マイラ・グランヴィルは破局を迎える11
「これ以上彼女を傷つけさせません」
よく通る声だった。
その少女の声を忘れるはずも、ましてや間違えるはずもない。
聖女フィデス・サンク。
この世界にやがて訪れるであろう災厄を振り払う宿命を背負った者。国一つを容易く滅ぼす災厄の詳細はなく、いざその時になってみなければ聖女という存在の真意は測れない。だが、厄災自体は歴史に何度も登場しており、それだけは必ず起こり、どれだけの被害を及ぼすに至ったのかも記録がある。その頃より魔術が発展した今であろうとも、その災厄によって国力が落ちた際に隣国によって侵略されないとも限らないのだ。彼女の存在はそういった意味もおいて政治的にも決して無視できない。しかし、彼女自身の力は未だ解明に至っていない。
「フィデスさん……」
マイラがその名を呼ぶと、彼女はそっとマイラの手を取る。それだけで悲鳴を上げたくなるほどの激痛が走り、もはやこの肉体は限界なのだという悲鳴のようにも思えた。『マイラ』は目の前の死に悲鳴を挙げているのだ。
「癒しよ」
たった一言、聖女が囁く。
それは魔術と呼ぶにはあまりにも速く、魔術に必須だろう構成も見当たらず、声は呪文として意味を成しておらず、だけれども不思議と肉体は再生していく。
(なに、これ……!)
治療魔術という域を遙かに凌駕している。フィデスを中心として薄らとした光が広がっていき、この場にいる怪我をした者を全員残らず治療していった。
(まさか!)
思わず彼女は死した者へと目を向ける。
「死んだ者は生き返りません」
マイラが何を危惧したのか、フィデスはすぐに察したようだった。
「見た目の傷は治せませんが、死者は死者のまま。どんな状態でも生きてさえいれば元に戻せますが」
「……どんな状態でも……」
それは魔術というのか。治療魔術は本人の治癒力を高めるものであり、如何なる怪我をも治すという奇跡みたいなものではない。もしそれが行えるとするならば、傷を癒す――つまり肉体の代わりにとてつもない魔力量を使って欠損部分を補修するといった手があるのかもしれないが、魔力を生命体の一部として具現化するというのは幾ら何でも現実的ではない。そんな魔力量など人間の体内にはない。
しかもこの室内を全て包み込み全ての者の傷を癒すなど、恐らくアズヴァルドですら不可能な所業だ。もっともアズヴァルドならば今目の前で起こした彼女の奇跡をもっと詳しく解析できたかもしれないが。
「まさか、自然の魔力を利用している……?」
チャールズが一つの解を出す。さすがに同じ土俵になると頭の回転は確実にチャールズのほうが上だ。彼が咄嗟に口に出したそれは、確かに可能性としてはある。いやそれ以外にない。自然界にある魔力の量はほぼ無尽蔵と言う学者もいるぐらいで、自然の魔力は星が生み出す魔力とさえ呼ばれている。それらを扱うとなれば、確かに大概の奇跡は起こしてしまえるかもしれない。
(でもそんなこと出来る筈がない!)
できるのならば、この長い人類史の中で誰かがその技術を産み出しているだろう。少なくともマイラが今まで学んできた魔術の歴史においてその痕跡は一つもなかった。記録がなかった。全てを識ったつもりはないが、それでもまったく見つからなかった。
(魔術……魔術なの? いやそれより!)
肉体が回復した。マイラは指先を動かし、体内の魔力を感じ取る。確認に掛かった時間は僅かだ。フィデスを挟んでその後ろにいるチャールズを殺すなら今しかない。
すかさず踏み込もうとしたマイラだったが、その足から力が抜ける。
「えっ……」
床を転がる自分が信じられないまま、マイラは立ち上がって再度駆けようとするが、再び身体から力が抜けていった。
「無理ですよ、マイラ様。今、マイラ様の空っぽになった身体に魔力を流し込んだのは私なんです。マイラ様から動くだけの魔力を出し入れするのは、ひどく簡単なことですから」
「フィ……デス……!」
「もうマイラ様の殺人劇はお終いです。チャールズ王子より動くなと命令を受けていましたが、そうもいっていられない状況になったことは部屋にいても察しました。なるべく急いで駆けつけたつもりでしたけど、遅かったみたいですね……」
「……ボクは命令していないぞ。頼んだだけだ」
「あ、そうでしたね。ごめんなさい。でももう遅いから。なんとなくわかるんです。もうすぐ始まってしまうって」
「始まる……?」
マイラが聞き返すと、チャールズが強く眉を寄せる。
「まさか厄災のことか!」
「はい」
――嘘でしょ、とマイラが呟く。まだ速い。災厄までの時間は『まだあった』はずなのに、もう来るというのか。
(まずいわ! 何も対策を立ててない! 災厄の正体が分からないのに立てられないけど、その前にこの地を去るつもりが!)
厄災の正体は全く掴めていないのはマイラにとっても懸念事項だった。場合によっては目の前の標的を殺すことよりも重要視しなければならないのだが、そうすべき『理由』が見つからないのだから、どうしても後手に回ってしまっていたのだ。
(どんな文献にも載っていない、けれど過去に幾度も起こった『厄災』……!)
「フィデス嬢、君なら止められると考えていいのかな?」
「はい、チャールズ王子。なんとなく私じゃなきゃいけないって気がしているんです」
「……根拠は無さそうだが」
隙を覗っていたマイラだが、フィデスと話している時にすら彼は決してマイラから目を離さなかった。フィデスが魔術もどきを使っている間はマイラといえど何も出来ずじまいだったが、そのフィデスといえど完璧ではない。必ず意識が途切れる瞬間がやってくる――それを狙っていることをチャールズには悟られていたのだ。
「マイラ、提案があるのだが」
「厄災を止めるまで手を組む、というのでしょう」
「話が早い」
「ええ、そうね。厄災によって死ぬなんて、それこそ私にとってあってはならない。絶対に回避したいわ」
「だから僕を殺すというのは無しだ。どちらにしろボクに構っている時間は無さそうだけど」
「――時間?」
そのチャールズが信じられない行動を取った。
彼は真上を見上げたのだ。『マイラから目を離して』だ。マイラにとっては絶好の隙であり、そしてチャールズにとっては絶対にあってはならない油断だ。そうまでして彼が見上げるのには理由があり、マイラは殺そうと反応する身体を押し留めて、そっと上を見上げる。
すると、パラリ、とホコリが舞い落ちてくる。
――違う、と気付いたのはすぐだ。
王城の天井が、今にも崩れそうだったのだ。
「誰か!」
王妃が声を張り上げる。今まで散々マイラが狙ってもじっと静観していた彼女が声を荒らげるなど異常事態に他ならない。
(いつの間に! 王城の天井があんなに罅だらけに!)
音は無かった。そんな魔術も無かったはずだ。外部からの攻撃ならば誰かしら気付くだろう。全員が崩れそうな天井を見上げていると、その天井が一瞬にして……
消失した。
「は?」
何が起きた?
天井が消えた。そしてそこに広がったのは青空でも曇り空でも雨雲でもなく、ただただ先ほどの天井と同じく罅割れた空だった。
空が割れる。




