第百四十三話 『一筋の光明』
まるで落下するかのような浮遊感に、俺は再び意識を覚醒させる。
もはや肉体の感覚はほとんどなく、気力だけで器に魂を結び付けているような状態だが、まだもう少しなら起きていられる。次に意識を飛ばしたら、きっとそれが俺の最後となるだろう。
神気に侵された俺の肉体には、もはや魔核を構成する僅かな魔素を除き、魔素なんてものは残っていない。
おそらく、元々神の器であったこの古龍の身体が、本能的に周囲の神気を取り込んでしまった結果なのだろう。そしてこれこそが、本来のこの身体の完成形なのだろう。
今のこの身体は、俺が中に入った時と違い、本当の意味で"神の器"と呼べるものになってしまった。故に、その器にふさわしくない俺の魂がはじき出されようとしている。
俺の魂が、器に"神"と認められるだけの成長を果たしていたならば、あるいはこんなことにはならなかったのだろうが……龍としての器の力にすら振り回されていた俺に、そんな力などあるはずもなかったわけだ。
ステータスを見てみても、もはや名前すら表示されないほどにバグってしまっている。まあ、ステータ
なんていうのは、ようは魂の力を数字や文字に起こしたものだからな。色々混じってぐちゃぐちゃになった今の俺の魂で、正しく表示されるはずもないか。
そんなことを考えているうちに、僅かな衝撃と共に、ずっと続いていた浮遊感が失われる。
直前に落下のスピードが激減したのは、恐らくフィルスがやったのだろう。俺がダンジョンに行く前に渡した魔導具に、そんなのがあったはずだ。
俺は、重い瞼を持ち上げ、周囲を確認しようとする。
俺の感覚が正しければ、ここは第五層の先にあたる場所のはずだ。ダンジョンの規模が大きく変化していないのであれば、ゴールである可能性が高い。
そして、今までで最も感じる神気が濃いことも加味して考えて、恐らくその原因はここにあるのだろう。
そうしてどうにか目をうっすらと開いた俺の視界に入ってきたのは、脈動する真っ黒なダンジョンコアと、その前に倒れ込んだ一人の少女であった。
「えっと……この子は? この子がボスなの? 私的には、さっきのキモい奴の方がよっぽどボスっぽく見えたんだけど……」
香奈が当然の疑問を口にするが、恐らくこの子はダンジョンとは無関係の存在だ。ダンジョンコアと繋がっているようには見えないし、何より、この子自身が神気の発生源だからだ。
ダンジョンは、ボスの魔核をコアとすることから、魔に属する存在であるはずだ。そのボスが、神気を発するはずがない。何より、コアからは多量の闇属性の魔素を感じるのに、この子からは一切の魔素や魔力を感じない。今の俺の感覚はかなり鈍く、あまり頼りにはならないが……どちらも発する力の量は膨大で、感知も容易だし……おそらく間違ってはいないだろう。
しかし、この子から放たれている……というよりは、漏れ出ているのだろうか? 邪神の神気の量は、前に変な黒い液体を飲んだヤツなどとは比較にならないほどに膨大だ。彼女は一体……?
魔力を持たない生命など、この世界には存在しない。それにこの神気の量。普通に考えれば、彼女はこの地上世界に生きる存在ではなく、神側の何かと考えるのが妥当なのだろうが……それがなぜこんなところに?
「ま、まあいいや。それよりもレイジにぃ! あそこにあるのってダンジョンコアだよね!? あれがあれば、大丈夫なんだよね!? なら早く――――「すまん」」
俺は、香奈の言葉に謝罪を返す。
香奈はその言葉の意味は理解できないのか、あるいは受け入れられていないだけなのか、その表情が、希望に満ちたものから不安と困惑の入り混じったものに変わる。見れば、フィルスも同じような表情をしていた。梨華ちゃんだけは薄々勘付いていたのか、苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、その事実を受け入れてくれているようだが。
だが、申し訳ないが事実は事実として受け入れてもらわねばならない。変えようのない未来は、拒絶したところでどうにもならんのだからな。
「悪いが、もう手遅れだ。正直言えば、このダンジョンの内部が神気に満たされていると気が付いた時点で、もう自身の生存は諦めていた。ただ、お前たちが無事に脱出できればと、それだけを――――「嫌だよ!!」」
俺の説明を、悲痛な叫び声で遮る香奈。逆の立場ならと考えれば、その気持ちは痛いほど理解できるが……でも……
「ようやく……ようやくレイジにぃと会えたんだよ? 孤児院の火事以来、何年も会えなくて……生きてるかどうかもわからなくて……でもこの世界に来て、ようやく会えた。会えた、のに……」
だんだんと尻すぼみになり、最後には涙を流し、唇を噛みしめて俯いてしまう香奈。
どうにかしてあげたいと思う気持ちはある。ある、が……どうにもならんものはどうにもならん。だからせめて、俺がいなくなった後で変な気を起こさないようにだけはしておきたい。どれだけ悲しんでも、涙を流しても、最後には前を向いてくれればと……
わかってる。こんなのはただの俺のエゴで、我儘なんだって。でも……やっぱり大切な人には、生きていて欲しい。俺のために死んでほしくはない。
「……すまない」
だが、かけるべき言葉など見つかるはずもなく、ただ謝ることしかできない俺。
もう、あまり時間は残されていない。これだけ膨大な神気に身を晒していれば、あっという間に俺の身体は神気に満ち、魂がはじき出されてしまうだろう。
問題はその後だ。俺の制御を失ったこの身体の主導権を握るのは、おそらく暴走時に出てきていた龍の破壊衝動。魂のない器である以上、永遠に生き続けることは無いだろうが、少なくともこのダンジョンくらいは軽く消し飛ばすだろう。だからその前に、皆には逃げてもらいたい。
しかし……ゴールに行けば何かしらの脱出手段があるかと思っていたのだが……ぱっと見では見当たらない。探そうにも、俺はもう動くこともままならないし、皆も俺の方ばかり見ていて、探そうとする気配もない。これはもう、仕方が無いか。
「……梨華ちゃん」
「……何でしょうか」
「……すまないが……2人を、頼む」
その言葉に含まれた意味は、察しの良い梨華ちゃんならすぐ気が付いたのだろう。その表情からは、悔しさや歯がゆさが見て取れる。
「…………わかりました」
そうしてしばらく沈黙が続いた後、梨華ちゃんはようやくその重い口を開いて、俺の望む一言を返してくれた。
これは、彼女にとって負担になるだろう。悲しみに暮れる2人が自暴自棄な行動をとらぬように、支え、励まし、恨まれるのも覚悟の上で、そうなってもそれを阻止しなくてはならない。そこには、彼女自身が俺の死を悼む余裕など存在しないだろう。
だから本当は、フィルスと香奈が俺の死を受け入れてくれるのが一番良かった。まあ、恐らく無理だろうとは思っていたが。
「フィルス。香奈。2人には悪いが、ここでお別れだ」
「……どうにか、ならないのですか?」
それまで沈黙を貫いていたフィルスが、ここでようやく口を開く。
彼女のことだ。口を開けば悲しみに耐えられぬと、俺の迷惑にならぬように堪えていたのだろう。俺の死は受け入れてもらいたいが、最後くらいもう少し我儘になっても良いだろうに……
「……すまんな。俺の魂は、時期にこの身体から追い出される。そうなれば、もはや現世に俺の魂を留める器など――――」
……あれ? いや待てよ? あれなら……そうだよ。あ、いやでも……だが……
「いや、前言撤回だ。俺の魂はどうにかなる。だが、俺の魂が抜けた後、器であるこの身体は、俺の制御を離れ、暴走するだろう。今までとは違う、完全な暴走だ。全員無事では済まない。だから、逃げて欲しい。俺が耐えられなくなる前に」
「……それは、私たちを逃がす為の方便ではないと、信じてよろしいのでしょうか?」
「ああ、もちろんだ。買い物に行った時に、俺が勇者の残した魔導具の内部に取り込まれたという話を、前にしたのを覚えているか?」
「は、はい。ですが、それが何――――」
「あれは、今俺の手元にある。そして、あれはどんな目的で作られた物だった?」
「え? それは……あっ……で、ではっ!!」
「ああ。俺の魂をそこに逃がせば、恐らくはすぐに成仏なんてことにはならんだろう」
本当は、そんな確証はない。
あの勇者も、たった一度の外界との接触で神に見つかり、天へと還って行った。それにあの時、この魔導具の存在は神に知られてしまっている。正直、分の悪い賭けだ。だが、現状他に希望を見出せていない以上、試す価値はあるだろう。
香奈たちがそれをどこまで理解しているのかはわからないが、その表情からは明日への希望が感じられた。
これならば、とりあえずは大丈夫だろう。仮に俺が暴走したとしても、それに抗ってくれるはずだ。今は、それでよしとしておこう。
そうしてひとまずの安心を得た俺は、なるべく時間を稼ぐべく、魂魄保護に集中するのであった。