第4章 雨夜、女の声
その夜、町に再び雨が降った。
日中は晴れていたはずだった。昼過ぎには雲も切れ、講義棟の窓から見えた空は、不自然なくらい澄んでいた。天気予報でも、夜は回復に向かうと言っていた。だから最初の一滴が落ちてきた時、志津子はすぐには雨だと認識できなかった。
研究室の窓を、何かが軽く叩いた。
書類から顔を上げる。
次に、もう一度。
それから、間を置かずに、細かい粒が一斉にガラスを打ち始めた。
時計を見ると、午後七時を少し回ったところだった。
志津子は椅子にもたれたまま、窓の外を見た。空の変わり方が妙だった。遠くから雨雲が流れ込んできたという感じではない。最初からそこにあった透明な層が、急にこちら側へ落ちてきたような降り方だった。
音が、揃う。
窓を打つ雨の音。
排水溝へ流れ込む水の音。
研究室の外、庇を伝って落ちる細い水筋の音。
それらが一つの調子を取り始めた時、志津子は机の上のノートから顔を上げた。
雨音の裏に、別の声が混じっている。
「……おかあ……さ……ん……」
ひどく掠れていた。幼い声にも、年老いた声にも聞こえる。喉が擦り切れたまま、それでも何度も同じ言葉を出そうとしているような声だった。
志津子は、背中に冷たいものが走るのを感じた。
昨夜まで窓の外にあったのは、「お名前を」と問う声だった。
だが今夜は違う。
今夜の声には、もっと剥き出しの欠落があった。
名前を問う前に、置いていかれたものの声。
志津子は、反射的にノートパソコンへ手を伸ばした。
父の原稿を開いていたファイルの脇に、ブラウザの通知が一つだけ浮かんでいる。
──とある巨大掲示板。
あのスレッドに、新しい書き込みがあった。
志津子はマウスを握り、画面を開いた。
スレッドタイトルは以前と同じだが、レスの流れは明らかに速くなっていた。
レス番号97には、こうあった。
「今日の雨は予定外。泣き声、また聞こえてる。聞いたらダメだ、誰が呼んでも、絶対返事するな」
(ID:YOI5nX5k)
次の書き込み。
「“戻ってきた”ってことか?」
(ID:6nL2cVq9)
さらにその下。
「呼び声に返したやつ、今回は何人いる?」
(ID:Qd0-xM31)
そして、少し空いてから、同じIDがまた現れる。
「……今夜は、重なる夜だ。音と声と名と、すべてが揃う夜」
(ID:YOI5nX5k)
志津子の指が、マウスの上で止まった。
このIDの書き込みは、もはや警告というより実況に近い。
それも、こちらの様子を“見ている”側の言葉だ。
結麻が消えた夜、峠の現地で自分に向けられた問い。
父のテープに残っていた、水音のそばの声。
そして、今こうして掲示板に現れる断片。
これらが別々の現象ではないことを、もう疑ってはいなかった。
YOI5nX5k。
このIDの向こうにいるのは、生きた誰かではない。
少なくとも、普通の意味でネットに書き込んでいる人間ではない。
“向こう側”から、こちらを覗いている何かだ。
*
志津子は立ち上がった。
自分でも驚くほど迷いがなかった。
コートを取り、鍵を掴み、研究室の照明を落とす。廊下へ出ると、夜の校舎は妙に静かだった。学生の姿はない。自販機のモーター音だけが、遠くで低く唸っている。
外へ出ると、雨はすでに本降りになっていた。
駐車場まで走るあいだに、肩口と髪が濡れる。傘を差していても意味がない。雨粒が細かすぎて、風がないのに斜めにまとわりついてくる。
車に乗り込み、エンジンをかける。
ワイパーが動き始めた瞬間、フロントガラスに走る水筋が、まるで鏡のように町の灯りを引き延ばした。
境界が、薄くなっている。
そうとしか言いようがなかった。
道路標識の反射。
対向車のライト。
濡れたアスファルトに滲む赤信号。
すべての輪郭が一度、水を通して見えている。
現実がそのままあるのではなく、水面越しに映された現実を走っているような感覚だった。
七ヶ瀬峠へ向かう道に入ると、さらに妙なことが起きた。雨脚は強まっているのに、音の芯がなくなっていくのだ。ザーッというまとまりではなく、無数の小さな打音が別々に立っている。その隙間、その隙間に、誰かの声が差し込まれる。
「……お名前を……ください……」
志津子は、ハンドルを握る手に力を込めた。
名前を返してはならない。
父のテープにも、山上の警告にも、同じ核があった。
音に意味を与えるな。
問いに、自分の言葉で答えるな。
だが、向こうはそれを知っている。
知らない相手に名前を尋ねているのではない。
こちらの名前を、すでに“覚えたうえで”、確定させようとしている。
*
旧道の入口に着いた時、志津子は車を降りる前に一度だけ深呼吸した。
昨日と同じ標識。
同じ通行止。
同じように手入れを失った山道。
それなのに、今夜の旧道はまったく別の場所に見えた。
雨に濡れた舗装が、奥へ行くほど黒く沈んでいる。木々の間には霧のような薄い白が漂い、懐中電灯を向けると、光が奥まで届かず手前でほどけた。
歩き始めるとすぐに、水の匂いがした。
沢の清涼な匂いではない。もっと古い、長く動かない水の匂いだ。
湿った畳。水を吸った木材。床下にこもった冷えた空気。
人の住んでいた場所が水に沈んだ時のような、生活の気配を含んだ湿り気が、道の奥から流れてくる。
志津子は、足元の懐中電灯を強く握った。
朽ちかけた木枠は、今夜もそこにあった。
鳥居とも門ともつかない骨組みだけの構造物。
その向こうの空気が、水面のようにわずかに光を返している。
一歩。
また一歩。
靴底が濡れた落ち葉を踏み、低い音を立てる。
その音の先に、別の水音がある。
そして──見えた。
木枠の向こう、暗がりの中心。
そこに、誰かが立っていた。
少女のようにも見える。女のようにも見える。
輪郭は細く、けれど安定しない。雨に打たれて揺れているのではない。最初から、水面に映った像のように、境界が曖昧なのだ。
髪だけが濃く黒い。
顔の位置に白さがあり、その中央に目らしき暗みが二つ浮いている。
「……かえして……」
声が響いた。
志津子は足を止めた。
心臓が、ひどく強く脈を打つ。
「かえして……かえして……わたしの……」
その声は、確かに女の声だった。
だが怨みだけではない。もっと切実で、もっと空洞に近い何かがあった。喉を裂いて叫ぶのではなく、水の底から何度も浮き上がっては沈むような声。
志津子は、意識のどこかが冷たく開いていくのを感じた。
この声を、自分は知っている。
記憶の奥、言葉になる前の場所で、ずっとこの響きを知っていた。
影が、わずかに顔を上げる。
「──しづこ、って呼んだの、あなたよね……?」
脳が揺れた。
過去と現在が、そこで接続した。
雨の山道。
幼い自分。
名前を呼ぶ母の声。
そして、その反対側から差し出されていた、静かな問い。
──「しづこ!」
母の声に呼び戻された時、自分は何かを置いてきたのではないか。
向こうから見れば、それは裏切りに近かったのではないか。
名前を差し出しかけ、こちら側の声に呼ばれ、振り返って帰ってしまった。
もしそうなら、いま目の前に立っているものにとって、自分は最初の目撃者ではなく、もっと個人的な加害者に近い。
志津子は喉が動くのを止めようとした。
返事をしてはならない。
だが、その瞬間、視界の端で何かが動いた。
水たまりの奥。
道の低い窪みの中。
そこから、白い指が一本、静かに這い上がってきた。
次に、腕。
次に、濡れた肩。
音はしない。
それがかえって恐ろしかった。
名もなく、水の底に押し込められたものが、順番にこちらへ近づいてくる。
志津子は反射的に後ずさった。
その瞬間、女の影の声が変わった。
「──おかあさん、どうして……どうして置いていったの……?」
違う。
それは、自分の母の声ではない。
志津子を責めるための言葉ですらない。
捨てられた子供の声だった。
名もなく、水に沈められ、供儀として処理され、誰にも覚えられないまま、ただ泣き続けてきた存在の声。
怒りより先に、欠落がある。
恨みより先に、呼ばれなかった事実がある。
その声が、たった一つの願いとして続けた。
「名をちょうだい……名前を、ください……」
*
もしここで、自分の名前を口にすれば。
あるいは、別のどんな名前でも与えてしまえば。
“それ”は、こちら側に固定される。
名前を得た怪異は、ただの気配ではいられない。記憶と反射と雨音のなかを通って、明確な形を持ってしまうだろう。父が恐れていたのは、おそらくそこだ。
名を持たぬままなら、水の向こうにしかいられないもの。
名を与えた瞬間に、こちら側へ来られてしまうもの。
志津子は、目を閉じた。
唇が震える。
それでも、言葉を選んだ。
「……あなたを、こちらの名前で縛ることはできない」
声が、自分でも驚くほど静かだった。
「名前は、忘れられたからって、誰かが勝手に与え直していいものじゃない」
女の影が、わずかに揺れる。
その揺れは怒りではなかった。
泣き声のような水音が、周囲を満たしていく。
道の窪みから這い上がりかけていた白い腕も、その場で止まった。
志津子は、もう一歩だけ踏みとどまり、続けた。
「でも……忘れない」
その言葉は、ほとんど息に近かった。
「なかったことには、しない」
雨の筋が、そこで一度だけ乱れた。
女の影は顔を伏せたように見えた。
輪郭がさらに曖昧になり、足元から少しずつ水に沈み始める。
ちょうどその時、ポケットの中でスマホが震えた。
通知が来るはずはない。画面を見ていなかったのだから。
だが、震えは短く、はっきりしていた。
志津子は視線を落とす。
ロック画面には一行だけ、文字が出ていた。
《レス:101》
画面を開く。
スレッドは凍結されているはずだった。
なのに、そこにはたしかに新しい書き込みがあった。
「名を返すな。その名は、お前のものじゃない」
(ID:YOI5nX5k)
志津子は、息を呑んだ。
この投稿は、いまこの瞬間を見ていなければ出せない。
“名は、お前のものじゃない”。
その言葉が、そのまま空気の中に重なる。
水の中へ沈みかけた影が、そこでぴたりと止まり、次いで、ほんの少しだけうなずいたように見えた。
やがて輪郭がゆっくりと崩れていく。
髪の黒も、白い顔も、細い腕も。
すべてが水に溶けるように薄くなり、暗がりと見分けがつかなくなっていく。
水音が遠ざかる。
泣き声も、消える。
最後に残ったのは、普通の夜の闇だけだった。
*
志津子は、その場に膝をついた。
体の力が抜け、雨に濡れた地面の冷たさが遅れて伝わる。
風が戻ってきた。木々がざわめき、枝先から落ちる水滴が、ようやく“普通の”物理的な音として聞こえ始める。
峠の空気が、少しずつ現実の手触りを取り戻していく。
呼吸を整えるまでに、数分かかった。
スマホを確認する。
画面には、もう何もない。
さっき見たはずのレス101も消えている。
スレッド自体が再び凍結され、更新履歴もない。
だが、志津子は確かに見た。
──“名を返すな”。
あれは警告だったのだろう。
誰からのものかはわからない。
父と同じように向こうへ触れてしまった誰かか。
あるいは、向こう側に囚われたまま、こちらへ書き込んでいる“何か”か。
それでも内容だけは明白だった。
あの存在を救うことと、名前を与えることは、同じではない。
*
山を下りる頃には、雨はすっかり止んでいた。
空の裂け目のように、雲の隙間から星がいくつかのぞいている。
道路はまだ濡れていたが、さっきまでのような異様な水音はしない。
ぬかるんだ土の匂いだけが濃く残り、夜の山の冷えた空気の中に漂っていた。
車に乗り込む前、志津子は一度だけ振り返った。
峠の方角。
暗がりの奥、誰かがまだ立っているようにも見えた。
けれど、それはもう“誰か”ではなかった。
ただ、そこに残っている水の記憶だった。
名前を持たぬまま、夜の湿り気に溶けている残響。
それが恐ろしいのか、哀れなのか、志津子にはもう一言では言えなかった。
*
町へ戻った頃には、時刻は午後九時を過ぎていた。
研究室ではなく、そのまま自宅へ戻る。
鍵を開け、濡れた靴を脱ぎ、部屋の明かりをつける。
そこが自分の住まいであることに、一瞬だけ安堵した。
机の上には、朝読み返していた父のノートが開いたまま残っている。
最後のページ、その下段に、見覚えのない一文が目に入った。
いや、見覚えがないのではない。
今夜ここへ戻ってきた自分にとって、初めて意味を持っただけだ。
「声を返せば、名は残らない。
名を返さず、記憶に留めれば──その存在は、ただ静かに消える。
それはきっと、彼女にとっての、唯一の“救い”なのだ」
志津子は、しばらくその一文を見つめた。
父がこの言葉を書いたとき、誰を見ていたのだろう。
宵鳴坂の向こうの存在か。
自分か。
あるいは、そのどちらもか。
机の引き出しからペンを取り出す。
ノートの余白に、ためらいながら一行だけ書き足した。
──「私は、忘れません」
それ以上は書けなかった。
名前はない。
与えない。
返さない。
けれど、確かにそこにいたことだけは、忘れない。
それが記憶という名の鎮魂になるのなら。
この夜の後始末の、最初の一歩になるのなら。
窓の外を見ると、雨はもう降っていなかった。
ガラスの表面に残る細い水筋だけが、さっきまでそこに雨があったことを示している。
その向こうに広がる夜は静かで、どこにも声はなかった。
だが、志津子にはわかっていた。
終わったのではない。
退いたのだ。
名を持たぬまま、いったん水の向こうへ退いただけで、問いそのものは消えていない。
返さない。
呼ばない。
忘れない。
その三つを、自分はこれから何度も選び続けることになるのだろう。
部屋の電気を落とす前、志津子は窓辺で一度だけ立ち止まった。
暗いガラスには、自分の姿がうっすら映っている。
その背後には、もう誰もいなかった。




