第5章 消された記録
翌朝、空は晴れていた。
雲は薄く引き、昨夜までの雨が嘘のように青さが戻っている。けれど、町は乾いていなかった。道路脇の側溝にはまだ水が鈍く光り、植え込みの葉先からは雫が落ち続けている。アスファルトも、ただ濡れているというより、薄い膜を一枚まとったまま光を返していた。
志津子は駅前へ向かう信号待ちで立ち止まり、その膜のような光沢を見下ろした。
晴れているのに、水音が残っている。
車が通るたびに跳ねる水ではない。歩いていると、どこからともなく、かすかな水の気配が耳に触れる。電線の上でも、看板の裏でも、建物の影でもない。町そのものの奥に、まだ昨夜の雨が引ききらず留まっているような感覚だった。
しかも、それだけではなかった。
朝から何度か、風景に微細な引っかかりを覚えている。商店街の角の案内板が、以前より少し左へ寄っている気がする。横断歩道の白線が一列ぶん短い。かつて文具店だった場所が、今日はずっと前から空き店舗だったかのような顔をしている。
一つひとつは些細だ。
見間違いだと言われれば、それまでのズレ。
だが、結麻の名前が世界から消えたあとでは、その“些細”が看過できなかった。
町が、薄く上書きされている。
誰か一人の記録だけではなく、その人間が確かに存在していた周辺の風景まで、整合が取れるように少しずつ削られている。
それは破壊ではなく修正に近かった。
何かが乱暴に壊されるのではなく、最初からそうだったかのように、静かに馴らされていく。
志津子は、自分の歩幅がいつの間にか速くなっていることに気づき、そこで初めて立ち止まった。
向かう先は、市立図書館ではない。
郷土資料館の地下保管室。
昨夜、山上から見せられた写し地図。
父の個人資料。
あれだけでは足りない。
“いま起きていること”が、土地に何度も繰り返されてきた現象なのだとしたら、その痕跡はもっと深いところに残っているはずだった。
*
郷土資料館は、平日の午前だというのにひどく静かだった。
来館者はほとんどおらず、受付の職員も声を潜めているように見える。志津子が名乗ると、奥からすぐに山上圭介が出てきた。昨日よりも顔色が悪い。眠れていないのは明らかだった。
「来ると思っていました」
「父が使っていた部屋を見せてください」
挨拶も前置きもなくそう言うと、山上は一瞬だけ目を細めた。だが意外なほどあっさり頷き、ポケットから小さな鍵を取り出した。
「本当は、もっと早く整理すべきだったんです」
そう呟きながら、資料館の裏手にある階段を降りていく。地下へ近づくほど空気が冷える。コンクリートの壁には古い湿気の染みが残り、蛍光灯の白さだけがやけに浮いていた。
最下段の鉄扉の前で、山上が立ち止まる。
「ここです。先生のお父上が、最後の数か月、出入りしていた部屋です。館の正式記録には残していません」
「なぜですか」
「残すべきかどうか、判断がつかなかったからです。研究成果としてまとめるには、あまりにも個人的で、しかも……」
そこで言葉を切る。
「しかも?」
「“再発”の記録としては、あまりに生々しかった」
鍵が回る音が、狭い通路に乾いて響いた。
*
部屋の中は、想像していたよりずっと整っていた。
散乱した研究室ではない。
むしろ、その逆だった。
机の上には原稿用紙がきちんと束ねられ、地図類は年代ごとに紐で括られている。本棚にはフィールドノートが背表紙の番号順に並び、木箱の上には内容を書いたラベルまで貼られていた。
几帳面に整えられすぎていて、かえって異様だった。
まるで、いなくなる直前に、残すべきものだけを選び抜いて整理したような痕跡。
志津子は、部屋の中央に置かれた机へ近づいた。
上に広げられていたノートの表紙には、父の字でこう書かれている。
『宵鳴坂・再発記録』
ページを開く。
最初の数枚には、聞き取りの要約と現地観察の概要が淡々と並んでいた。
七ヶ瀬峠。旧称・宵鳴坂。
雨乞い、水神、供儀、呼称変化、消失。
だが、途中から文の質が変わる。
採集報告ではなく、現象に巻き込まれた当事者の記録へ傾いていた。
志津子は、赤鉛筆で線の引かれた箇所を読んだ。
「雨乞いの儀式において、“名無き子”を水神へ捧げる風習があった可能性が高い。
名を呼ばぬまま差し出された子は、水のものとして処理され、個の記憶から切り離される」
次の行。
「重要なのは、死ではない。
無名のまま送られることで、“誰でもないもの”になること」
志津子は、唇を引き結んだ。
供儀そのものも残酷だ。
だがこの怪異の核は、そこではない。
“死んだ子”ではなく、“名を持たされなかった子”が問題なのだ。
その存在は、誰かの死として弔われない。
名前を持たないから、記録に残らない。
記録に残らないから、後の世で“いなかったこと”にされる。
それが雨乞いという共同体の都合に組み込まれていたとしたら、宵泣きが単なる怪談で済まないのも当然だった。
ページをめくると、年号が変わる。
昭和三十一年。
父が生まれるより前だ。
そこには、別の赤線が引かれていた。
「同地において再発現象あり。
町内で所在不明扱いとなる者が短期間に増加。
行政記録上は転出・転居・親族引き取り等に処理されるが、当時の聞き取りでは“名前だけが残らない”との証言複数」
さらに注。
「新聞はこれを疫病と混乱の余波として処理。
実際には、名を問う声と、水音を聞いた者から順に“消失”した可能性」
志津子は、目を閉じた。
結麻だけではない。
前にもあったのだ。
しかもそれは、土地の誰かが一度経験したきりで終わったものではない。
行政が別の理由で覆い隠し、地名を書き換え、名簿の整合をとることで、どうにか“なかったこと”にしてきた災いだった。
つまり、七ヶ瀬峠という現在の名称自体が、処置の一部だったのだ。
*
部屋の奥の棚から、山上が細長い木箱を取り出した。
「これも見つかっています」
蓋を開けると、中には巻かれた紙が数本入っていた。
絵巻とも地図ともつかない、薄い和紙の束。
その一本を広げた瞬間、志津子は息を呑んだ。
中央に描かれているのは、水面だった。
そこに、女とも子供ともつかない影が浮かんでいる。顔は描かれていない。髪だけが異様に濃い墨で塗られ、その先が水へ溶けるように流れていた。
水面の外周には、小さな人影が幾つも描かれている。誰もが顔を持たず、ただ輪郭だけで表現されている。その中の一人だけが、唇の位置に小さな朱を差されていた。
そして、絵の上部に、朱書きで一言だけ。
『ナを返すナ』
志津子は、思わずその文字を指先でなぞりかけ、途中で止めた。
返すな。
名前を。
この作品を描いた誰かにとって、それは呪術上の注意事項だったのか、それとももっと切実な後悔の言葉だったのか。
「父は、これをどう解釈していたんですか」
山上は、机の上の別ノートを開いた。
「“返す”という言い方に注目していました。与えるではなく、返す。つまり、向こうにあるものを取り戻すのではなく、こちら側の名を向こうへ渡し直す行為だ、と」
志津子は、昨夜の峠での対話を思い出した。
「名をちょうだい」
「名前をください」
あれは、こちらに来るための名前を求めていたのだ。
失われた本来の名前を回復したいのではなく、現世に固定されるための新しい名を。
「だから、返してはいけない」
山上の声は低かった。
「名を返すことは、慰めや救済ではなく、怪異を完成させることになる。少なくとも、これを残した人間はそう理解していたのでしょう」
*
午後を回る頃には、部屋の空気そのものが重たくなっていた。
地下だからではない。
何かが近づいている気配があった。
志津子がノートから顔を上げると、壁際の金属棚に自分の姿が鈍く映っている。わずかに歪んだその像の肩越しに、一瞬だけ、別の何かが揺れた気がした。
志津子は振り向く。
誰もいない。
だが、次の瞬間、天井の蛍光灯が一度だけ明滅した。
その白い瞬きのあいだ、部屋の隅に濡れた足跡のようなものが見えた。
小さい。
裸足の子供の足跡だった。
床は乾いている。地下室に雨水が入り込む構造でもない。
それなのに、足跡だけが、そこへ至る途中を省略して、突然現れている。
志津子は一歩も動けなかった。
山上も気づいていたらしい。
だが声は上げず、ただ机の端を強く握りしめている。
蛍光灯が安定すると、足跡は消えていた。
代わりに、机の上へ置いたスマホが小さく震える。
画面を見ると、ブラウザが勝手に開いていた。
とある巨大掲示板。
昨日までのスレッドとはタイトルが変わっている。
『雨ノ怪異を語るスレ』ではない。
新しいタイトルは、こうなっていた。
──『記録されたくない怪異について語るスレ』
志津子は、画面の冷たさを掌に感じながら、最下部までスクロールした。
そこには、見慣れたIDがいた。
「“ナを返した者”は、もういない。
“ナを覚えていた者”も、もういない。
だから次は──“ナを名乗る者”が必要になる」
(ID:YOI5nX5k)
その文を読んだ瞬間、部屋の空気がさらに一段冷えた気がした。
“ナを名乗る者”。
それは、次の犠牲者というより、次の媒介だ。
名を持たぬものへ名前を渡し、それによって自分自身も繋がれてしまう者。
結麻の次。
次に問われるのは、自分かもしれない。
いや、もう問われているのだろう。
結麻が消えた時点で。
昨夜、峠で“しづこ”と呼ばれた時点で。
志津子は、スマホを静かに伏せた。
*
資料館を出る頃には、空は再び曇り始めていた。
午前中の青さはどこにもない。
西のほうから、鉛色の雲が重たく広がってきている。風はほとんどないのに、空だけが沈んでいく。
山上は入口まで見送ってきたあと、小さく言った。
「先生。これ以上、記録を追うのは正しいことかもしれません。でも、追えば追うほど、向こうも先生を認識します」
「もう遅い気がします」
志津子がそう言うと、山上は否定しなかった。
「……そうですね」
短いやり取りのあとで、志津子は車へ向かった。
その途中、資料館のガラス扉に自分の姿が映る。
背後には誰もいない。
だが、ほんの一瞬だけ、映った自分の輪郭の外側に、濡れた髪の黒さが混じった気がした。
志津子は視線を逸らさなかった。
もう、見ないふりはしない。
結麻は消えた。
昭和三十一年にも、同じように消えた人たちがいた。
名前を呼ばれ、名を失い、記録ごと薄く消されていった人たちが。
自分は、いまその連なりの中に立っている。
車に乗り込み、ワイパーの止まったフロントガラス越しに空を見る。
まだ雨は降っていない。
けれど、降る。
次に降る雨は、ただの天気の変化ではない。
問いが、再び近づいてくる合図だ。
エンジンをかける前、志津子はダッシュボードの上に置いた父のノートへ手を伸ばした。表紙を開き、余白に短く書きつける。
『名称抹消は対処療法。根絶ではない』
ペン先が少しだけ震えた。
根絶ではない。
だからこそ、繰り返す。
忘却が薄くなれば、また向こうが滲み出してくる。
志津子はノートを閉じ、静かに息を吐いた。
次に選ばれるのは、自分かもしれない。
だが、逃げても終わらない。
呼ばれた以上、どこかで答えを選ばなければならない。
空の端で、遠く雷が低く鳴った。
音はまだ小さい。
けれど、その低さは、水の底で何かが身じろぎした時の気配によく似ていた。




