転移と勘違い
目を覚ましたとき、最初に感じたのは静けさだった。
本当に、何の音もしない。鳥の声も、車の音もない。耳鳴りがするくらいの無音だ。頬に冷たい感触があって、どうやら地面に横になっているらしいと気づく。
「…冷たっ…」
声を出してみると、自分でも驚くほどかすれていた。ゆっくりと上半身を起こす。ふらつきはない。立ちくらみもない。体が軽い。
(…あれ?)
昨日までの俺は、ベッドから起き上がるだけで気合が必要な人間だった。ブラック企業で心も体も削られて、休日はほぼ寝て終わる生活。それなのに、土の上からこんなにあっさり起き上がれる?
周囲を見回す。
森だった。
見渡す限り、木。高い木。濃い緑。空はやけに青くて、雲も高い。ビルもない。道路もない。電柱も信号もない。
「…は?」
頭が一瞬真っ白になる。
慌ててポケットに手を入れる。
何もない。
スマホがない。財布もない。家の鍵もない。代わりに触れたのは、知らない布の感触だった。自分の服じゃない。麻っぽいシャツに、動きやすそうなズボン。地味だけどしっかりした作りだ。
「待て待て待て」
心臓がどくん、と大きく鳴る。
(誘拐? 人体実験?)
嫌な想像が頭をよぎる。でもその瞬間、気づいた。
空気が、うまい。
思いきり吸い込むと、胸の奥まで澄んだ空気が入ってくる。今まで吸ってきた都会の空気とはまるで違う。
「あ…」
この感覚、どこかで知っている。
ゲーム。漫画。アニメ。散々見てきた展開。
知らない森。知らない服。体がやけに軽い。
「…これは」
喉がごくりと鳴る。
「来た…!」
思考が一気につながる。
これは――異世界転移だ。
「異世界転移だろ…!」
思わず声が大きくなる。
「勝った…!」
笑いがこみ上げてくる。
勝った。人生大逆転だ。あの会社も、上司も、意味不明なマナー講師も、全部もう関係ない。
「やった…やったぞ…!」
両手を握りしめる。ここからは選ばれし者の人生だ。能力をもらって、女の子に囲まれて、苦労せずに生きていく。
ハーレム。
脳内にその文字が浮かぶ。
(よし、まずは状況整理だ)
深呼吸して落ち着く。テンプレ通りに動けばいい。
空を見上げる。太陽は一つ。昼前くらいの位置。少なくとも地球に近い環境らしい。
その場で軽く跳ねてみる。
高い。
明らかにいつもより高く跳べている。着地も軽い。息も切れない。
もう一度跳ぶ。やっぱり高い。
「…お?」
足腰に不安がない。体が軽い。
「俺、もしかして…」
口元が自然に緩む。
(初期ステータス強化タイプ?)
よくあるやつだ。異世界に来たら身体能力が底上げされているパターン。
「…神様、分かってるじゃん」
誰にともなく親指を立てる。
武器はない。剣もナイフも持っていない。でも、不思議と不安はなかった。
(まあ、まずは村だよな)
異世界の基本。村で情報収集。村娘とイベント。冒険者ギルドで美人受付嬢。完璧な流れだ。
木が少ない方向をなんとなく選んで歩き出す。草を踏み、枝をかき分けながら進む。
しばらく歩いて、気づく。
疲れない。
山道のはずなのに息が上がらない。足取りも軽い。
(マジか…)
これはもう気のせいじゃない。確実に強化されている。
「勝ち確じゃん…」
声に出して言う。盗賊でもモンスターでも来い。俺は主人公なんだから。
そう思った瞬間、背筋にぞわっとした感覚が走った。
森の奥で、何かが動いた気がする。
音はほとんどない。でも、確かに気配があった。
「…動物?」
自分に言い聞かせる。森なんだから動物くらいいるだろう。
歩き続ける。
…歩く。
…歩く。
(…長くない?)
村、まだ?
テンプレならそろそろ着いてもいいはずだ。太陽が少し傾いている。
(え、これ普通に遭難してない?)
不安がじわっと広がる。
そのとき。
――ガサッ。
今度ははっきりした音。
「…誰か、いますか?」
声をかける。返事はない。
代わりに、複数の足音が近づいてくる。
(…あ)
胸の奥が冷える。
(村人かもしれないし)
そうだ、きっと親切な村人だ。俺を助けてくれる展開だ。
そう思いたかった。
木陰から出てきた影を見た瞬間、その期待は粉々になった。
三人。
全員、女。
全員、武器を持っている。
そして、目が笑っていない。
(…夜盗、じゃね?)
ゲームの知識が最悪の答えを出す。異世界あるある。最初に会う人間が敵。
「よう」
先頭の女が口角を上げる。
「迷子かい?」
その声を聞きながら、俺は思った。
(あれ?)
(ハーレムは?)
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