プロローグ 「正しさの仕事」
ヴァレリアは報告書を最後まで読まなかった。
厚い紙の束を手に取ったが視線は最初の三行で止まる。
《余白派自然瓦解》
《主導者不明》
《死者なし》
そこで十分だった。
「死者がいない」
彼女は小さく呟く。
それだけが想定と違った。
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ヴァレリアは制度の人間だ。
混乱は想定する。
暴動も想定する。
鎮圧も逮捕も必要なら犠牲も。
理屈の上ではすべて計算に入れてきた。
思想が暴走すれば血が流れる。
血が流れれば口実ができる。
口実ができれば整理できる。
それが制度の手順だ。
だが今回血は流れなかった。
思想だけが崩れ形だけが消えた。
「理論上ではある」
ヴァレリアは窓の外を見ながら言う。
思想を壊し象徴を作らず犠牲も出さない。
そんなやり方は学問上の例としては存在する。
だが現実ではほとんど成立しない。
「彼か」
名前は出さない。
だが顔は思い浮かんでいる。
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副官が控えめに口を開く。
「表立った介入は確認されていません」
「分かっている」
ヴァレリアは即答する。
「だから厄介だ」
表に出ない。
命令もない。
証拠も残らない。
だが結果は出ている。
制度にとって最も扱いにくいのは
“成功してしまった無名の介入”だ。
処罰できない。
称賛もできない。
記録にも残しづらい。
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ヴァレリアは立ち上がり窓辺に立つ。
王都はいつも通り動いている。
市場の声。
馬車の軋む音。
洗濯物を干す女たちの笑い声。
守られている日常。
「制度は」
彼女は静かに言う。
「守るために人を切る」
それは彼女が何度も選んできた現実だ。
危険な芽は摘む。
秩序を乱す者は排除する。
その代わり多くを守る。
冷たいが明確な方法。
だからこそ。
「切らずに壊す」
そのやり方が気に入らなかった。
きれいすぎる。
そして再現しにくい。
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「副官」
「は」
「彼の次の動きを読む」
副官は一瞬言葉を選ぶ。
「余白派はもう存在しません」
「それは“形”の話だ」
ヴァレリアは机に戻りながら言う。
「彼は形を壊した」
「なら次は形を必要とする場所へ行く」
「制度の中へ」
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「魔法学院」
副官が言う。
「あるいは騎士団」
ヴァレリアは頷く。
「あるいは」
視線が王城の奥へ向く。
「王女」
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彼女は別の書類を開く。
《男性出生率低下》
《男性保護政策の再検討》
《余白思想の影響限定的》
指先で行をなぞる。
「男は」
「守られると依存する」
「依存すれば社会は歪む」
それが彼女の信念だ。
情ではなく統計と観測から導いた結論。
間違っているとは思っていない。
だが。
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副官が静かに言う。
「彼は守られなかった男です」
ヴァレリアは視線を上げる。
「だからこそ危険だ」
守られなかった者が
守られないまま立つ。
しかも
“守らないことを肯定する”。
それは制度の根本を揺らす。
守る者と守られる者という前提を
静かに崩す。
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「捕らえますか」
副官の問いは現実的だ。
捕らえることはできる。
容疑をでっちあげることも可能だ。
だが。
捕らえた瞬間彼は象徴になる。
弾圧された者。
制度に恐れられた男。
それは最悪の物語だ。
ヴァレリアはゆっくり首を振る。
「まだ」
「彼は」
「自分が壊したものの重さを引き受けている」
逃げていない。
騒いでいない。
名乗っていない。
それは処罰の対象としては弱い。
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「ではどう扱いますか」
副官が問う。
ヴァレリアはわずかに笑った。
冷たいが楽しんでいるわけではない。
「使う」
副官が息を呑む。
「ただし」
「こちらの土俵で」
制度の内側で。
記録の中で。
責任の枠組みの中で。
壊す力を管理できる形にする。
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夜。
ヴァレリアは王城の長い廊下を歩く。
足音が静かに響く。
目的地は一つ。
王女アリシアの執務室。
扉の前で立ち止まる。
「余白は」
「放っておけば思想になる」
「思想はいずれ武器になる」
だが。
「彼は武器にしない」
それが最も危険だ。
武器にしない者は制御しにくい。
旗を掲げない者は奪えない。
彼女は目を細める。
「ならば」
「武器を持たせるか」
「あるいは」
「持たせないまま使うか」
扉を叩く。
中から返事がある。
ヴァレリアは一歩踏み出す。
ここから先は
壊す者と
管理する者の対話だ。
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