第29話 水の国コ・レム・ノルゥ
「御二方は、神の存在を信じておられるかな?」
昨日にも聞いたばかりの質問だ。
その時は、否であると自分は答えた。
神とはその実在を信じようとするものではなく、人々の心のよりどころとなる思想であり、そして為政者が民の心をまとめるための道具でもある。
それが自分の“神”という存在に対する考え方だ。
「私の答えは、既に知っているでしょう」
「うむ。では、キリエ・メルクリウス嬢の方はいかがかな?」
そう聞かれたキリエ博士はと言えば、紅茶を一口飲んで思案するようにまぶたを閉じていた。
数秒間の静寂ののち、目を開いて吐き捨てるように一言。
「必要な時に救いの手も差し伸べてもこない神を、どうして信じられますか?」
「くくく、それは……全く持ってその通りだな。ただし、“神”という存在が人々にとって都合のよいものである、という前提があってこそだがね」
それはいったいどう言う意味なのかと、眉間にシワが寄った。
彼は既にコーレルの海に棲まうという“神”について語っていたはずだ。
コーレルの神は夜の海を当時のコーレルの民から奪い取り、その対価としてより多くの海の恵みを民へと与えることを約束した。
私自身はずいぶんと自分勝手な神だと思ったが、しかし約束のとおりに豊漁を人々へと与えている。
それによりコーレル村は大都市のようにこそなれずとも、繁栄を手にすることが出来たのだから、人間にとって『都合の良い存在』に当てはまるはずだ。
しかし今の彼の口ぶりからでは、そんな都合の良い神ではないように聞こえた。
それにだ。そもそもの前提として、ヘンリー氏は言い伝えの神など実在しないと言っていたはず。
「ヘンリー殿。なぜ再びこの質問を? あくまで言い伝えにおける神とは、漁師を襲う魔物達をまとめて指していたものでは無かったのですか?」
「先に言いますが、私はこの神の正体が半魚人の大きな群れであると今回の件で予想しましたが、実際のところはどうなんですか? 教えてください、ヘンリーさん」
自分と似たようなことを考えていたのか、キリエ博士も自分の問いに続くように持論を述べつつ問いかける。
対するヘンリー氏はといえば、まだまだ考えていることが浅いとでも言うように首を横に振り、またソファから立ち上がると本棚の方へと歩いていった。
本棚には美しい装丁の施された分厚い本が、古めかしいものから比較的新しく見えるものまで様々並んでいたが、彼が手に取ったのは指でつまむ程度の厚さしかない古いノートだった。
それから今度は棚の戸を開けて、中から片手で持てる程度の大きさの鉄製の立方体の箱を取り出して持ってくる。
「(また、あの模様か……)」
古ぼけたノートの方は見てもなんとも思わなかったが、箱の方はまずい。
黒い金属製の箱の上下四方全てには、あの『牙の並んだ口を開けた太陽』の装飾が丁寧にほどこされている。
大きさに対して重厚な雰囲気を醸し出しているその箱が、魔除けの模様をもってして内側にある何かを抑え込んでいるのだと、ひと目見て感じ取った。
「……ヘンリー殿、それは外に出しても良いものなのですか?」
「良くはない、が、見せる必要がある」
ヘンリー氏は、まずノートの方を開いて見せた。
古いものであるとは感じたが、しかし紙の状態からして年代物というほどでもない。せいぜい、ここ十数年の間に書かれた品だろうか。
1ページ目から順々に1ページずつ、数秒の間をおいて見せられていくが、そこにあるのは自分が見たことのない言語で書かれている文章がほぼ全てで、時折見える海洋生物らしき何かのスケッチ以外は理解できない。
「これは写しだ。原本は別の場所に保管してある。コーレル村の網元、つまり私の家系は代々当主になった者がこの写しを作ることで、災厄に備えてきた」
「“災厄”……?」
ぽつりとキリエ博士がつぶやく。
唐突に出てきた単語だ。しかし、それこそがヘンリー氏が隠していた話なのだろうと、彼の話の続きを待つ。
「ここにあるのは古い言語。かつて、コーレル村がコーレル村でなかった頃。バラム帝国に滅ぼされるより前の、『コ・レム・ノルゥ』という国で使われていた言語だ」
「コ・レム・ノルゥ?」
「意味は『眠りの宮』という。国につけるにしては奇妙だが、しかしそれはコ・レム・ノルゥに住まう者らがこの土地に生きる理由を忘れぬようにする為でもあったそうだ」
それを聞いて、またヘンリー氏の話していたコーレル村の言い伝えを思い出す。
コーレルの海に流れ着いてきた、傷付いた神。
神は夜に生き、昼に眠りにつくという。
しかし、不思議に思うのだ。
あくまで神は傷を癒す場所として、コーレルの海を選んだはず。
傷が癒えたのならば、神は神が居るべき場所に戻れば良い。
だと言うのに、なぜ神はこの海にいつまでも居る?
「……まだ、傷を癒しているのか」
ふと、口からこぼれた言葉を耳にして、ヘンリー氏は静かにうなずいた。
「コーレル村の人間はそのほとんどがコ・レム・ノルゥの末裔だ。そして代々網元として村の漁師たちをまとめてきた私の家系は、コ・レム・ノルゥの王族から続いている。我らはいつか神がその傷を癒し目覚める時、訪れるであろう災厄を止める為に準備をしてきた」
ヘンリー氏は次に黒鉄の立方体の箱へと手をかける。
細かな装飾だと思っていたものを彼が指で動かしていると、不意にカチャリと音が鳴って箱が開いて、その内側に隠されていたものが自分のキリエ博士の前に晒される。
「(こいつは……!)」
細かなところに違いはあるが、確かに見覚えがあった。
小さな箱の内側に鎮座していたのは1つの像。
それは、コーレル村周辺の山中にて発見した遺跡、そこに残されていた奇妙な紋章の生物に酷似していた。




