プロローグ~死と恋と未練の始まり~
静かな夜だった。
月は薄い雲に覆われ、光は地上へ届く前にかき消される。
王城の塔を吹き抜ける風の音だけが、世界の存在を証明していた。
アイン・フェルシオンは、その闇の中に立っていた。
生暖かい体温さえも暗闇に溶け込んでいる。
影と同化するのは仕事柄慣れている。
だが今夜だけは、胸の奥のざわめきを抑えられなかった。
――第二王女リフィールの命が危ない。
王の密命部隊【アサシンスレイヤー】に所属する俺は、
五年間ずっと彼女を暗殺者から守り続けてきた。
彼女は俺の存在を知らない。
声もかけられない。触れることも許されない。
ただ、彼女が笑って生きてくれれば、それでよかった。
今日も王女は塔の窓辺で本を読んでいた。
ランタンの橙色の光が、彼女の横顔を柔らかく照らしている。
「……綺麗だな」
思ってしまった瞬間、アインは自分を叱った。
感情は隙になる。
暗殺者狩りの身で、情に溺れるのは最悪の愚行だ。
その刹那、気配が走った。
闇の向こうから、黒衣の影が跳びかかる。
アインは躊躇なく空気を裂き、短剣で受け止めた。
「お前が……王女の影かっ」
暗殺者の目が血走る。
その一瞬の怯みをつき、アインは喉元へ刃を滑らせた。
勝敗は一瞬で決した………はずだった。
だが、
「……っ!」
腹に灼けるような痛みが走る。
相手も“相打ち覚悟”の刺突を繰り出していたのだ。
膝が落ち、視界が揺れる。
王女の部屋の光が滲む。
(守れた……それでいい…)
最後の力でポーチから小瓶を取り出す。
“ワンアップ”――命の格を1つ上げる、不思議な薬。
本来は王女を逃がすために使うつもりだった。
だが今の俺では彼女を運ぶことすらできない。
アインは迷わず口に含み、飲み下した。
自己スキルで錬成した秘薬だ。
その能力は格段に向上しているはず。
回復力の一助になればと最後のあがき………いや、未練だった。
瞬間、胸が裂けるような痛みと共に、
自身の輪郭がほどけていく感覚に襲われた。
「……俺は……まだ……」
王女の窓辺に、橙の光が揺れる。
彼女が振り返った気がした。
(せめて……あなたが生きる未来を)
その願いだけを抱き、アインは闇へ沈んだ――。




