赤の理由・1
「面倒な手間をかけさせてくれたな、本当に」
晩餐の間で待ちかまえていたガードナーは、タバコの煙を吐き出して秋水に話しかけた。
天井のステンドグラスには玖凪が開けた穴がそのまま残っていて、その部分だけ常闇が覗いている。割れていないステンドグラスからは朧げな光が差し込んで、晩餐の間を照らす唯一の光源となっていた。
光に晒されたガードナーの顔に浮かんでいるのは、すでに怒りや苛立ちといった類の感情ではない。
勝利を確信した者のみが敗者に向けることのできる、嗜虐的な笑みだった。
「この俺が時空間系統の能力に特化していることを忘れたか? 随分と舐められたものだ」
ガードナーの指からタバコが離れる。床に落ちたそれを、ガードナーはぞんざいに踏み潰す。
「そもそも魔力で創られた空間だ。俺にとっては作り変えることなど容易い。今やどの部屋であっても、通り抜けしようとすると必ず晩餐の間につながるようになってる」
ガードナーは秋水と玖凪を追いかけながら屋敷の中を回り、少しずつ自分に有利な場所に作り変えていたのだった。魔力を含んだタバコの煙は、ゆっくりと充満して屋敷を侵食していた。
玖凪の探知でも罠に気づけなかったのはそのため。緩やかに変化していく屋敷の様子を察知するためには精度が足りなかった。――否、玖凪は途中で違和感を抱いていた。それを蛇の攻撃で邪魔されたことにより、違和感の正体を遠距離からの攻撃のみだと勘違いしてしまった。
それも計算した上で、あのタイミングで蛇を差し向けたのだとしたら。
自分たちが対峙していた敵の恐ろしさを見誤っていた秋水は、無意識のうちに後ずさりをした。
背後にはガードナーが作成した水銀色の『門』が口を開けて待ちかまえている。反対に、渡り廊下の出入口はガードナーの向こう側にあった。
すでに逃げ場はない。完全に詰んでいた。
「このお嬢さんも愚かだねえ。勇んで駆けつけたのはいいけれど、結局何の役にも立たない。勇敢と蛮勇が異なることは知らなかったかな?」
吊るし上げられた玖凪の全身に蛇がキツく巻きつく。スカートから覗く包帯だらけの脚――辛うじて見えていた白い素肌に蛇縄の跡が食い込んでいく。玖凪は抵抗もできずに苦悶の表情を浮かべた。
「やめろ!」
秋水の悲痛な叫びが晩餐の間に響いた。
反応を十分に楽しんで、ガードナーは玖凪の縛めを少しだけ緩める。
そして、取り澄ましたような理性的な皮を被り、穢らわしい本性を隠しながら言った。
「実を言うと、俺もこれ以上面倒なことをしたくはないんだ。かける手間と魔力は少ないに越したことはない。だからイグニス、どちらかを選べ」
悪魔が差し出したのは理不尽で絶望的な選択肢。
「君が大人しくついてくるのであれば、彼女のことを放そう。抵抗するならば――このままくびり殺す」
寒凪秋水は――5年前の事件のせいで取り繕われた悪意に敏感になってしまった少年は、2つの選択肢にまったく救いがないことに即座に気づいてしまった。
後者は言わずもがな。前者の場合、敢えて「助ける」ではなく「放す」という表現を使っていることがその証拠だった。恐らくガードナーは玖凪に直接手を下すことはしない。が、もはや立ち上がることすら出来ない彼女を置き去りにして、そのままこの空間を閉じるつもりだ。
秋水がどちらを選んでも、玖凪には死ぬ以外の道は残されていない。
さらに、ねっとりと嫌らしくこちらを眺めるガードナーの視線から、秋水はもう一つの事実に気づく。
この男は、こちらに自身の思惑――どのみち玖凪を殺すこと――がばれていることに気づいている。醜悪な真意を隠す気がまったくない。
その上でわざわざ問うているのだ。「お前はどちらの方法でこの健気な少女を殺すのか」と。
ここまで来ればガードナーにとっては赤子の手を捻るよりも容易い。玖凪を一思いに殺すことも、秋水を拉致することも。すぐにそれをしないのは、妄執半分、遊び半分だからだ。
これは白南風玖凪に対する冷酷な復讐であり、寒凪秋水に対するささやかな嫌がらせだった。
「今から5つ数える。その間に決めてくれ」
無慈悲なカウントダウンが晩餐の間に響き渡る。
「5――」
全身から血の気が引いていく。
何もできない。自分ではこの状況を打破できない。
無力感が意識を苛んで、惨めな自分を上から俯瞰しているような錯覚に陥る。
このままでは――。
「か、ん、なぎ、さ――」
と。
上から途切れ途切れの声が降ってきた。
弾かれたように、秋水は声の主に目をやる。
「4――」
上空で捕らわれた玖凪は、髪の色が黒に戻りかけていた。発する魔力は弱々しく、首に巻きついた蛇を掴もうとすらしない。
どう見ても、彼女には戦う力は残されていなかった。
それでも玖凪は、右手を伸ばす。
渾身の力を込めて。
ただ真っ直ぐに、必死に、震える右手を秋水へと伸ばしていた。
一見、助けを求めている行為。救ってほしいと、童話の姫君が騎士に縋るような。
だが違う。これはそんな甘いものではない。
秋水には、解ってしまった。それだけの意志が込められていた――未だ光が消えていないサファイアの双眸に。
彼女は助けを求めているわけではない。
また手を取って、自分を使えと言っている。
白南風玖凪は、まだ抗う気でいるのだった。
「3――」
ドクン。
秋水の心臓が大きな音をたてた。
ぶん殴られたような衝撃で、頭の中がクリアになっていく。
なんなんだ、こいつは。
脆いようで強い、強いようで脆い。
それだけではない。いろんな面を持った少女。
この1週間で集めた大量の記憶が一気に押し寄せる。
初めて逢ったときは、今にも壊れそうな顔をして途方に暮れていた。
再会して、生真面目なところや意外とちゃっかりしている一面を知った。
澄んだ歌声に意識が惚けた。
絶体絶命の危機を前にして異常な胆力を見せつけられた。
『凪』の目。絹織物のような青髮。包帯だらけの身体。鉄壁の盾。
最後。
波が引いた後に残ったのは、自分を必要だと言ってくれたときの顔。
穏やかで、陽だまりのような笑顔だった。
本当の本当に変なやつ。
そして――寒凪秋水の世界に色をつけた張本人。
「2――」
空っぽだった秋水の中に、ストンと一つの答えが落ちてはまった。秋水はようやく自分の気持ちを正しく理解する。
死なせたくない。
白南風玖凪には、あの世界で生きていてほしい。
可能であれば――自分もその近くに。
それは、何も求めなくなった少年が5年ぶりに抱いた確固たる願いだった。
――否、願いというには生温い。秋水はもう、それ以外の結果を認められなくなっていた。
「もしも」なんて存在しない。
「願わくは」なんて許せない。
絶対に、絶対に死なせない。
「1――」
己が欲望を叶えるための誓いが火種となり一瞬で燃え上がる。
秋水が5年前、最後に抱いた願いは叶わなかった。
だから知っている。何かに祈ったところで奇跡なんて起きないということを。今ぐらついている理想を現実に手繰り寄せられるのは、自分の行動だけだということを。
奇しくも同じ舞台、同じ敵、同じ状況で赤の寵児は試される。
できるかできないか、ではない。
やるのだ。
秋水の中で眠っていた回路が5年ぶりにオンになった。
「――ゼ……!」
ラストカウント。
最初の一文字。
ガードナーの視界から秋水がかき消えた。
「……!?」
ザンッ、と重厚かつ壮快な音が晩餐の間の空気を斬り裂いた。風圧でシャンデリアをはじめとした調度品が一方向へと吹き飛ぶ。
背後、音の源を反射的に振り返ったガードナーは、そこにあった光景に言葉を失くした。
玖凪を拘束していた、蛇が絡み合ってそびえ立っていた大樹が、横一文字に真っ二つになっていた。
鋭い切断面からずれて一斉に崩れていく蛇の塊は、しかし、自然に消滅していくことを許されない。
真紅の焔。
空気に溶けるより早く、生き物のようにうねるそれが襲いかかり熔かしつくす。
晩餐の間は一瞬のうちに赤く赤く染め上げられ、煌々と火花を散らした。閉塞していた屋敷を解き放つような、爆発的で暴力的、なのに見た者を心酔させる燦然として鮮麗な焔は勢いを増して燃え盛る。
焔の主は、崩れていく蛇の残骸を踏みつけてガードナーの後ろに佇んでいた――両腕に、ぐったりと意識のない玖凪を固く抱きかかえて。
「これ以上、壊されてたまるか」
火の粉が舞う中、寒凪秋水は言った。
幽鬼の如くゆらりと顔を上げる。
焔を煮詰めた赤目と赤髪が陽炎のように揺らめいた。
「相手をしてやる。かかってこい、『大罪人』」




