青の盾・3
(総魔力量を100から150に引き上げ。盾に100、自己回復に20、余剰を30……)
「寒凪さん、これからどうするべきでしょう?」
部屋の小窓が開かないことを確認した玖凪が秋水に訊いた。
小窓にはガラスがはめ込まれていたが、本来そこから見えるはずの景色はなく、果てのない白がただ広がっているだけ。取手は引いても押しても微動だにせず、この小窓は壁の装飾の一部と言ったほうが正しいと判った。
「この空間自体の出入口は一ヶ所のみ――晩餐の間だけが『世界の狭間』に通じているんだろう。そもそも、お前はどうやってここに侵入できた?」
「えっとですね……」
がむしゃらに進んできたらしい玖凪は口元に左手を添え、自分のたどってきた道を思い返す。
「ちょっと上手く説明できないかもしれませんが……寒凪さんの通った跡? のようなものを追ってみたら河原に出て、そこに四角い光がぼんやりと浮かんでて」
――未知が作った『門』のことだ。
「入らなくちゃって感じて、飛び込んだら中は真っ暗でした」
「『世界の狭間』をよく無事に通過できたな」
「なんと言いますか……寒凪さんのペンダントが、つながってる感じがしたんです。釣り糸みたいに。この感覚を信じればいつか寒凪さんにたどり着くっていう――それが解った」
不可思議な自信を得た玖凪は暗闇の中を進んだ。どんどん進んだ。
やがて彼女は黒以外のものを目にすることになる。
「空間に、ぽっかりと白い丸い穴が空いていました。覗いたらすごい勢いで下に引っ張られて、落ちて落ちて――でも、寒凪さんが近くにいるっていう感覚が強くなって、これは突っ込むしかないな、と」
最後の決断だけは賛同しかねたが、玖凪がここにたどり着いた経緯は概ね理解した。
「やっぱり、ここを脱出してあの暗いところに戻ったほうがいいんでしょうか?」
首を傾げてこちらを見上げる玖凪の案に対し、秋水は思案顔になる。
「いや……それはあまり得策じゃない。『世界の狭間』に出たところで、このままだと確実に迷う。下手をすれば永久にあそこを漂う羽目になる」
「でも! 私でもここまで渡ってこれましたよ?」
「阿呆。それが可能だったのは、俺の魔力をたどれる媒介があったからだ。元の世界につながっているものがない今、お前は往きと違って地図も羅針盤もない遭難者だ」
大海よりも深く、広く、果てがない。それが『世界の狭間』という場である。加えて、ガードナーが仕掛けた罠が残っているとも限らない。対処法もなしに迂闊に出ればとんでもないことになる。
この状況を打開できる方法を、秋水は一つだけ考えつく。一番現実的で、助かる可能性の高い選択を。
「未知が来るまで、この空間にとどまって時間稼ぎをする――」
「未知さん、ですか?」
未知がいないことを密かに気にしていたらしい玖凪は、「未知さんは何処に?」と目で訊いてくる。
「未知とは『世界の狭間』ではぐれた」
「えっ! 大丈夫なんですか? さっき永久に漂うって……」
「お前もあの男も未知を過小評価しすぎだ。あいつが本気を出せば『世界の狭間』の最果てに放り出されたところで絶対に帰ってくる。計ろうとしても適切な物差しすらない、そんな女だぞ」
魔力の消耗に、ガードナーが仕掛けた罠。それらを考慮しても、未知はここに来ると秋水は確信している。
強く、信頼している。
未知が着いた時点で、形勢は逆転できるのだった。
「『門』を開いたのは未知、たどり戻れるのも未知だ。どのみち、未知の助けなしでは帰れない」
「じゃあじゃあ、未知さんが来るまでここでじっとしてればいいんですね」
方針が決まりかけて笑みを浮かべた玖凪だったが、
「いや、それは無理だ」
まだ話は終わっていないと秋水は首を横に振る。
「え、何が無理なんですか?」
「……お前が一番よく解っているだろう」
白々しく誤魔化そうと――引きつった笑みを浮かべ続ける玖凪に秋水は厳しい眼差しを向ける。
「あの巨大な盾は魔力の消耗が激しすぎる。維持するのはもう限界に近い」
バツが悪そうに目を伏せて、玖凪は押し黙った。明らかに無理していた外装が剥がれ落ち、疲労の色が濃く現れる。
明るく振る舞ってはいたが、玖凪の身体はすでにギリギリだった。かろうじて踏みとどまっている状態なのが、秋水には手に取るように――否、手を取っているからこそわかる。
(総魔力量150。盾に120、自己回復に20、余剰が10……)
盾に魔力が喰われ、余剰分がなくなりつつあった。
晩餐の間にそびえ立つ盾は、破格の性能を誇っている。現出系統魔術で出したとは思えないほどの強度を持ち、さらに時空間系統瞬間移動魔術すら封じ込めるおまけ付き。ガードナーを隔離できているのはこの特性ゆえだ。
しかしその分、とにかく燃費が悪い。腹を空かせた鼠の大群が数を増やしながら餌を食い散らかすように、玖凪の魔力を途轍もない速度で削っていく。
《赤戒の鎖》は玖凪を生かすために彼女から強化系統魔術を引き出している。自己の治癒力を強化して傷を癒す効果を発揮する、回復魔術。このままでは盾に割り当てる魔力が余剰を喰い潰して、回復魔術すらままならなくなる。
果てに待ち受けるのは玖凪のダウンと盾の消滅。未知が駆けつける前にその状況に陥ってしまえば、ガードナーに対抗する手段はなくなる。完全な詰みだ。
「だから、晩餐の間の盾は解除しなければならない」
「そ、そんなことしたらあの人すぐに追ってきますよ!」
「そう。――だが、性能はそのままに小さい盾を形成する分にはどうだ? 例えば、廊下を塞ぐ程度の」
「寒凪さん、まさか――」
玖凪は目を大きく見開くと、息をのんだ。
「必要に応じて盾を出しながら屋敷中を逃げ回って、時間を稼ぐつもりですか?」
誰がどう考えてもリスキーな方法であることは重々承知している。
それでも、時間を稼ぐにはこの方法しか残されていない。
秋水は膝立ちをして木製の棚の引き出しをしらみつぶしに開けていく。
お目当てのもの――羊皮紙に、羽ペン。それにインクの小瓶――を見つけると、器用に右手だけですべて掴んで再び床に座り直した。
「これ、持っててくれ」
インクの小瓶を玖凪の左手に持たせ、一方自分の右手で蓋を捻って開ける。中に羽ペンの先を突っ込むと、インクがついたそれを羊皮紙の上に走らせた。
「見たところ、屋敷は正確に再現されている。間取りはこうだ」
『コ』の字を右に90度倒した形を3つ、秋水は記す。右翼の先を示して間取りの説明を始めた。
「ここがさっきの晩餐の間。1階から3階まで吹き抜けになっている。実際は本棟から少し離れた別棟で、1階の渡り廊下を通らなければ入れない」
「やけに広いと思いましたが、3階分の高さがあったんですね……」
「あそこは少し特別でな。年に数回しか使われない行事用の場だ」
1階左翼にペン先を移動させると、一本線を引き、大きめの部屋を形作る。
「次に大きい部屋は大広間。ここは他の部屋4つ分以上の広さがある。他の部屋は似たり寄ったりの大きさだ。階段は全部で5カ所。中央に1つ、右翼と左翼に線対称で2つずつ。中央階段は1階エントランスからの吹き抜け」
スラスラと羊皮紙の上に線が増えていく。
最後に秋水は3階の左翼の端でペンを止めた。
「そして、今いる部屋がここだ」
これから逃走劇の舞台になるであろう建物の図面を、玖凪は食い入るように見つめていた。
正確な配置を頭に叩き込むために。
生き残る道筋を探り出そうと。
「だが……きっと向こうはなりふり構わずに来る。ショートカットを駆使して追ってくるだろう」
晩餐の間にガードナーを隔離できたのは僥倖だった。他のどの部屋とも接していない晩餐の間は、渡り廊下側から塞いでしまえば外に出る手段はなかったから。
しかし、一度ガードナーを晩餐の間から出してしまえば動きを制限することはできなくなる。盾で廊下を塞いだところで、接している部屋の床やら壁を壊されたら簡単に突破されてしまう。相手の攻撃に即座に反応し、臨機応変に盾を展開するという高度な技術が求められていた。
「……できるか?」
《赤戒の鎖》でサポートするとはいえ、実際に敵と渡り合うのは玖凪だ。
2人で生き残るためになんでもやるという決心が早くも揺らぎかける。本当に、玖凪に無理をさせる以外方法はないのか。
心苦しく思う秋水の問いかけに玖凪は応える。
「できるかできないか、じゃありません」
奮い立ち、疲労を払いのけた彼女が浮かべたのは、強かな笑みだった。
「やるんですよ」
迷いのない一言。成功を信じている玖凪の凛然とした表情に、秋水は目を奪われた。
弱音を吐いている場合ではない。
今自分がすべきことは同情ではなく、玖凪の信頼に応えることだ。
ふと、玖凪の細い肩に目が行く。薄いブラウスを1枚着ただけの少女は想像以上に華奢だった。肩は彼女の意志に反して小刻みに震えている。
折れそうな白百合の花を彷彿とさせるその様、低い体温に、何故今まで気を利かせられなかったのか。
「少しだけ手を逆にしてくれ」
「はい?」
秋水は自分が着ているパーカーの袖から右腕を引き抜き、玖凪とつないでいる手を入れ替えた。自由になった左腕から、完全にパーカーを脱ぐ。
「羽織っていれば少しはマシだろう」
パーカーを差し出された玖凪はキョトンとして、すぐに秋水の真意に気づくとはにかんだ微笑みを向けた。
「……ありがとうございます」
秋水がしたのと逆の手順でパーカーを羽織る。
「後で洗ってお返ししますね」
「……まあ、うん。そうだな」
無事に帰ることができれば、などと余計な事を付け足すのは止めた。
「行くぞ」
「――はい!」
敵を迎え討つために、2人は部屋のドアを開けた。
命懸けの追いかけっこが、始まる。




