『川越まつり』あるいは『尿意』…1
昨夜から降り始めた雨は予報通り昼過ぎに止み、俺はバックパックを足許に置いてドア脇の手すりに右の肩甲骨と背筋をもたせ、北西に向かう東上線の振動とその音を感じながら、流れる架線越しの空を車窓の向こうに眺めていた。空には雲が広がり、雲の底には木炭をぼかしたような黒みがいくらか残っていたが、全体としては充分に晴れていると言えた。「冷涼で澄んだ、雨のあとの十月の午後の空気」としか形容しようがない空気を鼻と喉の奥に感じようと自転車をこぎながら何度も息を吸い込んできたこともすでに過去になり、東上線はじきに台地に登って川越駅に着き、そうすれば背後の優先席で通路を挟んで大声で喋り続ける五十代の男女四人も、きれいにいなくなるのだろう。男が喋る英語には日本人の訛りがあったが、手を叩いては大声で喋り続けるために優先席があるわけではないことを知らないのがどこの国のどんな人種なのかは、俺にはわからなかった。ふじみ野で乗り換える前の東急直通の各駅停車の向かいの席ではFukaseによく似た若い女が「やばくね?」と「えでもなんか」を交互に連呼しており、それが量産型の日本人女子であることは充分に理解できていたが、彼女たちの頭蓋骨の中に人間の脳味噌と呼べる類の物質が収まっているのかどうかは、やはり俺にはわからなかった。
国道十六号を潜り、川越ビジネスホテルを過ぎ、風景に十階以上建てのマンションが増え、マインが見えてきて、東上線は川越駅に着いた。想定通り五十代どもは降りていったが、俺は今日はここで降りるつもりはなく、視界にエキアが現れるのを眺めながらエスカレーターを上がり、アトレを抜けてクレアモールの手前で右に曲がり、三番町交差点を左に曲がって川越八幡宮や川越工業高校やまるひろの駐車場や「いちのや」や「芋十」や川越キリスト教会や佐久間旅館や「ひまわり堂」や「中矢組」を横目に過ぎつつ市役所やその先の裁判所を目指して歩いていくつもりもなかった。町の全体像。俺の頭の中にあったのはそうした関心事だった。発車メロディが鳴り、注意を促しながらドアが閉まり、外の音が閉ざされて車内の音に変わり、東上線は再び動き始めた。車内の空気はいくらか清浄で寛いだものになっていた。
バックパックを拾って背負う立ち上がりざまに、露店が並び人々が蠢く本川越駅前の通りの様子が見下ろせ、ほどなくして列車は川越市駅に着いた。下りのプラットフォームにはさほど人間はいなかったが、階段を上がれば上り電車でやってきたと思しき人間どもが充分な混雑を形成していた。いっぱい混んでるこの階段は、この階段は、めっちゃ混んでる、と母親に連れられた男児が低い位置から倒置法混じりの感嘆文で俺の代わりに状況の描写をしてくれ、そんな状況とざわめきの中を進んで階段を降り、どうして残高が九八七円しか残っていないんだろうと訝しがりながら改札をぴっと抜け、一昨日から三日連続で川越に来ているからかと離れ際に悟り、消毒液の置かれた折り畳みテーブル一台の臨時案内所とマスクを着用した係員を横目に過ぎて、外の空気と光と影の中に降り立った。
川越市駅から本川越駅までの道程は、承知していてもなお充分にうんざりするものだった。退屈な露店が延々と続き、人々はのろのろと歩き、女どもはひたすらなにかを喰らい続け、陽射しは熱くなってきて冷涼な空気と誤差を生み、エット・ケーテラ。家系ラーメンにも明光義塾にも河合塾にも大にもにしだ場にも、強すぎるベビーカステラの匂いにもそこで流されるポップスの類にも銅板を回すぎちぎちとした音にも攻撃的な外見の売り子にも、ストローラーに載せられた犬ころにも飼い主の気色悪い五十女にも俺はうんざりしきっていたし、うんざりしていない人間は頭がどうかしている。なにより俺をうんざりさせるのは二〇一四年頃から流行し始めたであろう狐の半面で、当人たちが粋なつもりで被っているのがなおさら滑稽だった。今では本物の天狐までが狐面を被ってそれらしく大幣を振るだけのただの一般人に見え始めており、これだけ似非狐どもが増殖しすぎればそれも仕方あるまい。道中で辛うじて俺の関心を引いたのはスタジオチコの赤いドアと日本共産党のブースだけであり、焼きそば二百円は確かに共産党らしい良心的な価格設定だろう。
白い体毛の獅子を旗印とする某球団の試合結果を善良な市民に伝えるべきボードを横目に本川越駅のざわめきを抜ければ、早々に左の前方から囃子が聴こえてきた。軽快な曲調で、正確な曲名は俺にはわからないが、ヤタイ、シチョウメ、おそらくはその辺りの曲目なのだろう。近づいてきているのが家光の山車であることは遠目にもすぐにわかった。朱色の四方幕の上に束帯姿の人形が出ていたからだ。あんあんあんと吠える小型犬をしゃがみ込んでにやにやと眺める飼い主の眼鏡男を冷ややかに見下ろし、駅舎を出て振り返って見上げれば、ペペの窓ガラスに雲が流れていた。
さてどうしようか、と考えながら、ひとまず夏の残りの日焼け止めをサイドポケットから取り出して顔と首と手の甲に塗り、辺りを見回して適当な場所を探し、本来はバス停として機能しているはずの空間の路縁に腰を下ろし、バックパックを傍らに降ろしてジッパーを開け、マテ茶のセットを取り出した。まずは落ち着き、場に馴染む必要がある、と判断したからだ。木製のマテに葉を入れ、左掌でマテの口を押さえてサカサカと上下に振り、傾けてまた振り、水筒の湯を少し注ぎ、ステインレス製のボンビージャを差し入れて葉を持ち上げ、さらに湯を注いで葉が浮いてくるのを眺め、ボンビージャを吸い、茶の熱と味と、木と葉の匂いを感じる。この半年ですっかり慣れた所作だった。俺にマテ茶を教えたのはメッシでもヌニェスでもなくエルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードではあり、かつてならば喫煙をしていたタイミングのいくつかがマテ茶の時間に替わったのが今年の――大厄を迎えた今年の――人生の変化のひとつではあったが、いずれにせよ俺は時おり湯を注ぎ足し、ボンビージャを咥えてはナチュラルでハーバルな香りと苦みのある茶を啜りながら、辺りを眺めた。落ち着くために辺りを眺めるというのは、近年の俺に身につきつつあるひとつの習慣だった。
ひびの入ったアスファルトは濡れ、ところどころに水溜まりを残していた。左にはテーブルとしての樽があり、樽からは白い骨が上に向かって突き出して黒い傘を広げ、その下に立食スペースを形成していた。そんな樽が四つあり、それぞれに家族やら男女やらその手の人間どもが集まって、設置者の意図通りに従順に立食を楽しんでいた。傘には白抜きでCOEDOの文字とロゴマークが印刷されており、街灯にもCOEDOのフラッグが揺れ、俺の角度からは見えないが、おそらくは樽どもと人間どもの向こうに同ビールの販売ブースの類があるのだろう。
ロータリー内の縁石にも、右手の木々の前のレイリングにも、そして俺の左にも、人間どもが座っていた。座れそうな場所があれば座りたがり、座っている人間がいればそれを模倣したがるのが人間の習性であることは祭り等の観察から学んでおり、俺もまさに習性通りに、尻の下にコンクリートの冷たさといくらかの湿り気を感じながら、この場所に座っていた。例外は右に佇む幼児連れの五十男であり、さっきまではCOEDOの瑠璃の瓶を手にしていたが、今度は深緑色の毬花を持って戻ってきて、珍しそうにラベルを眺めていた。地元の人間ではないのだろう。この辺りの人間ならば、愛飲こそすれCOEDOを珍しがりはしないからだ。家族の所有物であるストローラーのメイカーがcybexであることを確認し、それから正面の時計塔に書かれた文字を眺めた。ようこそ小江戸川越へ。
周辺状況および五十男の人間性の把握にも飽きた俺は、露店の背中が並ぶ通りの向こうのマンションに視線を移した。イトーヨーカドーの上に住居部分という作りで、現代風の下駄履きアパートと呼んで差し支えなかろう。ウッドフェンス的ななにかに囲われている店舗部分がどうなっているのかは外観からはよくわからなかったが、全体としては十五階建てほどに見えた。様子からすれば令和に入ってからの建築であるはずだった。生まれ育ったY瀬川沿いの団地についてまとまった調べ物をして以来、俺には建物の建築年代を当てる能力が備わりつつあった。イトーヨーカドーの上に住み着くことがコンテンポラリーでアーバンでラグジュアリーなライフスタイルなのかは俺は知らなかったし、興味もなかったが、イトーヨーカドーの生活臭溢れる本質を隠したがるということは、その存在はさほど喜ばしいものではないのかもしれない。矛盾した建造物の五階のバルコニーのアクリルパネルにくっきりと映る白い太陽を、俺は目を細めて眺めた。
家光のあとはどこの山車も来そうになく、意図していた一定の落ち着きも得られたので、俺は動くことにした。セットをしまって立ち上がれば視界にクリアさが生じており、マテ茶が効き始めていることを感じた。涼しい方が効きがよいのだろうか、そんなことを考えながら、遠ざかる囃子と売り子の呼び声と意味を成さない断片的な話し声の中を歩けば、祭り用に一時的に灰皿を撤去した喫煙所に人々が集まって喫煙している間抜けな光景が見えた。
白い曳き跡の残るスクランブル交差点では、青い機動服と青いキャップに白い手袋をした、ふくふくとして日に焼けたテイシンの警備員が、ワッペンの黄色い稲妻模様と同じ色の拡声器を手にして、どうぞ、お互い優しい心で譲り合って、お進みいただきますようお願いします、などと人々に語りかけていた。見るからに優しい心の持ち主でありそうな人間が発すると、実に説得力のある言葉だった。俺は感心して、それなりの雑踏の中を先へと進んだ。
昨夜氷川神社の前で見かけた五十女――囃子を奏する山車の前でなんのつもりか両腕を掲げて身体を奇妙に動かしては「HOO!」などと奇妙な声を挙げる五十女――も滑稽だったが――六本木を知っていれば恥ずかしすぎて到底できない振る舞いだ――すれ違う人間どもが被っているキャップのロゴがNYまたはLAばかりであることもまた滑稽だった。田舎者は相変わらず田舎者であり、どこの馬の骨でもないのだ。人は自らのストリートに両足で立たなければならない。埼玉の人間がラップをするならば、被るべきキャップにはLまたはパンジャの仔の横顔が縫い付けられているはずだ。
中原町の会所を過ぎた交差点で人の流れは滞り、俺は想定通りサブルートから北を目指すことにして左手の川越幼稚園の方に曲がり、中央小学校の西側は知っている、東側の道はどこに出るのだろうかと考えながら、同小学校の手前の角を右に曲がった。歩きながら右を見れば幼稚園の園庭のフェンスの向こうを家光の山車が北に向けて進んでいき、御祭禮提灯が下がる「土金」の二階の開いた窓からは、着物の男が腕組みをしてその姿を眺めていた。園庭の時計は十五時二十八分を指していた。
小学校は小学校として平和だった。柵の向こうのそれらしき棚からは、それらしきひょうたんたちが善良そうにぶら下がっていた。善良な小学生たちが善良に育てたものなのだろう。俺は祭礼関係者たちの背中を眺めながら白いガードレイルに沿って歩き、図工室らしきなにかを過ぎてところどころ塗装の剥げた黒い校門の前で足を止め、外階段の手前の花壇に設置された、きのこだかなんだかの平和な貼り絵が飾られた掲示板を眺め、それから黒い碑に白く刻まれた校歌らしきものに視線を移し、その歌詞を眺めた。
街並は美しくいらかをかさね、
むらさきの桐の花さくところ、
ここよ、わが川越。
その昔、城のそびえて
月夜には雁も鳴いたよ。
さほど校歌らしくない説明的な歌詞は、律儀な句読点をつけながら三番まで続いていた。眺めている間にも囃子と掛け声が通り一本向こうの背中から聴こえ、祭礼関係者たちや無関係者たちが後ろを過ぎていった。三峰や秩父の山脈のことまで言及されていたのは少し意外だったが、こうした歌詞も川越の人間にとってのひとつの川越のイメージではあるのだろう。俺は無目的に校歌を眺める自分の姿をサリンジャーの人物と重ね合わせて満足し、コアラの額と耳の穴から葉が出たような校章を見上げ、また歩き始めた。
金木犀の匂いがしていた。押しつけがましく、しつこく、趣味が悪く、頭が痛くなる、嫌いな類の匂いだった。南に向かう中原町のじゃらん棒とすれ違い、道は県道十五号に突き当たった。右を見れば左右の露店の先は連雀町交差点で、俺は位置関係に納得し、曳っかわせが終わったあとの羅陵王の背中を眺め、甲冑姿の河越太郎重賴が一番街の方向に向かうのを眺め、どこだかわからない山車が東の松江町交差点方面に消えていくのを人々の頭の向こうに眺めた。交差点のマンションのバルコニーからは住民どもが山車を見下ろしては動画を撮るなどしており、マンションが十一階建てであることを、俺は指で数えた。
交差点に向けて少しだけ歩いた。露店の前では六十女のストローラーに載せられた三匹の犬ころのうちの一匹が、きゃんきゃんとしきりに吠え盛っていた。茶色くもふもふとした、甲高く耳障りな声の間抜けな小型犬。どこにいるのも同じ犬だった。住民間の申し送り事項でもあるのだろう。あるいは八匹ほどの犬ころを町中でシェアしているのかもしれない。犬は飼い主に似るという。確かに知能と品性の程度は変わるまい。犬より猫の方がいい、と縁石に座る男児がコメントし、俺も同じ意見だ、と脳内で同意した。
歩道に移り、ガタガタと暴力的に震動するshindaiwaの赤と黒のBGR2600を見下ろした。日立の洗濯機だ、と俺は思った。この暴力的な震動と騒音は、まさに日立の洗濯機だ。もっとも、機能はする分、日立製品よりはこちらの方が遥かに優秀ではあるのだろう。俺は母親が五万円で売りつけられた日立の洗濯機を思い、その不愉快極まりない電子音と震動音を思い、洗濯行為をあそこまで不快なものに貶めた日立を憎み、それから意識を祭りに戻した。最近の祭りでは囃子より犬の喚き声と発電機の低周波音の方がよっぽど大きい、勝てるとしたら熊谷ぐらいだろう、そんなことを思いながらオレンジ色のケーブルがチュロスの屋台に繋がっているのを目で追い、目を閉じてガソリンの匂いを吸い込み、通りに降りてまた歩いた。向かいの露店では頭にタオルを巻いたばあさんが、真剣な表情で千切りのキャベツを鉄板の生地の上にぽっぽと置いていた。その姿は間違いなく美しかった。
三陸産わかめ、長崎きくらげ、富山県産干し柿、そんな場違いな品々が売られるブースを横目に眺め、中央通りを背に県道十五号を西へと歩いた。「いもの子作業所」と書かれた白いキャノピーの前で所在無げに、それでもにこやかに製品を手に振る善良そうな前期高齢者の女性を人々は無視して過ぎ、俺は足を止めていこうかとちらりと思ったが、善良そうな家族が俺の代わりに立ち止まってくれたので、安心してさらに歩いた。通り過ぎてからもう一度振り返れば、家族は充分すぎるほどの関心と笑顔と驚きをもって女性と話し、品々を眺めているようだった。平和で善良な世界の一風景だった。
よい光になっていた。魔法的な時間帯はしばらく前に過ぎたはずだが――この時期は十四時五〇分から十五時一〇分あたり、太陽高度二十二度前後、光と影のコントラストが最も強くなり、事物が本来の深みと重みを示す時間帯だ――影が長くなり、存在感は穏やかで、それはそれで悪くない時間帯だった。俺は岩田風呂店の角を右には曲がらず、この先はどうなっているのかと思い、逆光に目を細めながら、さらに西へと歩いた。
六軒町交差点か、と、見え始めた標示板に俺は思い、それから手前の案内標識に視線を移した。県道十五号、向こうは日高、そして秩父。遠いな、と俺は思った。埼玉県に充分すぎる広さがあることは、東西南北へと自転車で走り回ったこの夏にも思い知っていた。玩具屋の「あらい」ではやたらと鐘が鳴り、セブンイレブンはさほど混んでおらず、水縹色の祭礼衣装を纏った野田五町の関係者各位は五つずつ提燈が取り付けられた枠を三組、各々の足許に置いて交差点で待機し、夜の訪れに備えていた。誘導棒を腰につけた警備員と蛇腹型のバリケードが交通規制の終わりを示し、俺は交差点を右に曲がり、祭りの西端を北に向かってみることにした。




