滲み出す影・8
寒凪秋水が夕方の弁当配達を終えてコトリ弁当に戻ってきたとき、まだ雨は降り出したばかりだった。
すぐに容赦ない雨量になっていく様を店内の玄関から見て、ちょうどいいタイミングで帰ってこられたと胸を撫で下ろした。
「あー、こりゃ桜散っちゃうかもなあ」
店の奥から顔を出したオーナーが外を見てぼやいた。
「秋水くん、おかえり。雨も降ってきたし、今日はあがりでいいよ」
「いいんですか? 追加の配達があるかもしれませんよね」
「大丈夫大丈夫。追加あったら僕が車で行ってくるからさ」
オーナーの計らいで仕事を早めに終えた秋水が自室に戻ろうとしたとき。
「秋水くん!」
下宿の棟から未知が飛び出してきた。
「未知?」
らしくない彼女の様子に秋水は眉をしかめる。いつも余裕があり飄々としている未知が、顔面蒼白になっていた。
それ以上に普段と違うのは未知の服装だった。
黒いロングコートの下はふざけた着ぐるみではなく、どこの軍隊のものかと見紛うほどかっちりしたシャツ。機能的なパンツ。
彼女の耳元で輝いているのは、そんな服装には一見そぐわない大きな宝石のイヤリングだった。この世界には存在しない、特殊な宝石。魔術の力を高める効果のある代物。
すべて、この世界に来るとき未知が持ち込んだもの。
そして、秋水を慮ってそれ以来一度も身につけたことのないもの。
「秋水くん、落ち着いて聞いて」
未知は秋水の両肩を強く掴んだ。これから聞かせることから逃れられないようにするために。
未知の瞳が大きく揺れる。逡巡後、震える声で短く告げた。
「あいつらが、脱獄した」
「…………は?」
秋水は未知が何を言っているのか解らなかった。
秋水と未知の間で『あいつら』と言ったら『あいつら』以外にはありえない。だが、脱獄するなど、もっとありえないことのはずだった。
ではこれは冗談か? 否、未知はこんなことで冗談を言う人間ではない。
「なんで……」
かろうじて秋水の口から出てきた言葉はこれだけだった。
未知は自分でもわけがわからないというふうに首を振り、俯いた。秋水からは未知の頭上しか見えなくなる。これ以上動揺した表情を見せたくないのか。
「これはさっき来たばかりの情報だから、詳しいことはまだわからない。でも、その情報を信じるならば、6人全員が脱獄したらしい」
「全員……!?」
真実であれば考えうる限り最悪の状況だった。
「どうするんだ。もう一度確保できるのか? 何かアテはあるのか」
「とにかく、これからのことを考えなければならない。君は一旦部屋に戻って――」
ズンッ――と。
ここではない何処かで空間が歪に揺れた。
「……!?」
秋水と未知は同時に同じ方角に目を向ける。
駅のある方向。
見えなくても分かった。巨大な魔力がこの世界の摂理を捻じ曲げていることを。
魔力を探知する力は、聴力を例にするのが分かりやすい。魔力の探知能力と聴力は、力の程度が非常によく似ている。
例えば、数メートル離れていたら認識できない小さな音でも、耳元で鳴れば聞き取れる。一方、爆発音のような大きな音であれば、距離があってもすぐに分かるだろう。
これと同じこと。
魔力も、距離が近ければ近いほど、また力の規模が大きければ大きいほど認識しやすい。
今感じている魔力にあてられて、秋水は吐き気がした。この魔力の主は自分の行いを隠す気など一切ない。暴力的で嵐の如く荒々しい、理不尽な力を故意に振るっている。
直感した。これは自分たちに対する宣戦布告だ。
自分はここにいるぞというタチの悪いアピール。
存在するのは明確な悪意。
「おいおい……脱獄した挙句、着いた世界がまさかのここだって……? どんな嫌がらせだよ!」
未知は悪態をつくと、豪雨の先、魔力が発生している方角を鋭く睨みつけた。
未知の表情から、先ほどまでの動揺は綺麗に払拭されていた。だが、いつも浮かべている軽い笑みも見受けられない。
彼女は完全に臨戦態勢に入っていた。
「いい? 私が帰ってくるまで、絶対にここから出ないで」
短く命令すると未知は秋水の答えも聞かず、矢のように降りしきる雨の中へ飛び出していった。
黒のロングコートは闇に溶けてあっという間に見えなくなる。
一人取り残された秋水はどうすることも出来なくて、ただそこに立ち尽くしていた。
静寂がこの場を支配する。雨粒が屋根に当たる音が遠く聞こえた。
遂に耐え切れなくなって、秋水は廊下の壁にもたれかかる。そのままずるりと床に座り込んだ。
「どうして……どうして今になって……!」
呻かずにはいられなかった。
あの魔力の発生源をまだ確認していない現在、それが脱獄囚とは、自分たちとは一切関係ない可能性が残っていると言えば残っている。別の誰かが別の目的のために魔力を発生させていただけ、という可能性が。感じた悪意もこちらが自意識過剰になりすぎていただけだった、という可能性が。
しかし、秋水はそこまで楽観的に考えることは出来なかった。真っ先に飛び出していった未知もそうだろう。
こうなった以上関係していないわけがない、という気味の悪い確信があった。
5年前に遭遇した悪夢。
終わった話だと思っていたのはこちらだけで、裏では静かに牙を磨いでいた。
執拗に継続されている悪夢を一時だけでも忘れたくて、秋水は目を閉じる。
それでも目蓋の裏には血のような赤色が浮かんできて消えようとはしなかった。




