もう君を恨んではいない
8月。猛暑が続く東京の夜は、日を跨ぐ時間が近づいても一向に気温が下がる気配を見せない。
アスファルトから立ち上る熱気と、行き交う人々の香水やアルコールの匂いが混ざり合う恵比寿の路地裏。
隠れ家的な雰囲気を売りにした洋風居酒屋の店内は、週末の解放感に包まれた男女のざわめきで満ちていた。
「いやー、今日は急に呼び立ててごめんな! お前が来てくれてマジで助かったわ」
大学時代からの悪友である翔太が、クラフトビールのジョッキを傾けながら気さくに笑う。俺は「お安い御用だ」と適当に返しつつ、冷えたグラスの結露を指先で拭った。
俺は都内のメーカーで働く、ごく一般的な27歳の会社員だ。新卒で入社して数年が経ち、仕事の裁量も増えてきた。平日は満員電車に揺られ、週末はこうしてたまに友人と酒を飲むか、家で映画を見て過ごす。どこにでもある、等身大の東京の社会人生活。特別派手ではないが、この穏やかで手堅い日常を、俺はそれなりに気に入っていた。
今日は翔太の職場の繋がりで開催された合コンの、急な欠員補充として呼ばれた。向かいの席には、20代後半らしい落ち着いた装いの女性が三人。
その右端に座っていた彼女とふと視線が合った瞬間、俺の脳裏に、すっかり埃を被っていた十年前の記憶がフラッシュバックした。
(……マジか。こんなことってあるんだな)
俺の心拍数が、ほんの少しだけ跳ねる。
そこに座っていたのは、高校時代に付き合っていた初恋の相手、結衣だった。
肩口で切り揃えられた艶のある髪。鎖骨が綺麗に見える薄紅色のブラウス。メイクは派手ではないが、大人の女性としての品があり、控えめに言ってかなり目を引く美しさに仕上がっていた。
彼女も俺に気づいたようで、小さく息を呑み、グラスを持つ手が微かに震えているのがわかった。
結衣とは、高校二年の夏から付き合い始めた。初めて手をつなぎ、初めてキスをして、初めて肌を重ねた相手。お互いに何もかもが初めてで、俺は彼女のことが本当に好きだった。
だが、三年生になる直前、彼女は一つ上の先輩と浮気をした。しかも、体育館の裏で制服を乱され、先輩の手がスカートの奥深くに入り込んでいる生々しい現場を、俺は男友達と一緒に目撃してしまったのだ。
あの時の絶望と、お互いにぶつけ合った汚い罵詈雑言。狭い田舎の高校で広まった下世話な噂。当時の俺にとって、それは間違いなく世界の終わりだった。
だが、あれから十年が経った。
東京の大学に進学し、何人かの女性と年齢相応のまともな恋愛を経験した。一緒に朝を迎え、他愛のないことで喧嘩をし、価値観のズレから静かに別れを選ぶ。そんな大人の関係を繰り返すうちに、17歳の頃のあの泥沼のトラウマは、良くも悪くも「若気の至り」として風化していった。
今の俺は、彼女に燃えるような恨みも抱いていなければ、ドラマチックな復讐心もない。ただの「少し苦い過去の人」だった。
「出身、どちらなんですか?」
翔太が女性陣に話を振る。結衣が言葉に詰まっているのを見て、俺はごく自然なトーンで口を開いた。
「奇遇ですね。俺も、彼女と同じ高校の出身なんですよ。同級生だったんです」
周囲が「すごい偶然!」と沸き立つ中、俺は結衣に向かって軽くグラスを掲げた。
「久しぶり。元気にしてた?」
「……うん。久しぶり、だね」
そこから先の二時間は、思いのほか穏やかで、そして興味深いものだった。
大人の男として、俺もあえて昔の傷をえぐるような真似はしない。そして結衣もまた、周囲の空気を壊さないように、適度な距離感で会話に参加していた。
俺はその間、少し離れた席から彼女を観察していた。
正直なところ、健康な男として、今の結衣には強烈に惹かれるものがあった。
ふとした瞬間に見せる憂いを帯びた伏し目や、グラスに口をつける時の艶っぽい唇。会話の端々から、彼女が俺に対して「負い目」と「未練」を抱えていることは痛いほど伝わってきた。
(……今夜、このまま誘えば、たぶん彼女は俺の部屋に来るだろうな)
少しだけ、そんなゲスな考えが頭をよぎったのも事実だ。傷ついた過去の分、今度は俺が主導権を握って、都合のいい関係に持ち込むことだってできるかもしれない。彼女の柔らかな肌や、少し上気した頬を見ていると、男としての本能が微かに疼くのを感じた。
だが、俺はすぐにその思考を振り払った。そんなことをしても虚しいだけだし、何より今の俺の平穏な生活が掻き乱されるのはご免だ。
それに、彼女をただの「過去の悪役」や「都合のいい女」として見るには、彼女はあまりにもちゃんとした大人になっていた。
誰かのグラスが空きそうになれば、わざとらしくなくメニューを差し出す。翔太の少しスベった冗談にも、クスッと品良く笑って場を和ませる。高校時代のような、自分の感情だけで突っ走る危うさは消え、周りをよく見ている、気遣いのできる大人の女性になっていた。
「そういえば、地元帰ってる?」
会話の流れで、俺は結衣に尋ねた。俺たちの地元は、人口十万人ほどの何もない地方都市だ。
「ううん、最近は全然。仕事も忙しいし……」
「だよな。実は俺、昨日、8月4日にちょっと野用があって地元に帰ってたんだけどさ。今、あっちの在来線が運休してるだろ? だから東京から新幹線で郡山まで行って、そこから高速バスに乗り換えて帰ったんだよ。あれ、結構しんどくてさ」
「あ、ニュースで見た。大変だったね……でも、なんかそのルート懐かしいかも」
結衣が目を細め、少しだけ素の笑顔を見せた。
その飾らない笑顔を見た時、俺は胸の奥にじんわりとした温かいものを感じた。
ああ、よかった。彼女はちゃんと、あの修羅場を乗り越えて、自分の足で人生を歩んできたんだな。
十年前、俺を裏切った彼女を、俺はずっと「最低な女」だと心のどこかで思い込んでいた。でも、目の前にいるのは、俺と同じように東京の波に揉まれ、時には失敗し、それでも懸命に27歳まで生きてきた、一人の立派な女性だった。
彼女の良いところを、今の俺なら素直に認めることができる。それが、少しだけ嬉しかった。
◆
お開きになり、店を出る。
週末の恵比寿駅に向かう人の波の中で、結衣が小走りで俺の隣にやってきた。
「あのさ」
街灯の光に照らされた彼女の顔は、ほんの少しだけ切羽詰まっているように見えた。
「今日は……会えてよかった。本当に」
「俺もだよ。なんか、色々と懐かしかったな」
「うん……あの、もしよかったら、LINE交換しない? その、近いうちに、二人で食事でもどうかなって思って……」
彼女の瞳が揺れている。そこにあるのは、過去への贖罪と、そして明らかな思慕だった。
今なら、あの時の失敗をやり直せるかもしれない。そんな微かな期待にすがるような、脆くて美しい表情。
俺はゆっくりと足を止め、彼女と正面から向き合った。
「……誘ってくれてありがとう。でも、連絡先を交換するのは、やめておこうと思う」
結衣は弾かれたように顔を上げ、息を呑んだ。そして、少しの間を置いて、絞り出すように口を開いた。
「……っ、ごめんなさい」
不意にこぼれ落ちたその言葉に、俺は少しだけ目を見開いた。
「ずっと……ずっと、謝りたかったの。あの時のこと。私、本当に最低だった。あなたを裏切って、自分の保身のためにひどい言葉をぶつけて……。あなたをあんなに深く傷つけて、本当に、ごめんなさい」
結衣は深く頭を下げた。華奢な肩が微かに震えている。
十年間。彼女はずっと、この罪悪感を抱えたまま生きてきたのだろう。
ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳には、涙が滲んでいた。
「……やっぱり、まだ許せない……よね。私が最低だったから、当然だよね……」
涙声になりかける彼女を、俺は静かに遮った。
「違うよ。恨んでるからじゃない。むしろ逆だ」
俺は小さく息を吐き、言葉を探しながら続けた。
「謝ってくれてありがとう。でも、俺はもう全然気にしてないんだ。今日、久しぶりに結衣と話してさ。すごく気配りができて、優しくて……本当に素敵な大人の女性になったんだなって、素直に思ったんだよ」
「え……?」
「10年前の俺たちは、ただの子供だった。俺も意地になってたし、結衣を深く傷つけるような言葉もたくさん言った。でも、お互いにあれから色んな経験をして、ちゃんと大人になれたんだなって、今日確認できて……すごく安心したんだよ」
結衣の目から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。彼女は慌てて指先でそれを拭うが、次から次へと溢れて止まらないようだった。
「だからこそ、なんだ」
俺は彼女の目を見つめて言った。
「今の素敵な結衣と、新しく関係を始めるには、俺たちは少し昔のことを知りすぎてる。今の俺は、今の平穏な生活をすごく気に入ってるんだ。結衣も、きっと自分の生活があるだろ?」
「…………」
「綺麗になった結衣を見て、少しドキッとしたのも本当だよ。でも、お互いの人生のために、今日のこの再会と結衣からの謝罪は『いい思い出』のまま、綺麗な箱にしまっておくのが一番だと思うんだ」
上から目線でもなく、見栄を張るでもなく。等身大の男としての、嘘偽りのない本音だった。
結衣はしばらく俯いて肩を震わせていたが、やがて、大きく深呼吸をして顔を上げた。
泣きはらした目元は赤くなっていたが、その表情には、憑き物が落ちたような清々しさが宿っていた。
「……うん。わかった」
彼女は、今日一番の、本当に綺麗な笑顔を見せた。
「ありがとう。私ね、ずっと……ずっとあなたに謝りたかったの。でも、今日会って、あなたがすごく素敵な人になってたから……なんか、欲が出ちゃった」
「はは、買い被りすぎだろ」
「ううん。本当に、会えてよかった。……またね」
「ああ、気をつけて帰れよ。仕事、頑張れな。……またな」
俺たちは短く手を振り合い、別々の方向へと歩き出した。
振り返ることはしなかった。でも、背中越しに離れていく彼女の足音は、出会った時よりもずっと軽やかに聞こえた気がした。
恵比寿の駅に吹き込む生ぬるい夜風が、少しだけ心地よい。
2026年の夏。俺の胸の中にあった小さな澱みは、この東京の夜空に綺麗に溶けて消えていった。
明日は休みだ。遅くまで寝て、起きたら溜まっている洗濯でもしよう。
ごく普通の、愛すべき日常が、また静かに続いていく。




