倶利伽羅峠~平家都落ち~義仲追討
一連の、治承・寿永の乱と呼ばれる戦いの中でも、源氏軍にとっての決定的な大勝、平家軍にとっての決定的な大敗になったのが、この戦い。
倶利伽羅峠に、木曽義仲が砦を構えた。義仲軍は平家軍を迎え撃つための、ある秘策を考えていた。
それが『火牛の計』だった。
火牛の計とは、牛の角に松明をくくりつけ、その牛を敵陣目掛けて突進させ、敵軍に大損害を与える、という戦法のこと。
義仲軍は5万、対する平家軍は10万。
義仲「勝敗を左右するのは兵の数ではない。いかなる戦略を立てるかだ。」
「義仲様、義仲様の見立てによると、平家軍はどうも、人数ばかりが多いようで。」
その一方で、こんな兵たちもいた。
「源氏と平家、どちらに付く?」
「どちらでもよい!有利だと思った方に付く!」
そして平家軍を率いていたのは、またもや平維盛の軍勢だった。
義仲軍は、平家軍に夜襲を仕掛けた。平家軍は慌てふためき、我先にと逃亡を図るが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。
そこに、坂道を猛然と、猛牛たちが突進してくる。
「うわあああっ!」
松明の火に焼かれる者、角で突進され、突き飛ばされる者、牛に踏みつけられる者、そして、崖から落ちる平家軍の兵たち。
このようにして、平家軍は多くの兵の命が失われた。10万の兵の大半を失った。
「わはははは!思い知ったか!」
「平家軍の大将は、腑抜けばかりか!?」
わずかな残党も討ち取られ、維盛は命からがら逃げ延びたものの、都に入ることも許されず。
義仲軍は、まさに倶利伽羅峠を駆け下りた猛牛の走りのごとく、勢いに乗り、そのまま都へ進軍。
「うわあああ!義仲軍だ!」
平家軍はもはや兵力も気力も残っておらず、そのまま都落ちした。
全ての責任を維盛に押し付ける形となった。
光源氏の再来も、これでは見るかげもない。
維盛は、そのまま離脱し、生きる気力も無くなり、その後自殺したともいう。わずか28歳だった。
維盛「ああ、平家なんかに生まれなきゃよかった、くそったれが!」
自殺したと伝えられるが諸説ありで、平家の身分を捨てて、落武者として生き延びた、生涯自分が維盛だということを明かさなかった、とも言われる。
都に入った義仲軍は、幽閉されていた後白河法王の救出に成功した。
武家が力をつけていたとはいっても、それでもなお、朝廷からの信任を得る、天皇や、上皇や、公家たちの機嫌をとり、信任を得ることで、結果的に武家も、その地位を高める、お互いに持ちつ持たれつの関係性だった。
義仲「法王、義仲にございます。これからは、この義仲がお守りいたしますぞ。」
後白河「おうおう、そなたには褒美をとらすぞ、何なりと申せ。」
義仲「さすれば、何か役職とか、官位とかをいただきたいと。」
後白河「それもよいが、都の治安を良くしてもらいたいものだ。」
ところが、義仲軍の兵たちが乱暴狼藉を働き、問題となる。
そんな中で、義仲は征東大将軍という役職をいただいた。
義仲「みなのもの、喜べ、征東大将軍となったのだ。」
義仲は、征東大将軍になった祝いの宴を開き、妻の巴御前や、腹心の今井兼平らを招いた。
義仲「巴!巴!喜べ!わしは征東大将軍じゃ!」
義仲は、巴御前の肩に手をやる。
義仲「兼平!兼平!さあ、酒を注げ!祝いじゃ!」
今井兼平には、酒を注がせる。
浮かれ気分の義仲。しかしそれも長くは続かなかった。
後白河は、義仲の増長を恐れ、頼朝に義仲を追討するよう命じる。頼朝は、義経と範頼を差し向けた。
世に言う、粟津の戦いが始まった。
義経軍は、やはり強い。しかし、義経にとって義仲は、頼朝に次ぐ、もう一人の兄のような存在。
義経の脳裏には、平泉に向かう途中に立ち寄った時の光景が甦る。
義仲は、腹心の今井兼平と合流した。
ところが、運悪く、馬がぬかるみにはまって動けなくなったところを、義経方の兵の放った矢が当たり、討ち死にした。
馬がぬかるみにはまり、身動きがとれなくなった隙に、矢を射られて討ち取られる、ということはよくあることだった。
まもなくして、今井兼平も、義仲が討たれたので、後を追うことになる。
その後、巴御前もまた、義仲が討たれたことを知るや、義仲の後を追った。
義仲との戦いには勝利したものの、義経の心には、やりきれない思いが残る。