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宵泣き峠、雨の子守唄  作者: 月白ふゆ


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第3章 誰も知らない地名

 雨は、翌朝になっても止まなかった。


 夜のうちに一度弱まったはずなのに、明け方からまた細かく降り始め、大学へ向かう道路も歩道も薄い水膜をまとっていた。傘を差して歩く学生たちの足元で、舗装の継ぎ目にたまった水が小さく跳ねる。その音が、志津子にはひどく遠く聞こえた。


 現実の輪郭だけが一枚薄くなっている。


 そんな感覚が、朝から続いていた。


 前夜、自分は確かに見た。旧道の先、朽ちた木枠の向こうに立つ市川結麻を。呼びかけに対して返ってきたのは、意味の取りづらい問いではない。はっきりとした言葉だった。


 ──「お名前は……?」


 それは挨拶でも確認でもない。

 あの場所では、“名前”そのものが何かの受け渡しになっている。


 そして結麻は消えた。


 ただ姿を見失ったのではない。いま大学へ向かう道の途中でさえ、何度もスマホを確認したが、結麻の連絡先も、メッセージも、昨夜の位置共有の履歴も、どこにもなかった。消去した形跡すらない。最初から存在しなかったかのような、滑らかな空白だけが残っていた。


 志津子は傘の柄を握り直した。


 大学の校門をくぐると、見慣れたはずの風景がわずかに違って見えた。講義棟へ向かう石畳の色が、雨のせいだけではなく一段暗い。掲示板の位置が、昨日より数十センチずれているような気がする。植え込みの形も、何かを見落としているような、妙に整いすぎた輪郭をしていた。


 思い込みだと言われれば、それまでだ。


 だが、結麻の名が消えたあとでは、その“わずか”が看過できなかった。



 教務課の窓口で、志津子は必要以上に落ち着いた声を出していた。


「市川結麻という学生の履修情報を確認したいのですが」


 若い職員は端末を操作し、首を傾げた。


「……市川、ですか。下の名前は」


「結麻。二年生で、郷土伝承ゼミの所属です」


 職員はもう一度検索をかけ、申し訳なさそうに顔を上げた。


「該当がありません。姓だけ広げても出ませんね」


「ゼミ名簿を確認しても?」


「もちろんですが……」


 画面を見せてもらう。学生番号順に並んだリストの中に、見覚えのある名前はいくつもあった。だが、市川結麻だけが、最初から抜け落ちている。


 志津子は別の端末でも確認した。履修登録一覧、課題提出記録、学内ポータル上のメッセージ履歴。どこにも結麻はいなかった。


 自分のゼミなのに、所属していた痕跡がひとつもない。


「葦原先生、何かあったんですか」


 職員が気遣うように尋ねたが、志津子は曖昧に首を振るしかなかった。


 何があったのか、言葉にしようとしても、それが現実の説明として成立しないことくらいはわかっている。昨日まで存在していた学生が、今日になると記録から消えている。そんなことを真顔で言えば、自分のほうが疲労や混乱を疑われる。


 それでも、現実はそうなっていた。


 窓口を離れたあと、志津子は教員用の個人端末からゼミ関連のファイルを確認した。

 フォルダ名はそのまま。学期ごとの配布資料もそのまま。だが、以前ならそこにあったはずの『市川結麻_中間レポート』というファイル名は見当たらない。


 代わりに、無機質な名称のPDFが一つ増えていた。

 『2028_レポートA』。


 開いてみる。

 書式も内容も見覚えがある。郷土伝承における呼称の変化を扱った、結麻が確かに準備していた中間報告の構成だ。なのに本文中の名前だけが抜け落ち、提出者名も空欄になっている。


 志津子は、ディスプレイに映るその空欄をしばらく見つめた。


 削除ではない。抹消だ。


 記録が壊れたのではなく、最初からそうであった形へ世界が整え直されている。



 昼休みの学食は普段よりも空いていた。あるいは、空いて見えるだけなのかもしれない。志津子は食堂へ入らず、研究室へ戻った。湯だけを沸かし、インスタントのコーヒーを紙コップに注ぐ。だが、口をつけても味がしなかった。


 机に置いたスマホを、何度も無意味に持ち上げる。


 昨夜まではあったはずの履歴。結麻が見せた掲示板ログ。あの画面だけが、なぜかブラウザの通常履歴には残っていない。だが、キャッシュを遡ると、断片だけはまだ見えた。


 志津子は、その断片を一つずつ開いていった。


 とある巨大掲示板。怪談や土地の噂を扱うスレッドの過去ログ。完全には残っていないが、文字列の一部だけが、読み込めずに白く抜けた画面の上にぽつぽつと浮いている。


 その中に、見覚えのあるIDがあった。


 (ID:YOI5nX5k)


 結麻が見せたものと同じだ。


 志津子は、読める箇所を拾っていく。


 「“宵鳴坂”って呼ぶうちはまだセーフ。“泣き”に変わるともうアウト」

 (ID:YOI5nX5k)


 少し下。


 「呼んだら呼ばれる。呼ばれたら、今度は向こうが名前を持つ」

 (ID:YOI5nX5k)


 さらに別の断片。


 「地図は嘘つかないんじゃなくて、書かれたものしか持てないだけ。消された名前は、書かれないことで閉じてる」

 (ID:YOI5nX5k)


 志津子は、画面をスクロールする指を止めた。


 “宵鳴坂”と“宵泣き峠”。


 読みは同じでも、字が違う。しかもその差異に、“まだセーフ”“もうアウト”という線引きがある。つまり問題なのは単なる呼称の揺れではない。文字と音の組み合わせ自体が、封印の構造に関わっているということだ。


 地名そのものが、鍵であり蓋でもある。


 それが父の追っていた「封印文化」に近いものだと、志津子は直感した。


 地図に載せない。書類に残さない。口にしない。

 それは曖昧な迷信ではなく、継続されることでしか維持できない手順だったのかもしれない。


 結麻と自分は、その蓋をもう一度持ち上げてしまったのだ。



 午後、志津子は再び市立図書館へ向かった。


 雨は朝より少しだけ弱まっていたが、空は依然として鈍い灰色に閉ざされていた。図書館の二階、郷土資料室の奥で、山上圭介は昨日と同じように静かな顔で出迎えた。


 だが、志津子が何も言わないうちに、彼は小さくため息をついた。


「消えましたか」


 その一言に、志津子は足を止めた。


「……知っていたんですか」


「ええ。正確には、そうなる可能性が高いと知っていました」


 山上の目の下には、昨日より深い影があった。彼もまた昨夜眠れていないのだろう。


 志津子は感情を抑えきれず、声を低くした。


「どうして昨日、全部話してくれなかったんですか」


「全部話して止まる人なら、あなたのお父上は失踪していません」


 返された言葉は冷たく聞こえたが、声そのものは疲れていた。


 山上は資料室の奥から、茶封筒を一つ持ってくる。


「これは本来、遺族にしか渡せないものです。あなたのお父上の個人資料の写し。見せるべきかどうか、昨日の時点では迷っていましたが……もう隠しても意味がないでしょう」


 封筒の中には、黄ばんだ便箋と原稿用紙、それから小さなマイクロカセットが一つ入っていた。


 最初の数枚には、父の筆跡で表題が書かれている。


 『宵鳴坂伝承における命名の力』

 『消失事例と地名抹消の相関』

 『呼称変化による封印の解離について』


 志津子は、息を詰めた。


 父は、明らかにここへ辿り着いていた。

 しかも単なる採集ではない。結麻の消失と同じ現象を前提に、理屈を組み立てている。


 その中の一節に、赤線が引かれていた。


 「地名が地図から消されるのは、場所が消えるからではない。

  場所が“語られることによって開く”ため、地図から外されるのである」


 次の行。


 「呼称の差異は重要である。“宵鳴”と“宵泣”は同音だが同義ではない。

  前者は現象の記述、後者は現象への参加である」


 志津子は、その意味を頭の中で反芻した。


 “鳴”は聞こえる音。

 “泣”は誰かの感情や主体を伴った声。


 つまり、“宵鳴坂”と呼ぶかぎり、それはまだ現象の範疇に留まる。

 “宵泣き峠”と呼んだ瞬間、そこには泣く主体が立ち上がる。


 名前が、怪異に形を与える。


 そういうことなのだろうか。


「山上さん」


 志津子は目を上げた。


「結麻のことは、私以外にはもう残っていません」


「ええ」


「でも、私の記憶だけは消えていない」


 山上は頷いた。


「最初に強く認識した者だけが残ることがあります。おそらく“問い”を正面から受けた人間です。あなたは、あの場所で学生の名前を呼んだ。そして向こうからは、“お名前は”と返された」


 志津子は、指先が冷たくなるのを感じた。


 向こうは、結麻ではなかった。あるいは、結麻だけではなかった。

 あの問いを返したものが、自分を覚えた。


 だから自分の記憶だけが残ったのだとしたら、その事実は救いというより、むしろ選別に近い。



 研究室へ戻ったあと、志津子は古いカセット再生機を引っ張り出した。


 マイクロカセットをセットする。再生ボタンを押すまでに、数秒かかった。ノイズの奥から、遠くで風のような音が鳴る。次いで、父の声が聞こえた。


「……これを聞いているのが志津子なら、私は戻れなかったのだろうな」


 喉の奥が、きゅっと縮んだ。


 父の声を、こんな形で聞くとは思わなかった。

 研究会の録音や昔の家庭用ビデオに残った声とは違う。もっと乾いていて、疲れていて、それでも妙に静かだった。


「名を呼ぶことで、境界は開く。

 水は名前を溶かし、声はそれを連れ戻す。

 私は……かつて峠で呼ばれた。子供の声で、“おとうさん”と」


 そこで小さく息を吐く音がした。


「私は研究者としてそこへ行ったつもりだった。だが、向こうにとっては違ったのだろう。

 あちらは、呼んだ。私は応じた。

 それだけで、もう十分だった」


 ノイズが一度大きく走る。


「もし進むなら、名を呼ぶな。返事をするな。

 音に意味を与えるな。

 水の向こうから来る問いに、自分の言葉で答えてはいけない」


 志津子は、再生機の前で身じろぎ一つできなかった。


 父は、ただ調べていただけではない。

 当事者だった。

 しかも、それを自覚した後で、この記録を残している。


 最後のほうで、テープの向こうに別の音が混じった。水音だった。静かで、だが近い。父のすぐそばに何かの水面があるような音。


「……志津子。もしお前が、まだこちら側にいるなら」


 そこで父の声がわずかに揺れた。


「名前だけは、取られるな」


 録音は、そこで切れた。


 再生が止まったあとも、志津子はしばらく動けなかった。

 部屋の中は静かなはずなのに、テープの残響なのか、耳の奥でまだ水の揺れる音がしている気がした。



 記憶は、音に引かれて戻ることがある。


 窓の外を見た時、志津子は不意に、自分の中にずっと引っかかっていた断片の続きを思い出した。


 幼い頃。

 雨の山道。

 誰かとはぐれ、木々の間で立ち尽くしていた自分。

 靴の中まで濡れて、泣きそうになりながら、水の音のするほうを見ていた。


 そこで、声がした。


 「……お名前を……」


 女とも子供ともつかない、細い声だった。

 怖いとは思わなかった。むしろ、ひどく静かな声で、こちらが答えるのを待っていた。


 幼い自分は、たぶん答えかけた。


 「あしはら、しづ──」


 その瞬間、別の声が山の向こうから飛んできた。


 「しづこ!」


 母の声だった。


 鋭く、はっきりした、自分の知っている世界の声。

 振り返った先に母が見えて、志津子はそちらへ走った。足を取られて転びかけた記憶まで、いまは妙に鮮明だ。


 あの時、自分は“こちら側の名前”に呼び戻されたのだ。


 もし母の声がなかったらどうなっていたのか。

 想像した瞬間、全身の血が引いた。


 結麻には、その呼び戻す声がなかった。



 夕方、研究室の窓に、雨粒とは違うものが一つ当たった。


 とん、と控えめな音。


 志津子が顔を上げる。

 外はもう暗い。ガラスには室内の自分がうっすら映り、その向こうに濡れたキャンパスが見える。何かがいるようには見えない。


 だが、耳を澄ますと、雨音の裏に、もう一つの細い音が混じっていた。


 聞き覚えのある、水を撫でるような響き。


 そして、その奥から。


「……お名前を……」


 志津子は、息を止めた。


 声ははっきりとは聞こえない。雨の隙間に紛れて、あるかないかのところを漂っている。けれど、意味だけはわかった。


 向こうは、自分を覚えている。


 結麻の消失は終わりではない。

 むしろ、自分に対して問いが向いたところから、本当の始まりなのだ。


 窓の外では、雨がまた少しだけ強くなっていた。

 街灯の光に照らされた水筋が、細い線となって斜めに流れている。


 志津子はゆっくりと窓から目を離し、机の上の父のノートに手を置いた。


 返事はしない。

 呼ばれても、答えない。

 それでも、もう知らないふりはできない。


 世界から一人の名が消えた。

 次に消えるものが何なのか、自分はまだ知らない。


 だが少なくとも、あの声はまた来る。


 雨が降るたびに。

 水音が近づくたびに。

 誰かが名前を問われるたびに。


 志津子は窓の外の闇を見たまま、小さく息を吐いた。


 そして、自分でも気づかないほど低い声で、ただ一言だけ呟いた。


「……私は、覚えている」


 その言葉に応えるように、ガラスの向こうで水音がひときわ深く揺れた。

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