますよ」
「ああ。救急が来たときには、もう亡くなっていたそうだ」
湊が規制線の向こうを見る。
「でも、どうしてここから落ちたんですか?」
「それを調べているところだ」
高橋が答える。
「非常階段には手すりがある。普通に歩いていて落ちるような場所ではない」
澪はビルを見上げた。
――確かに。
事故にしては不自然だ。
「目撃者はいなかったんですか?」
湊が尋ねる。
「いた。が⋯⋯」
「が⋯⋯?」
「それぞれの証言が食い違っているんだよ」
高橋が肩をすくめる。
「だから、警察も行き詰まっていて、猫の手も借りたいんだ」
「なるほど」
湊がバンッと胸を叩く。
「俺たちが猫の手になりますよ」
――俺たち?
澪が湊の袖を引っ張る。
「私も?」
「そう。だって、澪、推理得意だろ」
「いや」
「よし、やろう」
「だから――」
「高橋さん、俺たちも協力しますよ」
「ちょっ――」
澪の静止も聞かず、湊が高橋を見る。
「そうだな⋯⋯」
高橋は少し考えるように黙る。
「⋯⋯とりあえず、話を聞いてみるか?」
「はい」
「じゃあ、ちょっとついて来い」
高橋は振り返り、歩き出す。
最初に話を聞いたのは、パーカーを羽織った男性だった。
「こちら、第一発見者の江口洋一さんだ」
澪は江口を観察した。
パーカーの中にはTシャツ。靴は使い古されたスニーカー。メッシュ生地のキャップ。 いかにも、ランニング途中、といった服装だ。
「発見したときのことを、もう一度教えてもらえますか?」
高橋はスーツの内ポケットから手帳を取り出しながら、尋ねる。
「またですか?もう話しましたよ?」
「確認のため、ご協力お願いします」
「分かりましたよ」
「ありがとうございます」
「俺は、いつも通りこの辺を走っていたんです」
澪は周りを見渡す。
確かに、ここはウォーキングコースとして有名だ。
「すると、突然――大きな音がして」
「どんな音ですか?」
「なんか、ドンっていう、何か重たいものが落ちたような音でした。まぁ振り返るとあの女性が倒れていたんで、すぐにあの女性が落ちたって分かりましたけど」
江口は振り返る。
そこには、薫の姿があった。
「それで、すぐに駆け寄って近くまで行って、呼びかけてみたんですけど、返事がなく⋯⋯」
江口は少しつらそうな顔をする。
「そのとき、何か見ませんでしたか?」
「特に⋯⋯」
江口は顎に手を当てて首を傾げる。
「あっ。その時、非常階段から一人の人が出てきました」
「人ですか?」
「ええ。なんか慌てた様子であっちの方向に走って行きました」
江口は後ろを指さす。
「その男が出てきたのは、被害者が倒れてからすぐですか?」
「はい。音がして、俺が駆け寄った直後でした」
「なるほど⋯⋯」
高橋は手帳にペンを走らせていく。
「その特徴は?」
「すいません。俺も慌ててて、あまり見れなかったんですよ」
「了解です」
高橋は今の会話を書き終えたらしく、手帳をパタンと閉じる。
「ご協力感謝します」
高橋が頭を下げる。
「次は、あちらの女性だ」
高橋が指さした先には、一人の女性が立っていた。
「大原奈緒さん。現場の近くを通りかかったそうだ」
高橋とともに近づいていく。
「大原さん。先ほどもお聞きしましたが、もう一度お話を伺ってもよろしいですか?」
「はい」
大原は少し緊張した様子で頷いた。
「私、仕事帰りでここを通ったんです」
「そのとき、何か見ませんでしたか?」
「はい。あの⋯⋯」
大原は少し考える。
「あの女性が、男性と話しているのを見ました」
「男性?」
湊が反応する。
「はい。あの非常階段のところで、二人で話していました」
「その男性の特徴は?」
「特徴というか⋯⋯」
大原はビルの方に目を向ける。
そこには、男性が二人いた。
大原は二人を見比べるように視線を動かし、右側の男性を指さした。
「あの人でした」
澪は男性を見る。
男性は黒のカーディガンを羽織り、スマホをいじっていた。
「なるほど」
高橋はその男性を見つめる。
「ありがとうございます」
三人は大原のもとを離れる。
「さて、次は――」
高橋は黒カーディガンの男性に近づく。
「上原徹さん」
「⋯⋯はい?」
上原はスマホをポケットにしまう。
「なんですか?」
「先ほどもお話を聞かせてもらいましたが、確認のため、
いくつか質問させてください」
「はぁ」
上原は曖昧に頷く。
「あなたは被害者と話していた、そうですね?」
「いいえ、違います」
上原はきっぱりと答えた。
高橋は澪と湊に目配せをする。
おそらく、『こういう感じで困っているんだよ』という意味だろう。
「では、そのときあなたは何をしてましたか?」
「特に。ここを普通に通りかかっただけですよ。そしたら、あの女性が男性と話していたんです」
「ん?」
湊が眉をひそめる。
「ねぇ、その男性誰だか分かる?」
「ああ、あの人」
上原は、少し離れたところにいる男性を指さす。
「あの男性ですか?」
高橋が確認する。
「⋯⋯はい」
上原は男性をじっと見る。
そして、少し眉をひそめた。
「⋯⋯あれ?」
「どうしました?」
「いや⋯⋯」
上原は首を傾げる。
「さっきと服が違うような⋯⋯」
「服?」
湊が反応する。
「はい。でも、俺の記憶違いかもしれません」
上原はもう一度、阿部を見る。
「顔は多分合ってるんですけど⋯⋯」
「どんな服か覚えていますか?」
「ん〜と、ちょっと待ってください」
上原は額に手を当てる。
「すいません。よく覚えてないです」
「そうですか⋯⋯」
高橋は残念そうな顔をする。
「ご協力感謝します」
高橋は上原に会釈し、その場を離れる。
そして、先ほど上原が指さした男性のもとへ向かう。
「阿部直人さん」
「はい」
男性が顔を上げる。
白いシャツに黒のズボン。黒いリュックを背負った男性だった。
「確認のため、先ほどのお話をもう一度お聞かせ願いますか?」
「分かりました」
阿部は素直に頷いた。
「被害者が落ちたとき、あなたは何をしていましたか?」
「俺っすか?」
「ええ」
阿部は少し考える。
「⋯⋯近くを通っただけですよ」
「この辺りを?」
「被害者とは会ってませんか?」
「ええ、会ってません」
迷うことなく答えた。
「薫には会ってません」
「では、そのとき何か見たものは?」
「⋯⋯そうですね」
阿部は少し視線を動かす。
「あの男が、薫と話しているのを見ました」
高橋がため息をつく。
「今度は、あの人か⋯⋯」
「今度は?」
「いえ、こちらの話です」
高橋は手を振る。
「では、ご協力感謝します」
高橋は阿部が指さした男性の方へ歩き出す。
けれど――。
ふと、阿部の姿が目に入った。
澪は阿部を観察する。
首元のボタンを外した白いシャツ。丁寧に手入れされた黒のズボン。パンパンに詰まったリュックサック。
「どうしましたか?」
阿部が澪の視線に気づいたらしく、尋ねてくる。
「あ⋯⋯」
どうしよう。何を言おう。
「その⋯⋯」
言葉が出てこない。
阿部が不思議そうに澪を見る。
「⋯⋯」
「⋯⋯」
場に流れ始めた沈黙と阿部の視線に耐えかねて澪は湊の後ろに隠れる。
「どうしたん?」
「いや、阿部さんに聞きたいことがあって」
「何?俺が阿部さんに聞こうか?」
「お願い」
澪は若干涙目になっている。
「阿部さん」
「ん?どうしたの?」
「さっき、あの人が言ってたんだけどさ」
湊は後ろから聞こえる小さな声に耳を集中させる。
「あの人、阿部さんの服がさっきと違うって言ってたんだけど、何か覚えている?」
「いや〜、覚えてないなぁ」
阿部は空を見上げる。
「着てる服なんていちいち覚えてないし」
「そうっすよね」
湊は頭を掻く。
「俺も昨日何着てたか覚えていないもん」
湊が微笑む。
「じゃ、ありがとうございました」
湊は軽く会釈し、高橋のもとに向かう。
澪もそれに続く。
「お前ら、何してたんだ?」
「いや、ちょっと」
「まぁ、いいや」
高橋は阿部が指さした男性に話しかける。
「猪野長次さん、ちょっといいですか」
「ええ」
猪野という男性は大きめの黒パーカーを羽織り、黒い帽子を目深に被っていた。
「大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
高橋は手帳を開く。
「では、被害者が落ちた瞬間、あなたは何をしてましたか?」
「特に何もないですよ。家に帰ろうとしてました」
「ですが、阿部さんはあなたが被害者と話しているのを見たらしいですよ」
「え?」
猪野は目を丸くする。
「ああ、あの時を見られたのか⋯⋯」
「どうしました?」
「いえ、特に。確かに、僕は薫さんと会って話しました。ですが、僕は殺してない!」
「ええ、ええ」
高橋が手で制する。
「よく分かりました」
「僕じゃないんだ!薫さんを殺したのは僕じゃない、あの男だ!」
猪野は勢いよく指を指す。
その先には、上原がいた。
「あの男が非常階段から降りてくるのを見たんだ!」
「分かりました、ありがとうございます」
「絶対あいつなんだ、刑事さんあいつを捕まえてくれよ」
「ご協力感謝します」
詰め寄ってくる猪野にうんざりしたのか高橋は話を切り上げた。
三人はビルの近くのファミリーレストランでアイスを食べながら涼んでいた。
もちろん、高橋のおごりだ。
「美味しい〜。いくらでも食べれそう」
「やめてくれ。警察の給料の少なさ、なめんじゃねぇぞ」
「冗談だって」
「で、どうだ?何か分かったか?」
「さぁ、俺は特に」
湊は隣の澪を見る。
「澪は?」
「まぁ、あるけど⋯⋯まだ憶測の域を出ないよ」
「いいから聞かせてくれ」
高橋は熊をモチーフにしたアイスを口に運んでいた。
「⋯⋯」
「?」
「⋯⋯⋯⋯」
ファミリーレストランのBGMがよく響く。
「⋯⋯」
「あっ、そうか」
高橋は何かを思い出したように手をポンッと叩く。
「すまないが、二人で話し合ってくれないか。まるで、俺なんかいないぐらいに」
高橋は少し離れた席に座り直した。
ありがたい。この少し不器用な警察官は私が人と話すのが苦手ということを知ってる。
だから、こうしてくれたんだ。
でも、警察官にその可愛すぎるアイスは似合わないかも⋯⋯。
「じゃあ、聞いていい?」
「うん」
澪は気になったことを順に話し始めた。
「まず、阿部さんの服」
「そうだね。俺も思った」
「彼はもともと黒い服を着ていた、と思う」
「え?」
湊は目を丸くする。
「俺も着替えたのかなって思っていたけど、なんで黒い服って分かんの?」
「シャツの肩に黒い糸くずがついてた。上に黒い服を羽織ってなきゃ、あんなところにはつかないと思う」
「でも、阿部さんが背負ってたバッグも黒だよ」
「そう、だから『そう思う』ってだけ」
「ん〜そっか」
湊は頭の後ろで手を組む。
「でもさ、犯人は上原さんじゃないの?大原さんは、薫さんと話している男性を見ているし、猪野さんは非常階段から降りるところを見たんでしょ」
「でも、犯人とは分からないよ」
澪はバニラアイスを一口食べる。
「それを言うな阿部さんや猪野さんだって怪しいよ」
「阿部さんは服のことで?」
「そう。あと、リュックの中身が気になる」
「何か入ってたっけ?」
「何が入っているか分からないけど、かなり詰まっていた」
「ふ〜ん」
湊はアイスコーヒーを飲み干す。
そして、液晶からおかわりを注文する。
少し遠くから、湊のおかわりを止めようとする声が聞こえたような⋯⋯。
おそらく、気のせいだ。気のせいだと信じ込もう。私には関係ないもん。
「で、猪野さんは?」
「猪野さんは、阿部さんと同じ」
「何が?」
「高橋さんはずっと薫さんのことを『被害者』と言ってた」
「うん」
「でも、あの二人は薫さんの名前を知ってた」
「確かに⋯⋯?そうだっけ?」
「そうだよ」
「そっか、じゃあ――」
湊は店員が運んできたアイスコーヒーを一気に飲み干す。
「犯人誰なんだよーー!」
「うるさいよ」
「だって分かんねぇだもん」
湊はテーブルに突っ伏した。
「まぁ、落ち着けって」
いつの間にか、近くに来ていた高橋が声をかける。
「警察にはこんな言葉があるぞ」
「ん?」
「現場百遍ってな」
「なにそれ?古い」
「でも、もう一回現場を見るのもいいんじゃないか?」
「分かったよ」
三人はファミリーレストランを出る。
会計の時に、高橋さんが私たちを睨んだのは気のせいだ、そう信じ込むことに決めた。
「現場百遍って言っても、何を見ればいい?」
湊が歩きながら尋ねる。
「それを今から考えるんだろ」
「雑いね」
「俺は昔からそうだ」
そんな会話をしながら、三人は再び現場へ戻った。
規制線の向こうでは、まだ数人の警察官が動いている。
「何かないかな?」
湊が周囲を見渡す。
澪も、ゆっくりと視線を動かす。
「手分けして探すか」
「分かった」
そして、数分後――。
「ない!」
湊が叫ぶ。
「何もない!」
「もっとそっち探してみるぞ」
高橋が湊の背中を叩く。
「え〜、疲れた〜。高橋さん、ジュース奢って」
「だから、俺の財布を乱用するな」
と言いつつ、ポケットから財布を取り出す。
「ほら、自販機で買ってやるよ。澪も来い」
高橋が手招きする。
澪は非常階段近くの自販機に向かう。
「何にする?」
「俺、コーラ」
「澪は?」
澪は話す代わりにサイダーを指さす。
「了解」
高橋は小銭を取り出す。
「やべっ」
チャリン。
小銭が一枚、自販機の下に転がり込む。
「何やってるん」
湊がしゃがみ、自販機の下を覗き込む。
「⋯⋯あった」
湊は小銭を高く上げた。
「いや、湊⋯⋯なにそれ」
「え?」
湊が高く上げた手を見る。
持っているのは、小銭――ではなく、黒のボタンだった。
「なにこれ?」
湊はボタンを見つめる。
澪もボタンを観察する。
光沢のある黒いボタン。穴に小さな黒い糸くずがついている。
「なんで、こんなのが?そして、誰の?」
湊はボタンを手で回す。
「ボタンだな」
高橋が言う。
「分かってますよ」
「じゃあ聞くな」
「さーせん」
澪は湊の手の中のボタンから目を離さない。
「⋯⋯」
「どうした?」
高橋が尋ねる。
澪は答えない。
頭の中では、思考が渦巻いていた。
江口は非常階段から慌てて出ていく人物を見た。 上原は阿部を、阿部は猪野が被害者と話しているのを見た。服装が変わった阿部。パンパンのリュック。ランニング途中の服装。 被害者の名前を知っていた二人。黒のパーカーと目深に被った帽子。
「⋯⋯分かった」
「え?」
湊が振り返る。
「何が?」
澪は少しだけ間を置いて答えた。
「この事件」
「犯人わかったの?」
「いや、まだ」
「まだか〜」
湊は少しがっかりした顔をする。
「じゃあ、何が分かったの?」
「犯人」
「ん?どういうこと?」
「証拠がないからまだ断定できないだけ」
「ああ、なるほど」
湊がニヤリと笑った。
「じゃあ、いつもの方法だな」
湊が立ち上がる。
「よし。じゃあ高橋さん」
「何だ?」
「もう一回、全員に話を聞きたい」
「分かった」
そして、三人は再び現場に戻った。
現場には、五人が集められていた。
江口、大原、上原、阿部、猪野。
「何?もう全部話したよ」
上原が少し不機嫌そうに言う。
「まぁ、待ってくださいよ」
五人の前に湊が立つ。
その手には、スマホがあった。
「最後に皆さんに確認したいことがあるんです」
湊はスマホを見ながら話す。
「みなさんが見た男性の服装、覚えていますか?」
「服?」
「ええ」
澪は湊の後ろからメッセージを送る。
「大原さんは上原さんが薫さんと話しているところを、猪野さんは非常階段を降りる上原さんを見た」
「ああ、そうだ。だから、犯人はあいつなんだろ」
猪野が勢いよく話す。
「いや、だから俺じゃないって」
上原が否定する。
「ええ、そうです。犯人は、上原さんじゃないです」
「じゃあ、誰なんだよ」
「まぁまぁ、待って。話す順番ってもんがあるんですよ」
湊は澪から送られてきたメッセージを読み上げる。
「大原さんは上原さんではなく、黒い服を着た男を見たんですよ」
「じゃあ、その男ってのは誰?」
「それは――」
湊は一人の男性を指さす。
「あなたですよね、阿部さん」
この場の全員の視線が阿部に向かう。
「俺?違う違う」
阿部は顔の前で手を横に振る。
「薫には会ってないし、黒い上着なんて着てないじゃん」
「ふ〜ん。じゃあ、これは知ってる?」
湊はポケットから黒いボタンを取り出す。
「これ、あなたのじゃない?」
「いや、違う」
阿部の顔が一瞬曇る。
「俺は――」
『黒い上着なんて着てない』
不意に阿部の声が湊の背中から聞こえた。
そこには、ボイスレコーダーを持った澪がいた。
「阿部さん。俺、黒い『上着』なんて言いました?」
湊は澪に対して親指を立てる。
「いや、だって⋯⋯」
「俺は黒い『服』と言いましたが、どんな服とは言ってません。なのに、なぜ上着だと分かったんですか?」
「⋯⋯」
阿部は何も話さない。
「黙秘ですか?まぁ、いいですよ。この事件を説明しましょう」
湊が五人を見渡す。
「まず、最初に薫さんと話していたのは――猪野さんです」
「⋯⋯!」
猪野の表情が変わる。
「これは阿部さんの証言から分かります。阿部さんは猪野さんが薫さんと話しているところを見た」
「ああ、そうだが」
猪野が頷く。
「ええ、そこはいいです。あんま関係ないです」
湊はスマホを見る。
「そのあと、薫さんは別の男性と話していた」
「⋯⋯私が見たのは、その男なの?」
大原が口を挟む。
「ええ、そうです。ですが、先ほども言ったようにその男性は上原さんではありません」
「じゃあ、誰?」
「それは、まだです。順番がありますので」
湊は指を立てる。
「その男性は薫さんと話し――おそらくここで揉めたんでしょう、薫さんが転落した」
「⋯⋯」
全員が黙って湊の話を聞いている。
「その音を江口さんが聞いた。そして、江口さんが非常階段から逃げる男を、猪野さんは上原さんを見た」
湊は声を少し強めた。
「みなさんが見た男性、全部同一人物です」
「え?」
澪が思わず声を漏らす。
「え?」
湊も声を漏らす。
「違った?」
ピロン。
湊の手のスマホが鳴る。
『違う。猪野さんは上原さんを見た。でも、それ以外は同一人物』
「やべっ」
湊がスマホを見る。
そこには、澪から送られてきたカンペがある。
「すいません、調子に乗りました。訂正します」
湊は軽く頭を下げる。
「猪野さんは上原さんを見た。そうですね?」
「ああ、そうだ。俺は確かにあいつを見た」
猪野が頷く。
「でも、それ以外の三人――大原さん、上原さん、江口さんが見たのは、同じ男性です」
「同じ⋯⋯?」
上原が眉をひそめる。
「はい」
湊は頷く。
「まず、大原さんが見たのは、薫さんと話していた男性」
大原が頷く。
「次に、上原さんが見たのも、その男性」
「そうです」
上原が答える。
「俺は、あの人を見た」
上原は阿部を見る。
「そして、江口さんが見たのは、非常階段から出てきて逃げていった男性」
「⋯⋯はい」
江口が頷く。
「大原さんが見た男性、上原さんが見た男性、そして江口さんが見た男性――」
湊は三つの証言を指で数える。
「この三つは、全部同じ人物だと思われます」
湊は恐ろしく優しい笑みを浮かべる。
「ですよね?阿部さん」
「⋯⋯!」
阿部の表情が固まった。
「大原さんは、阿部さんを上原さんだと思った」
「⋯⋯え?」
大原が目を見開く。
「待ってください」
「ん?どうしました?」
「私が見た男性は、こんな服ではなかったです。確か、黒い服を着ていたような⋯⋯」
「確かに、阿部さんの服装と違いますね。『今は』ね」
湊が阿部を見る。
「阿部さん、そのリュック、パンパンですね。何が入っているんですか?」
「警察でもない君たちに見せる必要はない」
「なら、俺は?」
阿部の後ろから高橋が出てきた。
「阿部さん、見せていただけますか?」
「⋯⋯」
「何もやましいことがないならご協力お願いします」
その声は優しかったが、有無を言わせぬ圧があった。
「⋯⋯」
阿部は少しの間、高橋を見つめる。
そして――。
「分かりました」
阿部がリュックを下ろす。
「ありがとうございます」
高橋がリュックのファスナーを開ける。
澪と湊も覗き込む。
「やっぱり⋯⋯」
そこには、黒いカーディガンが詰められていた。
「これは何ですか?」
「これは服です」
「分かってますよ、これは、さっき話していた『黒い上着』ですか?」
「⋯⋯」
阿部は無言を貫く。
「あれ?」
湊がカーディガンの袖を持ち上げる。
「ここ、ボタンが一つ取れてますね」
湊はポケットから黒いボタンを取り出した。
そして、カーディガンのボタンが外れた場所に合わせる。
「ぴったりですね」
「⋯⋯」
阿部の顔から、少しずつ余裕が消えていく。
湊は一つずつ指を折っていく。
「大原さんが見た黒い服の男」
湊は大原を見る。
「上原さんが見た阿部さん」
続けて、上原へ視線を移す。
「江口さんが見た、非常階段から逃げていった男」
江口が小さく頷く。
「それに、今の服とこのボタン」
湊は最後に、阿部の手元へ視線を戻した。
湊は指を折る。
「それだけじゃない」
「⋯⋯」
「俺が『黒い服』って言っただけなのに、阿部さんは『黒い上着』って言った」
湊は阿部を見る。
「どうしてですか?」
「⋯⋯」
「そして、あなたのリュックから黒い上着が出てきた」
湊は不敵な笑みを浮かべる。
「偶然にしては出来過ぎじゃないですか?」
「⋯⋯⋯⋯」
阿部は俯いたまま、何も答えない。
「阿部さん?」
高橋が声をかける。
「⋯⋯違う」
阿部が小さく呟いた。
「俺じゃない」
「諦めろよ」
湊が冷たく言い放つ。
「もう、諦めろよ」
「⋯⋯⋯⋯」
長い沈黙。
やがて――。
「⋯⋯そうだよ」
阿部が呟いた。
「俺は⋯⋯薫と話していた」
阿部が拳を握りしめる。
「別れようと言ったんだ」
その言葉に、湊が眉をひそめる。
「でも、薫は納得してくれなかった」
阿部は俯く。
「それで⋯⋯口論になって」
「⋯⋯」
「俺は⋯⋯頭に血が上って」
阿部はそこで言葉を止めた。
「⋯⋯押してしまった」
全員が息を呑む。
「薫が落ちて⋯⋯俺は怖くなった」
阿部は震える声で続ける。
「そのまま逃げた」
「だから、服を⋯⋯」
高橋が尋ねる。
「薫が俺の腕を掴んだとき⋯⋯たぶん、そのときにボタンが外れたんだろ」
阿部は黒いカーディガンを見る。
「俺は焦って、近くの場所で着替えたよ」
阿部は答えた。
「そして、何もなかったことにしようとした」
高橋はしばらく阿部を見つめる。
「⋯⋯分かった」
静かにそう言って、阿部に近づく。
「ここから先は、署で聞こう」
高橋が阿部の肩に手を置く。
「もう、嘘をつかなくていい」
阿部は小さく頷いた。
そのとき、澪と目があった。
「何で、俺だと?」
澪は少しだけ間を置いて答えた。
「言葉は嘘をつきませんから」
澪は微笑む。
阿部は高橋に連れてかれた。
事件は、終わった。
日も沈んだ夜。
湊は自分の部屋で空に浮かんだ星を見つめていた。
「今回も、茜につながるものはなかったか⋯⋯」
強く手を握る。
「絶対に茜を殺したやつを見つけ出して」
低い声で呟く。
「俺の手で、地獄に落としてやる」
月がのぼり始めた頃――。
澪は自分の部屋で天井を見つめる。
机の上には、勉強道具が置かれている。
その隣には、スマホ。
私はそれを手に取る。
画面を眺めていると、ふと茜のことを思い出した。
⋯⋯もう二年か。
あの日から、私は変わった。
人と話すことが怖くなった。
誰かと話すだけで、頭がいっぱいになる。
それでも。
「⋯⋯少しは変われたのかな」
小さく呟く。
「⋯⋯茜」
あの事件を解決する。
そのために――私は、これからも頑張ろう。
「⋯⋯おやすみ」
静かな部屋に、私の声だけが響いた。




