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第十九話  『一歩』

 ――次の日


「……ない」


 ハルは自分の靴箱を前に呆然と立ち尽くした。

 そこには、本来存在しなければならない上履きが消えている。どこに行ったかはからっきしであるが、誰がやったか考えるのはハルにとって、それほど難しくはなかった。


「あいつらか……」


 小さくため息をつき、ハルは靴下のまま教室へと向かった。

 靴下のままなだけあって、つるつるのタイルと小石のチクチクと足裏を突く痛みがが不快感を増幅させていく。

 そんなこんなで、心に一握りのモヤモヤを抱えつつ、ハルは教室の前へたどり着くのだった。

 ハルは昨日はあの後すぐに職員室に呼び出され、暴力を振るったことに対して説教を食らった。その上、クラスへの紹介も持ち越し。

 いじめから生徒を救った救世主に、なんとも理不尽な仕打ちである。


 でも、まあ。そんなことは些細な問題だ。転校生という大きなステータスでもって、これからの学生生活を考えれば――俺は、


「おはよー」


 そんな普通で、何の変哲もない一言から入ったのだ。


「よお、転校生」


 聞いたことのある声。アイツらが一つの机の上を取り囲むようにそこにいた。

 周りの生徒は何ともきまり悪そうであり、誰もハルのことを見ない。


「おいおい、みんな。かわいそうだろ? 拍手で迎えてやんなきゃなぁ――パチパチ」


 教室のあちらこちらから、中途半端で歯切れの悪い拍手が起こる。

 拍手が増えるたびに空気が重くなっていくのを感じハルは口を開いた。


「なんだよ」


「いや、だから歓迎しようと思ってな。ほら、お前の机もいい感じにしてやったんだから感謝の一つくらいしてくれよ」


 そう言って、彼らがその場を退くとおそらくハルの席であろう何かが現れる。

 スプレーで書かれた下品な罵詈雑言、そしてカッターなどで掘られた傷跡。


「……」


 怒りすら湧かなかった。

 ただ、目の前の馬鹿馬鹿しい光景を望んでいることしかできなかった。


 ――そしてハルの望んだ日常は、積み木の一段目を積むことなく崩壊していく。 


 学生社会とはひどく単純なものだった。

 ただ上の者に逆らわず、媚びを売り、関わらない。それらを守ることができる者、もしくは上の者にのみ青春という副産物が与えられる。


 ハルの運がなかったことは彼の正義感がこれらのどれにも当てはまらなかったことと、あまりにその世界に疎かったことであった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「来たよ……」


「可哀そうに……」


「俺なら耐えれねえわ……」


 口々に学生たちが噂するのはある一人の転校生であった。

 

 ――そう思うなら、なんとかしてくれよ。


 いかに小さな声で噂しようとも、案外話題に挙げられている本人には聞こえているものである。

 そして、ハルの心の中は小中と通知表に活発と書かれていたと思えないほどに、少しずつ変わっていく。


 毎日物は無くなり、代わりに教科書の落書きは増えていく。

 わざわざハルに関わろうとするような変わり者の生徒はおらず、担任の教師はただでさえ忙しい職務の間にイジメ解決の時間は設けられないらしい。

 誰も彼も結局は自分が一番かわいくて、標的が自分でなければそれ以外は盲目なものだ。


 俺が何したってんだよ。どうして俺がこんな思いを……。



 その日、ハルは学校を休んだ。前日に頭から水をかけられ、それが影響したのかもしれない。

 ベットに横たわるハル。窓の隙間から、高い所にいる太陽が見える。


「……」


 ハルはそれを望みながら、スマートフォンを手に取った。


『死にたい』


 たったそれだけの内容が漫画のコマーシャルと白黒の風刺絵の間に投稿された。しかし、その意味するとこは、裏側に見える大人たちの金儲けよりも黒く、らしく模られた偽物よりも本物で、それでいて残酷だ。


 しかしながら、ハルには一つだけあったのだ。死に値しない理由が……。


「……アリミ」


 クラスも違えば、話したこともあの日以来ない。友人と呼ぶにはひどく無理があるが彼の存在が唯一の救いであったのだ。

 ハルはアリミにした行為のことを少なくとも善い行いであると考えていた。

 壮絶なイジメにあっても学校に行っていたのは、その行動の正しさを示すためだったといっていい。

 いずれ終わる。いずれ報われる。いずれ理解される。


 ――でも、そんなときは来ないんだ。


 少し上にスクロールしたとき、一枚の写真が投稿されていた。

 どこかから流れてきたそれには、あの例の男子生徒たちと共にアリミの姿があった。

 何が面白かったのか、なぜだかみな笑顔で移っている。


 その時、ハルの中で何かが崩壊した。

 行いの意味を失った。

 生きている意味を失った。


 ――あぁ、俺何してんだろ。結局俺のやっていたことは余計なおせっかいで、意味なんてなかったんだ。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 気が付けば、ハルは廃墟の屋上。一歩間違えれば落下するようなパラペットの上に立っていた。


「また逃げるのか?」


 ハルのすぐ後ろで大きな荷物に横たわりながら茶髪の外国人男性が横になっている。

 人が目の前で死のうとしているというのに、男は酷く冷静であった。


「悪いかよ」


「いや、お前にはお似合いな虫けららしい最後じゃねえか」


「お前みたいに強い奴に、弱い奴の気持ちなんてわかんねえよ」


「あぁ、そうだな。死ね死ね。そんで、同じ場所をぐるぐる回ってろ」


「何が言いてえんだよ――!」


 ハルは男の方を振りむいた。

 途端、そこは廃墟の屋上から、雨の降る森の中へと姿を変える。

 そして、半壊した家の傍らで、ハルは黒焦げの死体を見下ろしていた。


「……レーヴェさん……あ、あああ……!」


 膝を屈し、頭を抱え、声にならない叫びを漏らしながらともに涙を流す。


「なあ、なんで泣いてんだ? お前がしたんだろ?」


「――違う」


「何が違うんだ。お前が選んだ結果がこれだろ?」


「違う!」


「笑えよ。よかったじゃないか。思った通りになったんだろ?」


「違う!!」


「ぶ、ブヒャヒャヒャヒャ!! ハーアッハハハ!」


 足元で死体が笑い出す。

 下品に、狂って、愚かなクソガキを見下すように。世界と共に壊れていく。


 こんなはずじゃないんだ。俺がやったんじゃない。俺が殺したんじゃない。俺じゃない、俺じゃない俺じゃない俺じゃない――、


「違う!!!」


 ハルは叫びと同時に走り出し、森の中へ姿を消す。

 ガサガサと木を掻き分け、泥だらけになりながら、負け続け、逃げ続け、そうやって来た人間の末路にふさわしいまさに負け犬の走りだ。

 しかしながら、笑い声はまるでワイヤレスヘッドホンでもつけているかのように遠ざかることは無く、むしろ大きくすらなっていく。


「……たすけて」


 頭が割れそうなほど響く笑い声の中で、確かにその声は聞こえた。

 こんなハル(ゴミ)に一体誰が救えるというのか、助けを求める人間はもっと慎重に選ぶべきだ。誰でもいいといっても限度がある。

 だがしかし、ハルは何とも愚かにも声の方向へと進んでいく。なんという偽善。もうこれ以上余計なことはすべきでない。お前には何もできないのだから。


 そしてハルは、森の中で白色の紙をした少女と出会う。

 背を向け、小刻みに肩を震わせている。


「……お父さん」


 その言葉にハルは苛立ちを覚えた。


「お前の父親はもういない!」


「……お父さん」


「いないって!」


 少女の肩を引っ張り、その顔を覗く。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 そして、アリニアの目にはハルは移っていないとすぐに気が付いた。

 それよりももっと先、林の中で奴が轟轟と音を立て、辺りをも燃やしながら近づいてくるのが見える。


「あれは……」


 レーヴェを殺したあの炎を纏った怪物。

 自然と瞬きの回数が減り、呼吸が荒くなるのを感じる。

 ハルは体をのけぞり、一歩目を後ろへとやろうとした。


『また、逃げるのか?』


 イヤな奴の声が足が着くを止めてくる。

 そして、


「あああ!クソが!!!」


 その言葉に、体は自然と前を向き足は前へと一歩を踏み出し、ハルはアリニアを背にした。

 ハルは腰の剣を抜き、戦闘態勢をとる。自分でも驚いてしまうほど早く抜けた剣、これは日頃の訓練のたまものであろうか。


「ハァ……ハァ……」


 剣先が小刻みに震えているのが分かる。呼吸も先ほどよりもうまくできない。


 ソーもいないんじゃまともに戦えない。痛いのも嫌だし、クソ怖い、怖い。死ぬかも……不死身なのに……けど、逃げたくない。もうこれ以上、強い奴らに流されるように生きるのは嫌だ。


 ここなんだ。昨日でも、明日でもなく今。俺が変わるためには、ここで一歩踏み出さないといけないんだ。


「うおおおおおお!」


 黒く輝く剣を振り上げ、少年は駆け出した。


「俺は!! 勝つんだあああ!!」


 それは誰かの為なのか。

 それは自分の為なのか。

 本人すら答えを知らず、しかし、ハルは――


 ――変わる。


 


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