狩る者は、すでに隣にいる
セラは、あえて追跡を始めなかった。
始める必要がなかったからだ。
彼女にとって「追跡」とは、足跡を辿ることではない。
対象の生活リズム、動線、癖、判断速度を頭に入れた時点で、ほぼ終わっている。
あとは、いつ刃を入れるか。
それだけだ。
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王都の夜は騒がしい。
街灯が並び、酒場からは笑い声が漏れ、市場の残り香が風に混じる。
だがセラの世界は違う。
屋根の上。
煙突の影。
二階の窓と窓の間の死角。
人の視線が絶対に届かない位置から、彼を観察する。
(逃げない)
それが最初の違和感だった。
対象の男は、隠れない。
護衛を付けない。
変装もしない。
時間をずらすこともしない。
酒場に入る。
本屋に寄る。
市場で立ち止まる。
まるで「狙われていない」と分かっている人間のように振る舞う。
(愚かか?)
セラは感情を交えない。
だが評価はする。
暗殺対象としては最悪だ。
警戒が薄すぎる。
なのに――
死角がない。
それが二つ目の違和感だった。
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初日の夜。
セラは三度、距離を詰めた。
一度目。
路地の交差点。背後三歩。
二度目。
宿屋の裏口。腕を伸ばせば届く位置。
三度目。
階段の踊り場。真上から落とせる角度。
どれも成功率は高い。
だが。
(やれない)
理由は単純だ。
彼は無防備ではない。
護衛はいない。
武器も見せない。
だが立ち方が自然すぎる。
背中を壁に預ける角度。
人混みで止まる位置。
扉を開けるときの足幅。
どれも訓練された動きではない。
兵士のそれでも、暗殺者のそれでもない。
なのに、間合いが崩れない。
(気味が悪い)
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三日目。
セラは方法を変えた。
追うのではなく、並ぶ。
市場の人混みの中、彼の横をすれ違う。
肩がわずかに触れる。
その瞬間。
彼が足を止めた。
(気づいた)
セラは止まらない。
振り返らない。
そのまま歩く。
だが背後から声が届く。
「尾行、上手いですね」
心拍がわずかに跳ねる。
彼は振り返っていない。
前を向いたまま、歩き続けている。
「でも」
「距離、ちょっと近い」
セラは無表情のまま答える。
「失礼」
声色は一般人そのもの。
「いえ」
彼は軽く返す。
「気をつけてください。この辺、夜は物騒なので」
思考が一瞬止まる。
(私を、気遣った?)
殺意は、完全に消えていた。
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その夜。
屋根の上で、セラは一人座っていた。
頭の中で言葉を並べる。
契約対象。
排除対象。
不安定要素。
理屈は変わらない。
彼は制度の外に立つ男。
前例を作った存在。
火種。
排除は合理的。
だが。
(合理的、だけでは足りない)
彼は自分が狙われていると理解している。
それでも逃げない。
守られようともしない。
死ぬ可能性を受け入れた上で、そこに立っている。
それがセラには理解できなかった。
合理性だけでは説明できない。
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四日目。
セラは初めて正面から接触することを選んだ。
夜。
宿の前。
彼が扉を閉めかけた瞬間、影から姿を現す。
刃は抜かない。
距離は一歩。
彼は驚かない。
「セラさん」
名前を呼ばれる。
「なぜ知っている」
「ヴァレリアさんの部屋で聞きました」
事実だ。
「殺しに来た?」
「契約上は」
「正直ですね」
「嘘は非効率」
沈黙。
夜風が吹く。
「いつやるつもりですか」
彼が先に聞いた。
「状況次第」
「じゃあ」
彼は少し考えてから言う。
「それまで、一つお願いしてもいいですか」
セラの視線が細くなる。
「何だ」
「俺を“守る価値があるか”ちゃんと見てから殺してください」
その言葉に、ほんのわずかに刃の重心が揺れた。
(愚かだ)
普通は命乞いをする。
逃げる。
隠れる。
だが彼は、観測を求めた。
「契約に反する」
「ええ」
彼は頷く。
「だから、お願いです」
合理性はない。
損得もない。
だが。
「分かった」
気づけば、そう言っていた。
「観測を続ける」
彼は小さく笑った。
「ありがとうございます」
セラは背を向け、屋根へ跳ぶ。
夜風が強い。
(なぜだ)
私は排除者だ。
なのに。
追跡は終わっているはずなのに。
まだ、終わらせていない。
殺すためか。
それとも――
理由を探すためか。
答えはまだ出ない。
だが一つだけ確かなことがある。
この男は、自分から“消える側”に立った人間だ。
だからこそ。
刃は、簡単には振り下ろせない。




