プロローグ 「噂を数える女」
その日、俺は初めて「追われていないこと」に不安を感じた。
追っ手がいないのは良いことだ。命がある。自由もある。寝る場所や食べ物も、最悪どうにかなる。
でも――静かすぎるのは、逆に危険だった。
街道沿いの酒場。
壁際の席を選んで、俺は目立たないように座っていた。隣のテーブルでは、男たちが酒を飲みながら噂をしている。
「“灰色地帯”って言葉、聞いたことあるか?」
「聞いたことあるけど、なんだそれ?」
「名前もないところだよ。男でも女でも、役に立たなくても追い出されないんだ」
「へぇ、じゃあそこに行けば救われるのか?」
「救われるってわけじゃないけど……“制度の外で息ができる”ってことさ」
“灰色地帯”という言葉が聞こえた。
俺たちはそんな言葉を使ったことはなかった。名前を付けるのは避けてきたのに、人々は勝手に名前をつけたがる。
「でも、これって制度が悪い話じゃないのか?」
「いや、逆だよ。灰色地帯が正しいって話だろ」
その瞬間、俺の胸に冷たいものが走った。
正しさ――その言葉がついた瞬間、灰色地帯は灰色地帯ではなくなる。正しさは旗になる。旗は敵を作る。そして敵ができれば、剣が抜かれる。
「……聞いたな」
エリスの声が低く、剣を捨てた後の落ち着いた口調で言った。
「聞きました」
俺は頷くと、隣のセラも静かに視線を動かし、耳を傾けている。
「……情報が古い」
セラが言った。
「え?」
「昨日の言葉だ」
俺は眉をひそめる。
「でも、噂は噂だろ」
セラは淡々と続けた。
「噂は今朝、新しい言葉を獲得した」
エリスが嫌そうに顔をしかめる。
「何だそれ」
セラは、酒場の空気を切るように一言。
「“灰色地帯主義”」
――来た。
思想になった。
人々は概念に“主義”を付けたがる。それは便利だからだ。自分の立ち位置を簡単に整理できる。
「それ、売るのか?」
エリスが冷たく言った。
「売るわけじゃない。すぐに」
ミレイアが言った。
「でも、“灰色地帯主義”は、売れるわよ。響きがいいもの」
俺は、黙って彼女を見つめた。
それは、嘘ではなかった。
「売るな」
エリスが鋭く言う。
ミレイアは、目も動かさず返す。
「売らないわよ。だって誰かが勝手に売るから」
価値が生まれると、誰かがそれを市場に出す。止められない。
「……何が目的だ」
俺は、質問を投げかけた。
ミレイアは少し笑った。
「あなたを買う」
その言葉に、空気が凍った。
エリスがすぐに立ち上がろうとしたが、セラが手で制止した。
「冗談ですか?」
俺は冷静に問いかけた。
「半分」
ミレイアは微笑んだ。
「あなたの身体を買うのは安いわ。いくらでも替えが効くもの」
その言葉に、エリスがピクリと反応した。
「でも、あなたの“沈黙”は高い」
沈黙。
「あなたは象徴になれるのに、ならない」
「英雄になれるのに、演じない」
「思想家になれるのに、断言しない」
ミレイアは、まるで商品説明をするように言った。
「それが市場にとって不健全よ」
「不健全?」
「ええ」
彼女は頷く。
「“価値”は、分かりやすいほど売れる。英雄は売れる。敵も作れる。管理もしやすい」
「でも」
目が、俺の喉元に落ちた。
「でも、あなたみたいな“勝ち方を拒否する強者”は、売りにくい」
「売りにくいのに、欲しがる人が多い」
「だから高い」
――この女、危険だ。
味方にしたら、非常に危険だ。
ミレイアは、肩をすくめる。
「あなたがどこかで焚き火を囲んだ」
「その後、誰かが息をした」
「そして別の誰かが“灰色地帯主義”という言葉を作った」
「流通よ」
エリスが低く言う。
「……我々は、動かしたつもりはない」
「だから面白いの」
ミレイアは、にっこりと笑う。
「意図せず動いたものは、放っておくと歪む」
「歪む前に――形にする」
「形にすれば、潰されるわよね」
俺が言うと、ミレイアは肩をすくめた。
「潰されない形にするのが商人の仕事」
そして、さらりと爆弾を落とす。
「例えば、“場所”にしない」
「“組織”にしない」
「“思想”にも、しない」
エリスが目を見開く。
「……可能なのか」
「可能よ」
ミレイアは即答した。
「“手法”として売るの」
「再起のための中間拠点。名前を持たない支援。期限を固定しない滞在」
「制度の外で一度息をして、制度に戻す」
セラが初めて興味を持った声で言う。
「……制度の下請け?」
「そう」
ミレイアは頷く。
「だから潰されない」
俺の胃が嫌な感じに縮む。
(……上手い)
(灰色地帯を殺さないと言ってる)
(でも、飼うと言ってる)
ミレイアは、俺の表情の変化を見逃さなかったようで、微笑みが少しだけ深くなる。
「ねえ」
彼女が声を低くして言う。
「あなた、分かってるでしょう?」
「このまま放っておいたら」
「“灰色地帯主義”は、いずれ“正しさ”になる」
「正しさになったら、人を切る」
「切ったら、刃が必要になる」
「刃が必要になったら――あなたの沈黙は、誰かに破られる」
俺は、答えない。
答えた瞬間に、彼女の提案を認めることになるからだ。
ミレイアは、短く笑う。
「沈黙も商品よ」
「買う価値がある」
その目が、妖艶に見えたのは、彼女が色気を振りまいているからではない。
欲望の向きが金と構造に向いているのに、なぜか人肌の温度も混ざって見えるからだ。
彼女は立ち上がった。
「今夜、もう一度話しましょう」
「場所は私が用意する」
「――安心して。あなたを“売る”のは、まだ先」
去り際に、わざとらしく耳元に落ちる声。
「その前に」
「あなたが“欲しがる側”になる顔を、見たいの」
エリスが舌打ちする。
「……人をからかうな」
ミレイアは振り返らず、肩越しに笑った。
「からかってないわ」
「私、真面目なの」
その背中が人混みに消えたあと、セラが静かに言った。
「……危険」
「……うん」
俺も頷く。
エリスが、低く呟いた。
「だが」
一拍。
「必要かもしれない」
それが、最悪だった。
危険で、必要で、正しい。
そういうものは、たいてい後で人を壊す。
俺は、杯の水を飲み干しながら思った。
(……ミレイア)
(この女は)
(灰色地帯を守りたいんじゃない)
(灰色地帯を、使いたい)
そして、もっと嫌な予感がした。
(……でも)
(使うだけじゃ終わらない)
(この女は)
(“使ってしまった後の責任”まで)
(見ている)
それが、商人として優秀すぎた。
――そして、人として危険すぎた。
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