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赤の理由 青の盾  作者: 賢木 緋子
第4章・消えない傷跡
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消えない傷跡・10

 前の『門』より通りにくい。

 その言葉の意味を秋水(あきみず)はすぐに理解することとなった。

 墨を溶かしたような空間に、絹糸よりも細い一本の光の筋が伸びている。かつて『門』を利用したときは道と言って差し支えないほど太く眩かったそれは、道標としても頼りないものに成り下がっていた。

 「この線から外れないようにね。迷ったら別の世界に行ってしまうから」

 先導しながら未知(みち)は言う。

 体内の魔力が反応して、未知の輪郭はぼんやりと光っていた。それは秋水にしても同じことで、2人は闇の中その明かりをカンテラ代わりに互いを認識して歩いていた。

 「いい世界だったよねえ、ホント」

 気を抜くと踏み外しそうな空間を器用に進みながら、未知は遠ざかる世界を惜しむ。

 「優しい人が多かったし、食べ物も美味しかった。元の世界にない技術もあって勉強になった」

 「……そうだな」

 「私は車をカッコ良く運転してみたかったんだけどね。5年じゃ足りなかったなあ」

 「おい……忘れたのか。自分の壊滅的な運転センスのなさを」

 世界を渡ってきた直後、未知が運転免許を取ろうとしたことがあった。取得しておいたほうが何かと便利だろうということで、当初は秋水も賛成していたのだが、仮免許にも届かない殺人的な運転テクニックを目の当たりにして考えを改めた。秋水の必死の説得を受け、未知は渋々取得を断念したという経緯がある。

 「お前が公道に出たら即捕まるから駄目だ」

 「酷いなあ。私そんなに下手じゃないよ? 人並みだよ?」

 「何を根拠にそんな恐ろしいことを主張しているんだ……」

 「あれだ、私の運転技術に耐え切れない車体のほうに問題がある」

 「責任転嫁するな」

 呆れる秋水を見て、未知はカラカラと笑った。かと思えば、すっと真顔になって秋水に問いかけた。

 「ねえ、秋水くん。秋水くんはあの世界が好き?」

 唐突な質問に、秋水は少しばかり硬直した。

 本来、半ば逃げ延びて辿り着いたあの世界に対し、好きとか嫌いとか、そういう観念を秋水は持ち合わせていなかった。

 そこにいるのが当然というだけ。流れる時間をただ淡々と見送ることしかしなかった。

 しばらく前に同じ質問をされれば、好悪の対象ではないと断じ、何故そんなことを問うのかと首を捻ったことだろう。

 ――それが、最近は少し事情が変わってきた。

 見ている景色に色がついた。時間の進みが穏やかだと感じるようになった。

 そして今この時、気づくのが遅すぎたと後悔し、あの世界でこれから出逢えるはずだったものに後ろ髪を引かれるということは、

「好き、だと思う」

きっとそういうことなのだろう。

 「そっか、そうだね」

 未知は嬉しそうな、悲しそうな、どっちつかずの顔で笑った。

 「じゃあ、約束しよう。私はもう一度、君をあの世界に連れていく。このゴタゴタを全部解決した後でね」

 「もう一度って……」

 そんなこと、可能なのか。

 前回もあれだけ大騒ぎしたのだ。再び許されそうな気がまったくしないのだが。

 「副作用が心配なのは違う世界を転々とする場合だから、1回渡っちゃえばこっちのものさ。1つの世界間であれば2回も3回も関係ないよ」

 国のお偉方が聞けば青筋を立てそうなことをシラっと言い放つ未知。

 「なに、そこは君が気にすることじゃあない。これは大人の責任だよ。さすがに私はもう一緒に暮らせないかもしれないけど……君は好きになった世界で生きる権利があるし、それを可能にしてあげるくらいの甲斐性はあるつもりだ」

 「未知……」

 未知はいつだって秋水の味方をしてきた。

 彼女の気持ちが、頼る人の一切を亡くした秋水の支えになったことは疑いようのない事実だ。

 ――だが、それは同時に、秋水の中に一種の罪悪感を植えつける。

 すなわち、「自分の存在は未知の人生を食い潰すに値するものなのか」ということ。

 もちろん、未知自身は「食い潰されている」などとは微塵も思っていないだろうし、やりたいことをやりたいようにやっているのは見ていればわかる。未知は自分の生き方に対してこの上なく素直な人間だ。

 しかし、自分と出逢わなかった場合に彼女が成し得た可能性というものが、どうしても秋水の視界の端でチラつくのだった。

 未知は慈愛の表情で秋水を見ていた。

 月光の如き淡い光を纏った未知はいつも以上の美しさをたたえていた。その姿は夢幻の類で溶けてしまうのではないかと思うほどに。

 ここで言うべきは感謝なのか、謝罪なのか。自分でも決めかねたまま秋水が口を開きかけたとき。


 「残念だが、それは無理な話だ」


 ガタン。

 「「!?」」

 空間全体が鳴動した。静寂に亀裂が走る。

 何処かで、噛み合ってはいけない歯車が動いた音。

 空気が――変わる。

 「驚いた。本当に驚いたよ、『月の宮』。まさかもう『門』を作ってくるなんて、こちらの見込みが甘かった。本当に大したものだ」

 「門番!? 貴様……」

 沼地を這ってきたような陰湿な声に秋水の背筋が凍る。姿は見えない。だが、ねっとりとした視線が熱く注がれている。

 その男の声は、忘れたはずだった。思い返そうとしても靄のように形が定まらない、そして、定める必要すらないものだった。

 それなのに――5年越しに聞いたその声には確かに聞き覚えがあって、発している人間の姿・動作、覇気のない表情まで瞬間的に蘇る。自分の体に刻み込まれた傷が一斉に開いたような感覚に、秋水は戦慄した。

 「まさかこの俺が、『入念に準備しておいてよかった』と思う日が来るとは。――だが、この領域まで来れば俺の勝ちだ」

 男は気だるげに手を叩くと、チェックメイトを告げる。


 「彼はこちらで譲り受ける」


 途端、秋水と未知が立っていた足場にスッパリと切れ目が入り、2人を別つ。そして、元々別のエレベーターに乗っていたのかと錯覚するほどのスピードで、秋水の足場が急降下を始めた。

 「秋水くん!」

 「――未知!」

 未知は秋水に手を伸ばすが、虚しく宙を掴む。彼女はそれ以上動けない。未知の足には黒い蛇の形をした負の塊が纏わりついて、移動を妨げている。

 「くっ! なるほど、そういうことか。嫌らしい考えだよ!」

 一方的な攻撃に晒されながら、秋水も未知も敵の狙いを悟った。

 ガードナーはずっと待っていたのだ。自分に一番有利な状況で戦えるこのときを。

 作戦なしに未知とぶつかれば、まずガードナーに勝ち目はない。だから彼は、自分の力を最大限生かし、なおかつ未知の力を殺ぐことに力を注いだ。

 時空間系統魔術に特化したガードナーにとって、この『世界の狭間』は唯一未知とも渡り合える場所。彼は長い時間をかけてこの場に潜み、ひっそりとトラップの山を築いていた。獲物が来たときに空間を完全に掌握できるように。

 きっと当初彼は、玖凪(くなぎ)を餌にして秋水だけここにおびき寄せるつもりだった。それが成功すれば未知との対峙を避けられる。しかし、それが失敗したため次善の策として、世界間移動のために通過するところを狙い撃つことにしたのだ。

 次善の策、とはいえ、まったく隙のない作戦。『門』を開いた段階で、未知は体力・魔力共に激しく消耗している。

 完全に、嵌められた。

 秋水の足場が落ちていく先。先ほどまで黒一色だったところに光の海が広がっている。

 それは優しい光ではなかった。水銀のような妖しい光。一面に満ちてぬらぬらと斑に蠢いている。

 本能的に感じ取った。あれに落ちたらその瞬間、別の世界に囚われてしまう。敵が用意した醜悪なルートの『門』だ。

 落ちる。墜ちる。

 急激な降下に耳が悲鳴をあげる。

 未知との距離が広がる。

 水銀の海が迫る――!


 ――だが、それを黙ってよしとするほど、未知は落ちぶれていない。


 「させるかあああああ!」

 ブチブチッという容赦ない音が響く。

 未知は自分の腕にまで侵食を進めていた蛇を力任せに引きちぎると、足場から跳躍した。

 槍のように加速。未知は漆黒のコートをはためかせながら、自ら水銀の海に突っ込んだ。

 その手に高濃度の魔力の塊を宿して。

 「たあああああああああ!」

 魔術でブーストした体はうねりをあげて一直線に急降下する。

 アメジストの瞳は迷いなく光り、眼下で待ち受ける敵の『門』を見据えた。

 「秋水くん! 伏せて!」

 秋水が底に到達する寸前、ギリギリ先に辿り着いた未知は、腕を振り下ろすとありったけの魔力を叩き込んだ。

 魔力と魔力がぶつかる。

 刹那。


 暴力的な光が空間を支配した。


 白。

 ――視界も意識も、あらゆるものが真っ白に塗り潰され、何も、見えなくなった。

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