第一話 『嫌な奴』
凶悪――そんな言葉で表すには、あまりに軽薄と言わざるを得ない。傲岸不遜、邪知暴虐そんな言葉でやっとその者の輪郭を現すといっていい。
瞳は影の中に光り、喉を低く鳴らし、鋭い鉤爪で地面を掴む猛獣。その牙は幾度も研磨され、岩をプリンのように噛み切るに違いない。幾万もの命を刈り取った証であろうか。
三人はそんな獣の前に立ち、自殺行為といわんばかりに手を伸したのだ。
と、それはもう残り数ミリといったところ。
――シャアアア!
「うわあッ!」
猫はソーの顔を踏み飛ばし、勢いよく外路地から大通りに逃げていった。
背中から地面に転倒したソーは杖を転がらせ、頭の上でヒヨコを回している。なんとも情けない姿だ。
「ソー大丈夫か?」
「だ、大丈夫……ハル君たちは早く追って」
「……あ、ああ。わかった。行こう、アリニア」
そういうと、ハルとアリニアは猫を追いかけ、大通りの方へ駆けていった。
そもそも、どうしてこんなことをしているのかといえば、これが依頼であるからである。”迷子の猫探し”、野蛮で猛々しい冒険者が受ける依頼としてはいささか地味な気もするが小銭稼ぎにはなる。
何より、ハルたちは凶悪なモンスターを倒して一攫千金を目指しているわけではない。そして金の大きさは冒険者の場合、死の近さに比例する。ならばそれを避け、稼げなかろうと安全な街中での依頼をこなすことはそれほど不自然ではないと言える。
そんな依頼の最中、路地に仰向けに倒れ、家々の間の細く伸びた青空を眺めていた体制から、杖を視点にゆっくりと立ち上がり、ソーは大通りの方へ進もうとしたのだ。
「アナタは……何か、悩んでいるようだ。そんな顔をしている」
「え?」
背後から温度の低い声がソーの鼓膜を揺らす。
あって間もないどころか、一方的に傍観してきたのにもかかわらず、一言目から随分勝手なことを言ってくるものだ。ソーの額にシワでも寄っていたのかもしれないが、友達の友達に鼻毛が出ていることを指摘する時のようにオブラートでも巻いておいたほうが良い。
と、ソーはゆっくりとその声の主の顔を見ようと振り返る。
「あなたは……?」
「なに……ただの人間ですよ」
”見ればわかるわ”とでも言わせたいのかといわんばかりであるが、ここは異世界。エルフや獣人などの亜人もいると考えれば、これは親切な自己紹介といっていいのかもしれない。
「それは、見ればわかりますけど……」
「アッハハハ! 確かにそうだ!」
大きなローブに身を包み、わずかに見える口元で笑いながら、手を叩いて男は笑っている。ひどく不気味で、なんともオカシナ奴だ。ツボも浅すぎるともはや狂気の沙汰である。
「なんですか……僕もう行くので」
「――レロォ」
「ィヒッ!?」
それは、ソーがその場を離れようと体を少しばかり動かしたときである。
男は何を思ったのか、ソーの頬をべろりと舐めたのだ。そしてそのまま、男は何とも言えぬ表情でその口をくちゃくちゃと動かすのであった。
「んー、あぁ……わかります。わかりますよお……」
「な、何をするんですか……?」
ソーはその男の様子を見ながら、舐められたところを手で拭い、手の平を見つめた。
「……血?」
ソーの頬には、先ほど猫を逃がした際についたひっかき傷があった。
軽傷を負った際、唾でもつけて治せなんてことをよく聞く。実際それは正解であるのだが、人に舐めてもらう人間はそう言った高尚な趣味をお持ちの紳士淑女だけであろう。
そして、ソーはそんな紳士ではない。
「――炎が見えます。これは館でしょうか……クリス」
「……!?」
男がその名を口にした瞬間、ソーは目をはっと開く。
そして、ソーはその男が他人の血を舐める趣味を持つだけのただの狂人ではないことに気が付いたのだ。
「なんで、その名前を……」
「逃げろ、クリス! お前は生き残れ!! ああ、ああクリス!!」
男はソーの質問に一切の答えをよこさず、ただ狂気を孕んだ一人演劇に興じるのみだった。演目は”家族”とでもしておこうか。
「……あ、あぁ」
――カラァアン……
杖が力なく倒れ木製の高音が路地に響く。ソーは両手で耳を塞ぎ、目を瞑ってその場にうずくまった。聞こえるのは自分の心臓の音と、脳内を乱反射する誰かの声。呼吸が乱れ、身体は小刻みに揺れる。その男の演技に何を感じたのか、ソーは何とも取り乱している。
「……クリス」
突如その声は急激に安らかで、優しく、ソーに語り掛けた。
声に応えるようにソーは顔を上げ目を開く。真っ白な顔と髪、そしてその瞳は血のように赤く、男は笑顔であった。
「……君はよくやった……もう、楽になっていいんだよ」
ゆっくりとソーの頭を撫で、男は彼を抱きしめる。
それはもう、我が子をなだめる親のように暖かく、懐かしく、落ち着きのあるものであった。ソーは腕を背に回す。そして、安心したように自然と涙があふれるのだった。
「ああ、お父さん、お母さん……」
「よかったね……クリス……じゃあ、私の話を聞いてくれるかい?」
「……うん」
男はソーに何かを耳打ちする。そして、ポケットから何かを取り出した。
「じゃあ、これを……」
小さな小瓶に入っているのは男の瞳に似た赤色の液体である。男はローブの隙間から、人差し指が欠損し傷だらけの腕を出して、その瓶を差し出し、ソーはそれに手を伸ばした。
「これが……」
「何してるの、ソー」
「――ッ!」
ソーは猫のように首を回して振り返る。そこには、なんとも不思議そうな顔をこちらに向けるアリニアの姿があった。
それもそのはずだ。なぜならば、ソーは誰もいないはずの路地で膝をついて手を伸ばしているのだから。
「いや! これは……あれ?」
何か後ろめたいことがあるのか、ソーは何か隠すようにアリニアの方を向いて立ち上がる。しかし、ソーが後ろに目をやっても何もない。あるのはただの石でできた道だけ、しいて言うなら道端に這えているタンポポ程度だ。
「どうしたの? 何かあった?」
「あ――いや、何でもないよ……」
ソーは何事もなかったかのように杖を拾い、そそくさとその場から離れようとする。なんとも落ち着きのない様子に、アリニアはさらに不審な目を向け続ける。
と、
「そういえば、アリニアさん。変わったよね。大人びたというか……前はハル君の事、お父さんとか言ってたのに」
「え!? あぁ、それはその……忘れて、ちょうだい」
アリニアは顔を赤くして、目をそらす。ソーはアリニアの黒歴史といっていいそれを掘り返し、疑いの目をどこか遠くへ追いやった。なんとも悪魔的な技である。
「大丈夫か、ソー」
そこにハルもやって来た。両手で抱えている猫は、親のエゴでクマの着ぐるみを着せられた子供のようにバタバタと体を動かして嫌がっている。
「早くいこう」
そう言って二人の間を抜け、ソーは通りに出ていった。
「お、おう……なんだ?」
ハルがアリニアに視線を送っても、アリニアはただ首をかしげるだけであった。
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