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許されなくても、惹かれている

8月。息苦しいほどの猛暑が続く東京の夜。


恵比寿の路地裏にある、薄暗いエジソンランプが特徴的な洋風居酒屋。金曜の夜ということもあり、店内は週末の解放感に身を委ねる男女の熱気で満ちていた。


「いやー、今日は急に呼び立ててごめんな! お前が来てくれてマジで助かったわ」


幹事の男性が、遅れてやってきた代打の男性に向かってジョッキを掲げる。


私は、手元のカクテルグラスの縁を指でなぞりながら、ただ自分の心臓が早鐘を打つ音を聞いていた。

向かいの席に座ったその人を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。


(……どうして、彼がここに)


少しだけくたびれたスーツ姿。きれいにセットされているけれど、どこか無造作な髪。十年前よりもずっと大人びて、顎のラインもシャープになったその顔。


間違えるはずがなかった。私が高校時代に初めて付き合って、そして、私の愚かさで取り返しのつかない傷をつけてしまった人。


彼も私に気づいたようだった。一瞬だけ目を丸くしたけれど、すぐに平静を取り戻し、冷えたグラスの結露を指先で拭った。


――ああ、その仕草。


冷たい飲み物を手にした時、必ず水滴を親指で拭う癖。十年前の、不器用で優しかった彼のままだ。


変わってしまった大人の顔つきの中に、昔私が大好きだった「彼」の面影を見つけてしまい、胸の奥がキュッと締め付けられた。



私たちの地元は、これといった特徴もない地方都市だった。


彼と付き合い始めたのは高校二年の夏。一緒に自転車を押して帰るだけで、世界中がキラキラと輝いて見えた。彼の少し照れたような笑顔も、真面目で誠実なところも、全部が大好きだった。嘘じゃない。私は本当に彼のことが好きだったのだ。


それなのに、私は彼を裏切った。


三年生になる直前の冬。相手は、一つ上の先輩だった。


誤解を恐れずに言えば、私は先輩に体までは許していなかった。最後の一線は越えていない。でも、それは単に時間の問題だっただけで、浮気の免罪符にはならない。


優しい彼という安全な居場所を持ったまま、強引な先輩との背伸びした秘密を楽しむ。そんな最低で傲慢な優越感に酔っていたのだ。



あの日。


人気のない体育館の裏で、私は先輩に壁に押し付けられていた。制服のスカートの下に手が潜り込み、直接肌を触られていた。


そして、その最悪の瞬間を、部活帰りの彼に見られた。


パニックになった私が口にしたのは、謝罪ではなく、自分を守るための最低の言い訳だった。


傷つき、絶望した彼の顔。お互いにぶつけ合った汚い罵詈雑言。


もちろん、その事件の直後、先輩に対する熱など一瞬で冷め果て、体の関係を持つこともなく関係は終わった。でも、彼を深く傷つけ、狭い田舎の高校で軽蔑の眼差しを向けられるようになったという事実は変わらなかった。


東京の大学に進学し、何人かの男性とお付き合いもした。でも、私が無意識に相手と距離を置いてしまうせいか、結局は相手に浮気されたり、振られたりを繰り返した。


その度に『ああ、これは罰なんだ』と思っていた。彼に与えた痛みを、私も味わうべきなのだと。



「出身、どちらなんですか?」


幹事の男性の明るい声で、私はハッと我に返った。

隣の友人が「結衣はどこだっけ?」と無邪気に話を振ってくる。


「あ、えっと……私は……」


声が震えそうになった。彼の前で、どの面を下げて地元の話をすればいいのかわからない。


その時、彼がごく自然なトーンで口を開いた。


「奇遇ですね。俺も、彼女と同じ高校の出身なんですよ。同級生だったんです」


場がパッと華やぐ。「すごい偶然!」と沸き立つ中、彼は私に向かって軽くグラスを掲げた。


「久しぶり。元気にしてた?」


「……うん。久しぶり、だね」


そこから先の二時間は、私にとって夢のような、そしてひどく残酷な時間だった。


彼は、キチンと大人の男性になっていた。


昔話で私を追い詰めるような真似は一切せず、かといって不自然に避けるわけでもなく。他のメンバーも交えながら、そつなく会話を回していく。


グラスが空きそうになればさりげなくメニューを差し出し、誰かが話している時は、相槌を打ちながら真剣に耳を傾ける。


(……大人になったんだね)


高校時代の彼は、自分の感情に素直で、不器用で、時には意地を張ることもあった。でも、目の前にいる彼は、周りをよく見て、気遣いができる、本当に素敵な男性だ。


でも、ふとした瞬間に見せる目尻のシワや、少しだけ鼻にかかった笑い声は、私の記憶の中にある「彼」そのものだった。


新しい彼の魅力と、昔から変わらない大好きなところ。それらを見つけるたびに、私は自分がまだ、彼に強く惹かれていることを自覚させられていた。


「そういえば、地元帰ってる?」


会話の流れで、彼が私に尋ねた。


「ううん、最近は全然。仕事も忙しいし……」


「だよな。実は俺、昨日、8月4日にちょっと野用があって地元に帰ってたんだけどさ。今、あっちの在来線が運休してるだろ? だから東京から新幹線で郡山まで行って、そこから高速バスに乗り換えて帰ったんだよ。あれ、結構しんどくてさ」


「あ、ニュースで見た。大変だったね……でも、なんかそのルート懐かしいかも」


私は少しだけ目を細め、素の笑顔を浮かべた。


あの、少し寂れた地元の景色。二人で歩いたバイパス沿いの道。


彼とこうして、普通に地元の世間話ができている。それがたまらなく嬉しくて、同時に、もう二度と「あの頃」には戻れないのだという現実が、胸を締め付けた。



お開きになり、店を出た。


週末の恵比寿駅に向かう人の波の中で、私はたまらず小走りで彼の隣に駆け寄った。


「あのさ」


街灯の光に照らされた彼を見上げる。


「今日は……会えてよかった。本当に」


「俺もだよ。なんか、色々と懐かしかったな」


彼は穏やかに微笑んでいた。その優しさにすがりたくて、私は震える声で言葉を紡いだ。


「うん……あの、もしよかったら、LINE交換しない? その、近いうちに、二人で食事でもどうかなって思って……」


懇願だった。


今なら、あの時の失敗をやり直せるかもしれない。この再会は、神様がくれた最後のチャンスかもしれない。そんな身勝手な期待が、声に乗ってしまったのが自分でもわかった。


彼はゆっくりと足を止め、私と正面から向き合った。


「……誘ってくれてありがとう。でも、連絡先を交換するのは、やめておこうと思う」


突き放すような冷たい声ではなかった。きっと今の彼が持つ、一番誠実で優しい声だった。


私は弾かれたように顔を上げた。


その瞬間、十年間ずっと胸の奥につかえていた、どうしても言わなければならない言葉が口を突いて出た。


「……っ、ごめんなさい」


声が震えた。でも、今言わなければ、もう一生言えない気がした。


「ずっと……ずっと、謝りたかった。あの時のこと。私、本当に最低だった。あなたを裏切って、自分の保身のためにひどい言葉をぶつけて……あなたをあんなに深く傷つけて、本当にごめんなさい」


深く頭を下げる。アスファルトの地面が滲んで見えそうになるのを、必死で堪えた。


十年間、ずっと言いたかった言葉。でも、謝ったからといって許されるような過去ではないこともわかっている。


ゆっくりと顔を上げると、彼はただ静かに私を見つめていた。その優しすぎる眼差しに、胸が張り裂けそうになる。


「……やっぱり、まだ許せない……よね。私が最低だったから……」


声が震える。目の奥が熱くなる。

でも、私は必死に奥歯を噛み締め、涙を堪えた。


(泣くのは、ずるい。泣いて許してもらおうとするのは、昔の私のやり方だ)


自分が悪いのに、涙を武器にして相手に罪悪感を抱かせるなんて、そんな卑怯な真似はもう絶対にしたくなかった。


「違うよ。恨んでるからじゃない。むしろ逆だ」


彼は小さく息を吐き、言葉を探すように少し視線を外してから、まっすぐに私を見た。


「謝ってくれてありがとう。でも、俺はもう全然気にしてないんだ。今日、久しぶりに結衣と話してさ。すごく気配りができて、優しくて……本当に素敵な大人の女性になったんだなって、素直に思ったんだ」


「え……?」


「10年前の俺たちは、ただの子供だった。俺も意地になってたし、結衣を深く傷つけるような言葉もたくさん言った。でも、お互いにあれから色んな経験をして、ちゃんと大人になれたんだなって、今日確認できて……すごく安心したんだよ」


我慢していた涙が、ポロリと一粒だけこぼれ落ちてしまった。私は慌てて指先でそれを拭う。


ダメだ、泣いちゃダメだ。彼の優しい言葉に甘えちゃダメだ。


「だからこそ、なんだ」


彼は私の目をしっかりと見つめて言った。


「今の素敵な結衣と、新しく関係を始めるには、俺たちは少し昔のことを知りすぎてる。今の俺は、今の平穏な生活をすごく気に入ってるんだ。結衣も、きっと自分の生活があるだろ?」


「…………」


「綺麗になった結衣を見て、少しドキッとしたのも本当だよ。でも、お互いの人生のために、今日のこの再会と結衣からの謝罪はいい思い出のまま、綺麗な箱にしまっておくのが一番だと思うんだ」


それは、大人の男としての、嘘偽りのない誠実な本音だった。


彼の中で、私はもう恨むべき過去ではなくなっていた。私がこの十年抱えてきた罪悪感を受け止め、その上で、一人の自立した女性として敬意を払い関係を持たないと決断してくれたのだ。


未練がなくなったわけじゃない。今すぐ彼に抱きついて、やり直したいと叫びたい気持ちはある。


けれど、彼のその真摯な言葉を聞いて、私の中で張り詰めていた何かが、ふっと解ける音がした。


不思議と、ストンと諦めがついた。


私は大きく深呼吸をして、顔を上げた。


泣くのは堪えた。代わりに、今日一番の、嘘偽りのない笑顔を作った。


「……うん。わかった」


声は震えていなかったと思う。


「ありがとう。ちゃんと謝らせてくれて。私ね、ずっと……ずっとあなたに謝りたかったの。でも、今日会って、あなたがすごく素敵な人になってたから……なんか、欲が出ちゃった」


「はは、買い被りすぎだろ」


「ううん。本当に、会えてよかった。……またね」


「ああ、気をつけて帰れよ。仕事、頑張れな。……またな」


私たちは短く手を振り合い、別々の方向へと歩き出した。


振り返ることはしなかった。


彼に許してもらえたのかどうかはわからない。でも、最後に彼が私を「大人の女性」として扱ってくれたことが、これからの私の人生を少しだけ前向きにしてくれる気がした。





――それから、一週間後。


残業を終え、最寄り駅の改札を抜けたのは夜の11時を回った頃だった。


都内を走る私鉄沿線。急行も停まらない、こぢんまりとした駅。私は駅前のコンビニに寄り、お茶のペットボトルをレジに持っていこうとした。


その時、雑誌コーナーの前に立っている男性の背中が目に入った。

見間違えるはずがない。少し広くなった肩幅、無造作な髪。


彼だった。


(えっ……嘘)


心臓が大きく跳ねた。

恵比寿での合コンから一週間。こんな時間に、こんな都心の外れのローカルな駅にいるということは、つまり――。


彼と私は、偶然にも同じ路線の、同じ最寄り駅の生活圏内に住んでいたのだ。



彼は缶ビールを片手に、そのままレジへと向かっていく。


私は慌てて棚の影に身を潜めた。声をかけることはしなかった。


『お互いの人生のために、今日のこの再会は「いい思い出」のまま、綺麗な箱にしまっておくのが一番だと思うんだ』


彼の言葉が蘇る。


コンビニの自動ドアが開き、彼が夏の夜の闇の中へ歩き出していく。


その後ろ姿を見つめながら、私は自分の胸の奥に、まだ消えずに残っている小さな熱を感じていた。


諦めはついた。彼を困らせるようなことはしたくない。


でも――。


(東京って、意外と狭いんだな……)


同じ駅を使い、同じ街の空気を吸って暮らしている。

明日も、明後日も、もしかしたら朝の通勤ラッシュで肩が触れ合うかもしれない。休日のスーパーで、すれ違うかもしれない。


完全に終わったはずの物語の切れ端が、まだこの街のどこかに繋がっているような気がして。


私はペットボトルを握りしめたまま、彼が消えた夜道に向けて、小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。


「……またね」


夏の終わりの夜風が、少しだけ涼しく感じられた。





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