『川越まつり』あるいは『尿意』…6
酒の減りに反比例するように、バックパックはどんどん重くなってきた。これ以上山車を追いかける気力も、細田源吉についてなにかを考える気力もなくなっていた。山車の背中を見送り、ふと左を見ると時の鐘の向こうの境内に若者たちが座って溜まっていた。俺も彼らに倣おうと時の鐘の下を潜って境内に入り、社務所かなにかの建物の木製の縁台の左端に腰を下ろし、バックパックを降ろした。
境内は薄暗く、観光客もまばらに出入りするだけになっていた。目の前では手水舎の水がちょろちょろと流れ、その周囲に水溜まりを作っていた。俺の右では若者三人が写真を撮り、笑い、めっちゃめっちゃとなにかを喋り続けていた。祭りの音は少しだけ遠くなり、俺はふと桑名の石取祭を思い出して懐かしくなった。
見えないどこかで拍子木が打ち鳴らされ、そーれい、そーれい、と掛け声が始まり、石畳をがたがたと進む車輪の音が聴こえてきた。囃子が右を通り過ぎ、前方の向こうに小さくなっていけば、建築物を挟んだ一番街からの音が存在感を増し、手水舎のちょろちょろとした流水音も大きくなった。
新たにふたり、中学生ほどの男子がやってきたことを、俺は虚ろに認識した。服装がどうこうと把握する気力はなかったが、少なくとも制服姿ではなく、ひとりは山本淳一に似ていて、もうひとりは諸星和己には似ていなかった。ふたりは俺の前を過ぎ、なにかを話し、それから拝殿に背を向けて時の鐘に向かい合った。
山本淳一に似た方が声を発した。
「じゃ、今から俺は、時の鐘の神社にいる俺は、お参りするわ」
舌足らずなにやけた声だったが、時間と場所と存在と行為を明確にする、よい切り出し――
「彼女できますように」
「それは、氷川神社だよね」
俺が耳を傾けるや否や山本淳一に似ている方は率直な願望を口にし、諸星和己に似ていない方がすかさず妥当な指摘を入れた。彼はわか――
「えと、金持ちになりたい。イケメンになりたい。彼女ほしい。めっちゃ自分の欲」
山本淳一はにやけたまま目を閉じ、拝殿に背を向けたまま時の鐘に向かって両手を擦り合わせ、俺はとっさにウインドブレイカーの袖で口元を押さえて、笑いを咳払いに変えて誤魔化した。縁台の中年男性から発されたぶほぶほという奇妙な音を気にせず、山本淳一は続けた。
「それと、唇についてるほくろが消えますように」
「ん?」
似ていない方が訊き返し、山本淳一が繰り返した。
「唇についてるほくろが消えますように」
不思議と嬉しそうな山本淳一の声だった。ふたりはウインドブレイカー姿の中年男性が肩を震わせていることには気づかず、またなにかを話し、すぐに鐘つき通りへと出ていった。そこかしこで囃子は鳴り続け、おかめやひょっとこは舞い続け、若者三人はめっちゃめっちゃと喋り続け、手水舎の水はちょろちょろと流れ続けていた。
笑いが収まり、参拝を済ませた母娘が喋りながら去るのを目で追えば、時の鐘の向こうを山車が右に過ぎていくのが見えた。たなかたなかたなか、たーなーかたなかー、と若者のひとりが謎の歌を歌い始め、そろそろ行こうと俺は思った。酔いは回り、鼓動は速くなっていたが、酒を干したくなっていた。だが酒の前に、と俺は思った。さっきのふたりのために祈らなくちゃな。
重い身体をどうにか立ち上げてバックパックを掴み、石燈籠の柔らかな光の間に進み、石段を上がってバックパックを足許に置き、ポケットを漁った。五十円玉しか出てこなかったからそいつを賽銭穴に放り込み、二礼二拍手のあと、目を閉じて祈った。とりあえず、さっきのふたりと、今後ろにいる三人については、願いを叶え、幸せにしてあげてください――。
目を開き、一礼をし、五十円だから五人分でちょうどいいだろ、と思いながらバックパックを拾って身を引けば、かなえてつかわす、と誰かの声が聞こえた気がして、俺はまた笑った。手水舎の方に歩き、植え込みの中で街灯の光に照らされる由緒書を眺めた。薬師神社。ここもまた、愛すべき小さな社だった。俺は満足し、時の鐘の下を潜って通りに戻った。すべてのものがよく見えますように――。そんな祈りが「ときのかねひろば」の絵馬掛けにぶら下がっているならば、俺も同じ願いだった。
人が減った鐘つき通りを東へと歩いた。祭りの終わりが近づいていた。一番街が背中に遠ざかり、手を繋いだ三人の女子がぎゃはぎゃはと笑いながら過ぎていった。歩きながら、俺はバックパックから手品のように瓶を取り出して、酒を干した。背筋が痛み、肋骨の下が痛んだ。満身創痍だ、と俺は思った。これ以上歩けないし、歩きたくない。バックパックを背負い直し、ウインドブレイカーのジッパーを首まで上げて、とりあえず瓶を捨てることかもな、と思いながら、シャッターが下りた「ひまわり堂」の脇を過ぎて大手町交差点に出た。
二基の曳っかわせが右にはあった。痛い肩甲骨を引き、背中を伸ばし、山車の方へと歩いた。夜と酔いの中で距離感はいくらか失われていたが、地図上の位置はわかっていた。山車はだんだん大きくなり、囃子はだんだん強くなってきた。背中が痛い肩が痛い、と苦笑しながらバックパックを降ろし、大手町の会所近くの駐車場の段に腰を下ろした。思ったより低い段で、身体も重く、思ったよりどさりとした座り方になった。宮下町と大手町。囃子は続き、それから曳き分かれて遠ざかり、通りには再び静けさが戻ってきた。動き出すのも怠く、俺はしばらくそのままぼんやりと、会所の前に佇む関係者たちのシルエットを眺めた。
寒くなっていた。ここから徒歩三分ぐらいのどこかのホテルに帰り、柔らかくほどよい弾力のあるベッドに身を投げ出し、清潔なシーツの清潔な匂いを感じながら眠りたかったが、家には帰らなければ仕方がなかったし、川越駅まででさえ直線で二キロメートル、徒歩三十分の道程があることは知っていた。俺は立ち上がり、バックパックを掴み上げて背負い、どんよりと重い疲労を肩に、背中に、足の裏に感じながら、歩き始めた。俺が立ち上がるとなぜか、近くに座っていた眼鏡の男も慌てて立ち上がった。歩きながら、これからどうしようかと考えたが、大した案はなかった。札の辻でラストの曳っかわせ、結局はそういうことになるのだろう。昨夜と同じく仙台牛タンの煙を感じながらポケットパークの女性像と一緒に観るのもよかろう。だが、その前に尿だ。
すっかり人気がなくなった暗い道を、市役所に向かって歩いた。鈿女会の提燈が暗く灯る囃子連の会所には明かりが点いており、開いた扉の向こうの座敷には祭礼衣装の三人のばあさんが座卓を囲んで座布団の上に正座で座っていた。奥には山車の模型が飾られており、朱い上段四方幕と金色の鶏の図柄、人形の胸元に下げられたおかめの面と右手の神楽鈴が見えた。仲秀英作、天鈿女命。美しく賢く、愉快な女神だ。箸を口に運び、あるいはタブレット端末をいじるばあさんたちの祭礼衣装の背中にも優美な姿の天鈿女命が描かれていることを、俺は知っていた。
俺はさらに歩いた。視界の先の大手町の山車は交差点を左に折れて札の辻へと向かった。山車が去ったあとには通りの先の裁判所前の提燈の群れが見えた。俺は歩道に上がり、右、右と曲がって小便臭い便所に入り、洗面台の隣の小便器を前にして構え、窓の木製の格子の向こうの松村屋に下げられた赤い三つ巴の丸型提燈を眺め、ジーンズのジッパーを降ろし、じょぼじょぼと尿をし、立ち昇る湯気を左手に感じ、遠ざかっていく囃子と掛け声をぼんやりと聴きながら、甘い酒でねばついた唾液を二度、便器に垂らした。




