第3章 誰も知らない地名
雨は、翌朝になっても止まなかった。
夜のうちに一度弱まったはずなのに、明け方からまた細かく降り始め、大学へ向かう道路も歩道も薄い水膜をまとっていた。傘を差して歩く学生たちの足元で、舗装の継ぎ目にたまった水が小さく跳ねる。その音が、志津子にはひどく遠く聞こえた。
現実の輪郭だけが一枚薄くなっている。
そんな感覚が、朝から続いていた。
前夜、自分は確かに見た。旧道の先、朽ちた木枠の向こうに立つ市川結麻を。呼びかけに対して返ってきたのは、意味の取りづらい問いではない。はっきりとした言葉だった。
──「お名前は……?」
それは挨拶でも確認でもない。
あの場所では、“名前”そのものが何かの受け渡しになっている。
そして結麻は消えた。
ただ姿を見失ったのではない。いま大学へ向かう道の途中でさえ、何度もスマホを確認したが、結麻の連絡先も、メッセージも、昨夜の位置共有の履歴も、どこにもなかった。消去した形跡すらない。最初から存在しなかったかのような、滑らかな空白だけが残っていた。
志津子は傘の柄を握り直した。
大学の校門をくぐると、見慣れたはずの風景がわずかに違って見えた。講義棟へ向かう石畳の色が、雨のせいだけではなく一段暗い。掲示板の位置が、昨日より数十センチずれているような気がする。植え込みの形も、何かを見落としているような、妙に整いすぎた輪郭をしていた。
思い込みだと言われれば、それまでだ。
だが、結麻の名が消えたあとでは、その“わずか”が看過できなかった。
*
教務課の窓口で、志津子は必要以上に落ち着いた声を出していた。
「市川結麻という学生の履修情報を確認したいのですが」
若い職員は端末を操作し、首を傾げた。
「……市川、ですか。下の名前は」
「結麻。二年生で、郷土伝承ゼミの所属です」
職員はもう一度検索をかけ、申し訳なさそうに顔を上げた。
「該当がありません。姓だけ広げても出ませんね」
「ゼミ名簿を確認しても?」
「もちろんですが……」
画面を見せてもらう。学生番号順に並んだリストの中に、見覚えのある名前はいくつもあった。だが、市川結麻だけが、最初から抜け落ちている。
志津子は別の端末でも確認した。履修登録一覧、課題提出記録、学内ポータル上のメッセージ履歴。どこにも結麻はいなかった。
自分のゼミなのに、所属していた痕跡がひとつもない。
「葦原先生、何かあったんですか」
職員が気遣うように尋ねたが、志津子は曖昧に首を振るしかなかった。
何があったのか、言葉にしようとしても、それが現実の説明として成立しないことくらいはわかっている。昨日まで存在していた学生が、今日になると記録から消えている。そんなことを真顔で言えば、自分のほうが疲労や混乱を疑われる。
それでも、現実はそうなっていた。
窓口を離れたあと、志津子は教員用の個人端末からゼミ関連のファイルを確認した。
フォルダ名はそのまま。学期ごとの配布資料もそのまま。だが、以前ならそこにあったはずの『市川結麻_中間レポート』というファイル名は見当たらない。
代わりに、無機質な名称のPDFが一つ増えていた。
『2028_レポートA』。
開いてみる。
書式も内容も見覚えがある。郷土伝承における呼称の変化を扱った、結麻が確かに準備していた中間報告の構成だ。なのに本文中の名前だけが抜け落ち、提出者名も空欄になっている。
志津子は、ディスプレイに映るその空欄をしばらく見つめた。
削除ではない。抹消だ。
記録が壊れたのではなく、最初からそうであった形へ世界が整え直されている。
*
昼休みの学食は普段よりも空いていた。あるいは、空いて見えるだけなのかもしれない。志津子は食堂へ入らず、研究室へ戻った。湯だけを沸かし、インスタントのコーヒーを紙コップに注ぐ。だが、口をつけても味がしなかった。
机に置いたスマホを、何度も無意味に持ち上げる。
昨夜まではあったはずの履歴。結麻が見せた掲示板ログ。あの画面だけが、なぜかブラウザの通常履歴には残っていない。だが、キャッシュを遡ると、断片だけはまだ見えた。
志津子は、その断片を一つずつ開いていった。
とある巨大掲示板。怪談や土地の噂を扱うスレッドの過去ログ。完全には残っていないが、文字列の一部だけが、読み込めずに白く抜けた画面の上にぽつぽつと浮いている。
その中に、見覚えのあるIDがあった。
(ID:YOI5nX5k)
結麻が見せたものと同じだ。
志津子は、読める箇所を拾っていく。
「“宵鳴坂”って呼ぶうちはまだセーフ。“泣き”に変わるともうアウト」
(ID:YOI5nX5k)
少し下。
「呼んだら呼ばれる。呼ばれたら、今度は向こうが名前を持つ」
(ID:YOI5nX5k)
さらに別の断片。
「地図は嘘つかないんじゃなくて、書かれたものしか持てないだけ。消された名前は、書かれないことで閉じてる」
(ID:YOI5nX5k)
志津子は、画面をスクロールする指を止めた。
“宵鳴坂”と“宵泣き峠”。
読みは同じでも、字が違う。しかもその差異に、“まだセーフ”“もうアウト”という線引きがある。つまり問題なのは単なる呼称の揺れではない。文字と音の組み合わせ自体が、封印の構造に関わっているということだ。
地名そのものが、鍵であり蓋でもある。
それが父の追っていた「封印文化」に近いものだと、志津子は直感した。
地図に載せない。書類に残さない。口にしない。
それは曖昧な迷信ではなく、継続されることでしか維持できない手順だったのかもしれない。
結麻と自分は、その蓋をもう一度持ち上げてしまったのだ。
*
午後、志津子は再び市立図書館へ向かった。
雨は朝より少しだけ弱まっていたが、空は依然として鈍い灰色に閉ざされていた。図書館の二階、郷土資料室の奥で、山上圭介は昨日と同じように静かな顔で出迎えた。
だが、志津子が何も言わないうちに、彼は小さくため息をついた。
「消えましたか」
その一言に、志津子は足を止めた。
「……知っていたんですか」
「ええ。正確には、そうなる可能性が高いと知っていました」
山上の目の下には、昨日より深い影があった。彼もまた昨夜眠れていないのだろう。
志津子は感情を抑えきれず、声を低くした。
「どうして昨日、全部話してくれなかったんですか」
「全部話して止まる人なら、あなたのお父上は失踪していません」
返された言葉は冷たく聞こえたが、声そのものは疲れていた。
山上は資料室の奥から、茶封筒を一つ持ってくる。
「これは本来、遺族にしか渡せないものです。あなたのお父上の個人資料の写し。見せるべきかどうか、昨日の時点では迷っていましたが……もう隠しても意味がないでしょう」
封筒の中には、黄ばんだ便箋と原稿用紙、それから小さなマイクロカセットが一つ入っていた。
最初の数枚には、父の筆跡で表題が書かれている。
『宵鳴坂伝承における命名の力』
『消失事例と地名抹消の相関』
『呼称変化による封印の解離について』
志津子は、息を詰めた。
父は、明らかにここへ辿り着いていた。
しかも単なる採集ではない。結麻の消失と同じ現象を前提に、理屈を組み立てている。
その中の一節に、赤線が引かれていた。
「地名が地図から消されるのは、場所が消えるからではない。
場所が“語られることによって開く”ため、地図から外されるのである」
次の行。
「呼称の差異は重要である。“宵鳴”と“宵泣”は同音だが同義ではない。
前者は現象の記述、後者は現象への参加である」
志津子は、その意味を頭の中で反芻した。
“鳴”は聞こえる音。
“泣”は誰かの感情や主体を伴った声。
つまり、“宵鳴坂”と呼ぶかぎり、それはまだ現象の範疇に留まる。
“宵泣き峠”と呼んだ瞬間、そこには泣く主体が立ち上がる。
名前が、怪異に形を与える。
そういうことなのだろうか。
「山上さん」
志津子は目を上げた。
「結麻のことは、私以外にはもう残っていません」
「ええ」
「でも、私の記憶だけは消えていない」
山上は頷いた。
「最初に強く認識した者だけが残ることがあります。おそらく“問い”を正面から受けた人間です。あなたは、あの場所で学生の名前を呼んだ。そして向こうからは、“お名前は”と返された」
志津子は、指先が冷たくなるのを感じた。
向こうは、結麻ではなかった。あるいは、結麻だけではなかった。
あの問いを返したものが、自分を覚えた。
だから自分の記憶だけが残ったのだとしたら、その事実は救いというより、むしろ選別に近い。
*
研究室へ戻ったあと、志津子は古いカセット再生機を引っ張り出した。
マイクロカセットをセットする。再生ボタンを押すまでに、数秒かかった。ノイズの奥から、遠くで風のような音が鳴る。次いで、父の声が聞こえた。
「……これを聞いているのが志津子なら、私は戻れなかったのだろうな」
喉の奥が、きゅっと縮んだ。
父の声を、こんな形で聞くとは思わなかった。
研究会の録音や昔の家庭用ビデオに残った声とは違う。もっと乾いていて、疲れていて、それでも妙に静かだった。
「名を呼ぶことで、境界は開く。
水は名前を溶かし、声はそれを連れ戻す。
私は……かつて峠で呼ばれた。子供の声で、“おとうさん”と」
そこで小さく息を吐く音がした。
「私は研究者としてそこへ行ったつもりだった。だが、向こうにとっては違ったのだろう。
あちらは、呼んだ。私は応じた。
それだけで、もう十分だった」
ノイズが一度大きく走る。
「もし進むなら、名を呼ぶな。返事をするな。
音に意味を与えるな。
水の向こうから来る問いに、自分の言葉で答えてはいけない」
志津子は、再生機の前で身じろぎ一つできなかった。
父は、ただ調べていただけではない。
当事者だった。
しかも、それを自覚した後で、この記録を残している。
最後のほうで、テープの向こうに別の音が混じった。水音だった。静かで、だが近い。父のすぐそばに何かの水面があるような音。
「……志津子。もしお前が、まだこちら側にいるなら」
そこで父の声がわずかに揺れた。
「名前だけは、取られるな」
録音は、そこで切れた。
再生が止まったあとも、志津子はしばらく動けなかった。
部屋の中は静かなはずなのに、テープの残響なのか、耳の奥でまだ水の揺れる音がしている気がした。
*
記憶は、音に引かれて戻ることがある。
窓の外を見た時、志津子は不意に、自分の中にずっと引っかかっていた断片の続きを思い出した。
幼い頃。
雨の山道。
誰かとはぐれ、木々の間で立ち尽くしていた自分。
靴の中まで濡れて、泣きそうになりながら、水の音のするほうを見ていた。
そこで、声がした。
「……お名前を……」
女とも子供ともつかない、細い声だった。
怖いとは思わなかった。むしろ、ひどく静かな声で、こちらが答えるのを待っていた。
幼い自分は、たぶん答えかけた。
「あしはら、しづ──」
その瞬間、別の声が山の向こうから飛んできた。
「しづこ!」
母の声だった。
鋭く、はっきりした、自分の知っている世界の声。
振り返った先に母が見えて、志津子はそちらへ走った。足を取られて転びかけた記憶まで、いまは妙に鮮明だ。
あの時、自分は“こちら側の名前”に呼び戻されたのだ。
もし母の声がなかったらどうなっていたのか。
想像した瞬間、全身の血が引いた。
結麻には、その呼び戻す声がなかった。
*
夕方、研究室の窓に、雨粒とは違うものが一つ当たった。
とん、と控えめな音。
志津子が顔を上げる。
外はもう暗い。ガラスには室内の自分がうっすら映り、その向こうに濡れたキャンパスが見える。何かがいるようには見えない。
だが、耳を澄ますと、雨音の裏に、もう一つの細い音が混じっていた。
聞き覚えのある、水を撫でるような響き。
そして、その奥から。
「……お名前を……」
志津子は、息を止めた。
声ははっきりとは聞こえない。雨の隙間に紛れて、あるかないかのところを漂っている。けれど、意味だけはわかった。
向こうは、自分を覚えている。
結麻の消失は終わりではない。
むしろ、自分に対して問いが向いたところから、本当の始まりなのだ。
窓の外では、雨がまた少しだけ強くなっていた。
街灯の光に照らされた水筋が、細い線となって斜めに流れている。
志津子はゆっくりと窓から目を離し、机の上の父のノートに手を置いた。
返事はしない。
呼ばれても、答えない。
それでも、もう知らないふりはできない。
世界から一人の名が消えた。
次に消えるものが何なのか、自分はまだ知らない。
だが少なくとも、あの声はまた来る。
雨が降るたびに。
水音が近づくたびに。
誰かが名前を問われるたびに。
志津子は窓の外の闇を見たまま、小さく息を吐いた。
そして、自分でも気づかないほど低い声で、ただ一言だけ呟いた。
「……私は、覚えている」
その言葉に応えるように、ガラスの向こうで水音がひときわ深く揺れた。




