第十八話 『ハンカチをもって』
ふわりと背中が沈む感覚。
ある種いつものその感覚は指先のプラスチック製の時計と共に、世界を九十度回転させて現れた。
服装は半袖に半ズボン懐かしい石油由来の布の感覚が肌に触れる。
「ここは俺の部屋……」
部屋の至る所に、まだ未開封の段ボールが転がり、部屋というよりはむしろ倉庫に近いその空間でハルは体を起こした。
「そういえば、アリニア……あれ? ……誰だっけ」
頭を押さえ、断片的な記憶をかき集め考える。
腕が……切れて……あれ?
しかし、それはまるで寝ているときに見た夢を思い出すかのように、ひどく抽象的で部分的な内容しか思い出せない。
「何か……すごい夢? を見てたはずなんだけど……」
いくら記憶の迷路を遡っても、気持ちよくゴールできないなんともヤキモキする感覚だけが残る。
次第に断片的な記憶も希薄になっていき、湖に落としたインクのようにその色を消した。
「んん~……」
頭を押さえていた手はパーからグーへと変わり、ベッドの端に座るその姿はロダンも驚くほど見事なまでの考える人である。
――コンコン
「どうしたのハル? 遅刻するわよ」
ノックの音とともに扉の向こう側からは母親の声が朝の時間に余裕がない時特有の早口で聞こえる。
「……!」
――ヤッベ!!
ハルは少しばかりの時計との睨めっこの後、別途から飛び起き、寝巻きから制服へと姿を変える。
やばいやばい……初日から遅刻は、やばすぎる!
ハルはまだ結ばれていないネクタイと回せてないベルトを引っ提げて自分の部屋を飛び出した。
「おいおい、大丈夫かお前。転校初日から遅刻とはいただけねえな」
玄関先で胸に警官バッチをつけた制服姿の父親がハルに言う。
両親は共働きで、父は警察官、母は看護師。そんな家の長男は、トーストを銜えて靴ひもを結んでいる。
「そう思うなら、起こしてよ。父さん」
「俺の息子は高校二年生にもなって、自分で起きれねえのか?」
「うるさいなあ。行ってきまーす!」
「ハル、ハンカチは持ったか?」
「持ってるよ、小学生じゃあるまいし」
父親の問をうっとうしく思いつつ返し冷たく重たい鉄製の扉を開くと、ハルは勢いよく外へ飛び出した。
強い朝日に全身に浴び、ハルは学生鞄を籠に乗せ自転車を走らせて、新しい通学路の先の新しい学び舎へと向かって行く。
通学路の事前把握は完璧。さながらいつもの道といわんばかりにハルはペダルをこぐ。
こんな、人生に一度あるかないかといったレベルの転校に対して、ハルには一切の抵抗や動揺がなかった。というのも彼は、父の仕事の都合上、今までにオリンピック並みに定期的な転校を繰り返す転勤族であったからである。
初めの内は動揺もあったハルであったが、次第にその感情は新たな場所での新たな出会いを得ることの出来るこの上ないチャンスであると少しずつ考え方を変えていった。
「おーい、門閉めるぞー」
校門の前で待ち構える上下ジャージ姿の体育教師は、様々な社会的圧力によって竹刀は持っていないにしろ、その鋭い眼力を遅刻すれすれの生徒たちに向ける。
「おはようございまーす」
ハルは、いよいよ校門に手をかけた教員の横を颯爽と抜けていった。
道中、道端で食パンをくわえた美少女とぶつかることもなく、むしろそんなものがないことを重々承知の上で一心不乱にこぎ進めていたハルは駐輪場で自転車を止めた。
それは、文字として当然であり、駐輪場で自転車を止める以外の何をするのかという疑問符すら浮かびそうなものであるが、ハルのこれは少し違った意味があった。
「あれは……」
ハルの向ける視線の先、それはかまぼこ型をした木造の体育館の裏、鉄製の柵との間のでは一人の男子生徒を中心に複数の男子生徒が取り囲んでいるのが見える。
「なぁ有実。持ってきたか?」
「いや……その、これだけしか」
取り囲まれている眼鏡をかけた少年、アリミが一人の男子生徒に茶封筒を手渡した。
しかしながら、男子生徒が茶封筒の中身を覗くと明らかに不機嫌な顔をアリミに向ける。
説明するにも満たない今の樹生興を一言でいうのであらば、アリミはカツアゲにあっていた。
「テメェ、ふざけてんのか? 全然足りねえじゃねえかよ無能が!」
「グハッ!」
男子生徒の蹴りがアリミの腹部にめり込み、腹を抱えてアリミは膝をついた。
「……ご、ごめんなさ――ウグッ!」
「誤る前に金持ってこいや!」
その者たちを満足させられなかったその後は言うまでもない。
典型的な弱い者いじめが繰り広げられた。殴るける。弱者に休む暇もなく、数という圧倒的暴力に押しつぶされ、ただ足りない分のツケを払い終わるまで、耐えることしかできない。
そう、それが現れるまで――、
アリミの元に手が一つ伸びている。
「誰だお前?」
そんな男子生徒の言葉を無視し、地面に落ちたメガネの土を払いのけ、ハルはアリミに手渡した。
「大丈夫か?」
「う……うん」
アリミに肩を貸し、ハルはその場を後にしようとする。
「おい、待てよなんだお前」
「……」
「無視してんじゃねえよ」
男子生徒はハルの肩を掴みガバッと引っ張る。
「……」
ハルは怒っていた。眉間にはしわが寄り、割れるのではともう程に歯をかみしめている。無言で声を上げてもいないにもかかわらず、その口から唸るような声が聞こえて仕方がない。
「は? 何キレてんだよ?」
「離せよ。クズが移るだろ」
「は? 何調子乗って――グハッ」
ハルは男子生徒の顎めがけ、それは見事なアッパーカットを繰り出した。反動で男子生徒の身体が宙を舞い、鈍い音と共に地面に倒れこむ。
「ほら、いくぞ!」
おそらく、その場にいた誰もそんなこと起こると思っておらず、唖然とする群衆の隙をついてハルはアリミの手を引き、そのまま走り去っていった。
「おい、待ちやがれ!!」
それを見て、その場にいた男子生徒たちはハルたちをネズミを追う猫のように追いかける。
と、
「おいお前たち! 何やってんだ!」
ジャージ姿の体育教師の鋭く、太鼓のように腹に響く声が響く。
「やば、安藤だ。逃げるぞ」
「おい待て!」
学生集団は、鬼のような表情の教師に驚き、ハルたちとは別の方向へと走り逃げていく。
しかし、ハルたちがそれに気が付くことはなく、鬼のいない鬼ごっこを校舎まで続けた。
「こ、ここまでくれば、大丈夫っしょ……ハァ、ハァ」
膝に手をつき、肩で息をする二人。どこにもやつらのすがたはなく、ただ安心だけが下駄箱に鎮座する。
「僕は有実。君、名前は?」
「吉更華、ハルでいいよ」
「ハル君か、ありがとう――本当に、ありがとう」
――キーンコーンカーンコーン
誰もいない下駄箱で一限目のチャイムが鳴り響く。
そして一つの疑問がわき上がっていた。
――あれ、俺ってこんなんだっけ……。なんで、だろう。これは本当に俺なのか。おれはいつから、こんなに前に出るようになったんだ……。こんなんじゃまるで――いい奴見たいじゃないか。
そして、ハルは思い出すのだった。
――本当の自分を……。




