滲み出す影・7
「え? お休み?」
くりすの欠席を玖凪が知ったのは、2時限目に古典の辞書を借りるためくりすのクラスを訪ねたときだった。
以前、くりすが体調不良で学校を休んだときはメールをくれたけど。メールをうてないほど具合が悪いのかもしれなかった。
「返信なし、か」
部活動が終わって校舎の玄関を出た玖凪は、携帯電話を確認すると独り呟いた。くりすに具合はどうか尋ねるメールを送っていたが、新しい受信メールは見当たらなかった。
昨日で新しい曲のパート練習が終わり、今日は待ちに待った全体練習の日だった。
自分のパートが歌うのは曲の一部分でしかない。機械に組み込む前の歯車のようなものだ。それが全体練習で他のパートと合わせることで、ようやく形を成していく。歯車の状態では解らなかったギミックが作用して和音が大きなうねりとなる。その衝撃を最も新鮮に味わえるのは初めて全体で合わせたときであって、だから玖凪は今日の練習をとても楽しみにしていた。
それにもかかわらず、途中で練習を抜けたいと感じてしまうほどにはくりすが心配だった。
部活動が長引いたため、外はすっかり暗くなっていた。天気が下り坂なのか、湿気を含んだ空気の中にかすかな雨の匂いがした。
くりすの家までお見舞いに行こうか。否、本当に体調が悪いのであれば遠慮したほうがいいのか。悩みながら正門を抜けたとき、
「玖凪」
暗がりの中から自分を呼ぶ声がした。
驚いて声の出処に目を凝らすと
「…………くるちゃん?」
そこに佇んでいたのは体調不良で休んでいるはずの親友だった。
「くるちゃん! 具合は大丈夫なの!?」
玖凪はくりすに駆け寄る。
電柱の傍にいたくりすは風景と同化していて、声を掛けてくれなければ通り過ぎていたと思うほど覇気がなかった。元々色黒ではないくりすだが、今の顔色は病的なまでに蒼白だった。
そして不思議なことに、くりすは制服姿だった。
「あのね、玖凪」
やはり生気の抜けた声でくりすは言う。
「玖凪に、相談したいことが、あるの……」
病欠の人間が外出時わざわざ制服を着てくるだろうか。そう考えていた玖凪の頭は、くりすの一言で都合の良い解釈をした。くりすの欠席は、体調不良が根本的な原因ではないのだ。登校しようと出てきたはいいが、何かトラブルにあってそれどころではなくなってしまったのではないか。
くりすはいつも明るく、サバサバした強さをもった女の子だ。玖凪が困ったときはいつも力強く励ましてくれた。
その彼女が助けを求めているのなら、助けない理由は、ない。
「うん、私でよければ。何でも言って」
くりすはカクリと首を縦に振った。
「じゃあ、ちょっとついてきてほしいところがあるんだ……」
くりすは歩き出す。その歩みは覚束ないくせに異常に速く、一言で言い表すのであれば『ちぐはぐ』だった。
しかし、玖凪は気づかない。
そんなところに目を向けることなく、ただくりすの悩みを案じながらその後ろをついていく。
くりすが向かっているのは玖凪の下宿や商店街とは反対の方角、駅の方面だった。
駅の近辺は賑やかでお洒落なお店も多い。だが、学校帰りに駅に寄るとなると歩きでは結構な時間がかかるため、平日に訪れることはほとんどなかった。先月、くりすと買い物に行ったが、あれも休日だったはず。
「…………」
歩き始めてからくりすは一言も口をきいていなかった。
普段はどんなに話しても話題が尽きないのに。
くりすの後ろ姿を見ながら玖凪は思う。くりすは相談したいことがあると言ってくれた。それはつまり、話す意志はあるということだ。今無理に聞き出そうとするのは良くない。
歩き始めてから約20分、駅まであと1km程度の場所に差し掛かったとき。
「あ、降ってきた……」
雲行きが怪しかった空からぽつりぽつりと水滴が落ちてきた。最初は我慢できる量であったそれが、激しくなるのに時間はかからなかった。残念なことに2人とも傘は持っていない。
「玖凪、地下道に入ろう」
「う、うん」
くりすに促され、雨から避難するように地下道へ入った。
駅へと向かう地上の道は道路幅が広く、車の交通量も多い。この地下道は歩行者が安全に移動できるように設計されたもので、一度入ってしまえば地上に上がることなく直接駅の地下まで行けるようになっていた。
一見便利な地下道。しかし、正直に言うと玖凪はこの地下道が好きではなかった。
造られてから数十年が経過している地下道は、安心感や清潔感とは相入れない雰囲気を漂わせている。駅に抜けられる道でありながら利用者が多くないのはそのためだ。
異様に低く圧迫感のある天井。設置されている灯りの数が少ないせいか全体的に暗く、地下道というよりも洞窟に入っているような錯覚を起こす。ひと気はなく、無機質なアスファルトタイルの道が延々と続き、伽藍堂な空間はぽっかりと通行者を待っていた。
雨が降っていなければ、そしてくりすと一緒でなければ、この地下道を通ろうとは思わなかった。
「…………?」
早く通り抜けたいのに、意志に反して足が止まってしまう。
「どうしたの、玖凪」
「あ、ごめん。なんでもない」
先でくりすが待っている。玖凪は軽く頭を振ると、止まってしまった足を強制的に動かした。
きっとこれは、嵐の夜に子どもが怖がるのと同じことだ。この地下道は本来苦手な場所だし、一度出ればずぶ濡れになるくらいの雨も降っている。さらに、くりすも悩み事があるせいか塞ぎ込んでいるし。
だから、当たり前のこと。
こんなに不安な気持ちになるのは、状況を考えれば当然のこと――。
本当に?
本当に、そうだろうか?
今感じている気味の悪さは、本当にそれだけが理由だろうか?
校門でくりすと会ってから、纏わりついているもの。違和感。
これは、つい最近どこかで感じたものではないのか?
――ああ、だめだ。もう少しで思い出せそうなのに、最後の欠片が頭の何処かで引っ掛かっている。
寿命が近い蛍光灯が、点いたり消えたりを不規則に繰り返している。その不快な動きと音に集中力が奪われる。
何故かは分からない。
だが、玖凪は確信していた。これは、すぐに突きとめなければいけないことだと。
一体、一体何処で……。
「………………て」
顔を上げると、先を歩いていたはずのくりすが目の前に立っていた。
「くるちゃん?」
「……どう、して」
その目を見てぞわりとしたものが背中を走った。
睫毛が長く、ぱっちりとしたくりすの目。それが今は真夜中の海よりも暗く、澱が生じていた。
異様な様子が玖凪の記憶を呼び起こす。パズルのピースが嵌まる。
思い出した。
この嫌な感じは、千佳の頭上に看板が落ちてきたときにも――!
ズンッ――と。
「……あっ!?」
空間が振動した。飛行機が離陸するときにも似た浮遊感が体を襲う。嫌な感じの濃度が一気に上がる。
息が、苦しい。体が、重い。
来た道を振り返る。延々と続いていたはずの道がない。スッパリと黒い闇で切られている。
ここはもう、玖凪が苦手だった地下道ではない。まったく別の何処かに作り変えられている……!
くりすは空間の異常に気を払うこともなく、澱んだ目のまま玖凪に近づいてくる。
じわり、じわりと。ゆっくり、しかし確実に。
玖凪は気圧されて後ろに下がることしか出来ない。すぐに背中が壁についた。
「どうして……」
だらりと顔を上に傾けたくりすにはいつもの快活な雰囲気が微塵も残っていなかった。声に少しばかりの悲哀がこもっていたのは気のせいか。
「私じゃ、ないの……?」
くりすの細くて白い指が、玖凪の華奢な首筋に喰い込んだ。




