巨星墜つ~清盛の死
1181年、3月20日。
武家として初めて、政権を取った男が今まさに、最期の時を迎えようとしていた。
『墓はいらぬ、頼朝の首を我が墓前に捧げよ・・・。』
という遺言を残し、平清盛は64年の生涯を閉じた。
死の間際、高熱にうなされる中で、清盛が見ていた夢は、地獄から己を迎えに来た亡者たちの夢ではなく、父、忠盛、そして母と過ごした幼少の日々のことだったのでは?
清盛を生んだ母の名は、祇園女御。
また、清盛には、父の忠盛の再婚相手である池禅尼という母親もいた。
生みの母と、育ての母がいた。そして、忠盛は実は育ての父であり、本当の父は白河上皇ではないかという説もあった。
長男の重盛が生まれた日のことも、夢で見ていた。
しかし結局、平家一門は、清盛ありきだったのではないか。
清盛ほどのカリスマも、頼朝、義経ほどの存在も、平家一門にはいなかった。
さらに、ここにきて、平家一門の内部における主導権争いで、不協和音も生じていた。
長男の重盛は合戦の前に死去。その重盛の長男である維盛のだらしなさもあった。
次男の基盛も既に亡くなり、主導権を取っていたのは、三男の宗盛と、四男の知盛だった。
平家一門は急速に求心力を失い、ちまたでは源氏に対する期待も高まっていた。
清盛の死は、頼朝、義経のもとにも、すぐに伝わった。
頼朝「何!?清盛が死んだだと!?
それで、清盛はわしの首を、己の墓前に捧げよと、言い残したのか・・・?
そうか、天は我らに味方したのか。このような形でな。
その遺言が実現することは、無い。」
義経のもとにも、伝えられた。
義経「できることなら、この手で清盛を討ち果たしたかった、この怒りを誰にぶつけたらよいものか。」
都を平家の手から奪還する、まずは平家を都から追い出すこと、公家たちからも要望が来ていた。
領民「そうねえ、最初のうちは、源氏にもそれほど期待していなかったけど、どうせ平家には勝てやしないとか、思っていたけど、勝てる気がしてきたね。平家の鼻をあかしてやろうじゃないの。」
そして、清盛の死は、この男のところにも既に知れ渡っていた。木曽義仲である。
義仲「清盛の死んだ今こそ、千載一遇の機会だ!」
倶利伽羅峠で迎え撃つ準備をしていた。




