消えない傷跡・11
雨が、雨が降っていた。
「姉さん?」
豪奢なドレスが濡れるのもお構いなしに、姉は庭園の片隅で独りうずくまっていた。
姉の目の前には泥濘に浸った植物の苗があった。花を咲かせることなく腐ったカルミアのガーネットクラウン。
ああ、そうだった。
姉はこの花を育てたいと、庭園の一部を専用の区画にして自ら世話をしていたのだ。
毎日、楽しそうにジョウロで水をまき、その後は些細な変化も見逃さないように長い時間をかけて眺めていた。普段はお転婆な面が強く出てしまう表情も、愛しい植物を見ているときだけは良家のお嬢様に相応しい楚々とした可憐さで溢れて、花というのは偉大なものだと密かに感心したものだ。
姉は、可愛らしい花が咲くのを今か今かと心待ちにしていた。
それが――。
連日の雨で全部台無しになった。
一つ残らず、苗は泥にまみれた。
どんなに頑張ったところでもう花を咲かせることはない。
「あーあ、なんでこうなっちゃうのかしら……」
背中をこちらに向けたまま、姉は呆然と呟いた。
魂が抜けたような、儚い声だった。
「しょうがないよ、こんなに長雨になるなんて誰も思わなかった」
いたたまれなくなって声をかける。
花はもう諦めるしかない。それよりも、早く姉を屋敷の中に連れ戻したかった。姉が雨にさらされてからだいぶ時間が経っている。
「――そうね、しょうがないわよね」
観念したように、姉は立ち上がった。
くるりとこちらを振り向く。
「そう、すべてしょうがないことよ」
優雅な笑みを浮かべた姉の顔は、赤い液体でまみれていた。
「…………!?」
今さら気がつく。
降り続く雨は真っ赤な、血の色をしていた。
赤い世界で、姉は苦痛とも苦悩とも無縁のような顔をして微笑む。
「ねえ、私の可愛い弟くん。貴方の短い人生の中でも思い知ったでしょ? この世の中、どうしようもないことはいくらでもあるって。どんなに努力して配慮して準備して、愛して慈しんで育んで、希望に向けて1つずつ大事に積み上げたところで、一瞬にして崩れ去る。そんな吹き荒ぶ嵐のような天災のような、はたまた人災のようなものがあるってことを」
姉は陶然と、赤い滝の空を仰ぎ見た。
雛鳥を迎え入れるように、あるいは不可視の供物を捧げるように、両手を差し伸べて。
「そういうものに遭ってしまったら、もう受け入れるしかない。受け入れて、過ぎ去って風化するのを待つしかないの」
姉の艶やかな長い赤髪は、明度が異なる赤に上書きされていた。
彼女はたおやかに前へ出る。
ドレスの裾は揺れて遊んで、フリルの部分に赤い海の飛沫が散った。
「だから、貴方が気に病むことなんて何一つない。私たちが死んで、貴方が生き残ったことに責任を感じることなんてない」
「……!」
優しい内容とは裏腹に、その言葉は体を蝕む毒だった。
握りしめた手の中にも赤い雨は浸食している。体は自分の意志と切り離されたように動かない。
すでに視界の中では赤以外の色を見つけることなどできなくなっていた。
その異常な世界で、姉は頑なに微笑み続ける。否、微笑み続けていられる姉こそが、一番の異常だった。
そして――気づいてしまった。近づいてくる姉の瞳から光が欠けていることに。
あれは、最期の目。
「そうしなければ、優しい貴方は壊れてしまうでしょう?」
彼女は目の前に立つとやはり女神のように笑った。
女神の中でも、死を司るものとして。
ゆっくりと、音もなく、姉の腕があがる。
人形のような細い指がこちらの頬に触れて――。




