TRACK-3 烽火を上げよ 5
まもなくまもなく午後九時を迎える、アトランヴィル・シティ第九区イーストバレー。
区内随一の繁華街が広がるこの地域では、これからが最も賑やかな時間となる。バーやクラブが立ち並ぶ通りは、秋夜の寒さをものともしない人々の喧騒に満ちていた。
そんなやかましい街の中、道を一本二本入り込んだ裏手で、野蛮な物音が響いたとしても、ほとんど気にかけられない。しょっちゅう酔っ払いやヤクザ者同士が喧嘩しているのだから、誰もいちいちかまっていられないのだ。
だから気づく者もいなかった。目と鼻の先にある暗がりで、化け物が暴れ回っていることに。
もはや廃墟と呼ぶことさえためらわれるほど、荒れ果てた建物。地面は雑草に覆われ、外壁はほとんど崩れ落ち、鉄骨があらわになっている。天井は大穴が開き、星のない夜空が丸見えだ。
古い雑居ビルとビルの間に、ひっそりと打ち捨てられたそこは、もとは倉庫として使われていたらしい。が、そんなことはどうでもいい事実だ。
レジーニにとっての事実とは、ここを棲み処にしている化け物と対峙している。それだけである。
ひゅう、と音を立てて振りかざされた大ぶりの鎌が、レジーニに襲いかかる。両手で持った〈ブリゼバルトゥ〉で鎌を弾き、返す刀で胴体を斬りつけた。メメントが呻くような声を上げてのけぞった。
弾き返した鎌が、今度は反対方向から、横薙ぎに振られた。レジーニはこの攻撃も剣で防ぐと、体勢を変えつつ受け流し、メメントの脇に一撃をくらわせた。
振りぬかれた蒼い刀身から、氷のつぶてが舞い散る。メメントに刻みつけた傷口がたちまち凍りつき、肉をえぐった。
メメントが再び絶叫をあげる。だが口が塞がれているために、くぐもった声しか出なかった。
アゴニーと命名されているこのメメントは、二足歩行性で、三対――つまり六本の腕を持っている。
その六本の腕はいびつに歪み、一対が頭を抱え、一対が口を覆い、最後の一対は首を絞めていた。そのせいで、どんな声もこもって聞こえるのだ。
すべての腕で我が身を縛めるアゴニーの武器は、肩甲骨あたりから虫の足のように突き出た鎌だ。骨が変形したものとおぼしき鎌は、刃渡りが一メートルほどもある。凶悪極まりない形状だが、攻撃方法は振り回すだけだ。
アゴニーは過去に何度か退治したことがある。レジーニにとっては、さほど苦にならない相手だった。
レジーニに斬られてのけぞったアゴニーだが、そのまま上半身を百八十度ひねって、反対側から鎌を振ってきた。
遠心力も加わって威力が増した一撃を、レジーニはブリゼバルトゥで受け止める。重い。後方に押された。
アゴニーがひねった上半身を逆回転。胴体を正面に戻しながら、鎌攻撃を繰り返す。レジーニは屈んでかわし、アゴニーの背後へ回り込んだ。
厄介な鎌を斬り落とそうと、肉の盛り上がった背部を狙って剣を振る。そのとき、アゴニーの首を絞めていた腕が、首から離れて背後に向きを変え、ブリゼバルトゥの刀身を掴んだ。
アゴニーが腕を離すのを見るのは、今回が初めてだった。
「その腕、動かせたのか。今まで隠してたなんて、水臭いじゃないか」
アゴニーはレジーニの軽口に応えるように、今度は口を覆っていた腕を伸ばしてきた。
「だが、僕の剣に触れるのは許さない」
レジーニは、掴みかかろうとするアゴニーの腕を避け、ブリゼバルトゥの具象装置を起動させた。
蒼い機械剣から、冷気の波動が放出され、刀身を握るアゴニーの腕を瞬時に凍りつかせる。レジーニが剣を握り直して引き抜くと、メメントの腕は音を立てて砕け散った。
口を塞いでいた腕が離れているせいで、今まで聞いたことがないアゴニーの金切り声がほとばしる。
「近所迷惑だぞ、黙っていろ」
ブリゼバルトゥを振り上げた勢いを利用し、もう一対の腕も斬り落とした。これでアゴニーには、かなりのダメージが蓄積されたはずである。しかし――。
(妙だな。弱っているふうには見えない)
攻撃に対する痛苦は感じているようだが、動きに衰えが見られないのだ。それほど体力のあるメメントではないはずなのに。
アゴニーの最後に残った腕――頭を抱えていた一対が、頭部から離れる。ゆっくりと振り返ったメメントが、ついに素顔を現した。
血管が浮き出た顔には両目がなく、眼窩がむき出しになっている。鼻は削がれて、二つの穴が晒されていた。顔の端まで引き裂かれたような大きな口から乱杭歯が見え、さらにはうねうねと蠢く細い触手が何本も垂れ下がっていた。
「思ったより見られる顔だ。少なくともお前よりひどいメメントなら、僕はいくらでも見てきたぞ」
レジーニの誹謗に憤慨したかのように、大口を開けて吠えるアゴニー。背中の鎌を掲げ、めちゃくちゃに振り回し始めた。
勢いにまかせた攻撃は大雑把で、動きは杜撰だ。だが、さきほどより俊敏性が増しており、レジーニはブリゼバルトゥで防戦する一方だった。
(なんだ? 急にスピードが上がった。腕を斬られて身軽に? いや、まさかあの程度で)
レジーニの剣とアゴニーの鎌。双方の刃が交差するたび、甲高い金属音とともに、氷の粒と火花が散り咲く。
アゴニーは鎌を繰り出しながら、レジーニを掴もうと両腕を突き出してくる。剣で鎌をいなしつつ、腕に捕まらないよう身をかわすが、三方からの攻撃をさばくのはさすがに至難だ。レジーニは徐々に後退させられていった。
スーツのあちこちが鎌に引き裂かれる。何度か切っ先が肌まで届き、冷たい空気中に鮮血を散らせた。
アゴニーにここまで苦戦させられたことはなかった。この個体は、今まで屠ってきた同族より、明らかにタフだ。
(交戦を長引かせてはまずい)
いつになく、レジーニは焦りを感じた。
冷気の出力を上げ、アゴニーの腕や胴を斬りつけた。だが相手は、氷結の刃などものともせず、どんなに切り裂かれようが迫ってくる。このままでは、互いの体力が尽きるまで泥仕合だ。
一瞬、ある人物の顔が、脳裏をよぎった。
いつもなら、あり余る元気で、威勢よく敵の懐へ飛び込んでいっただろう、隣にいるはずの青年。
不意に彼の顔を思い浮かべてしまったことを、レジーニは驚き、そして苛立った。その動揺が生んだほんのわずかな隙が、メメントに好機を与えてしまった。レジーニの両腕がアゴニーに捕らわれたのだ。
「しまった!」
メメントの醜悪な顔面が、勝ち誇ったように歪む。レジーニの右腕が捻り上げられ、ブリゼバルトゥが地面に零れ落ちた。
激痛が右腕を襲う。悲鳴など上げてなるものかと、レジーニは歯を食いしばった。
左の視界の端で、何かが光る。目だけを動かして、その正体を探る。切っ先が。
鎌の切っ先が。すぐそこまで迫っていた。
――ああ、これは。
――これはだめだ。
頭を直撃する。もう避けられない。
このまま死ぬのか。
自分に与えられた死にしては、やけにあっさりしている。いや、所詮は裏稼業者の一人にすぎないのだから、こんなものだろう。
さんざん狩ってきたメメントに、最期は狩られるのだ。
そんなものだ。
それにしても、鎌が届くまで、妙に時間がかかっている。これが走馬灯というやつの効果なのだろうか。実際には一瞬の出来事なのに、時間がゆっくりと流れているように感じる。
レジーニはアゴニーの鎌を凝視した。今にもこめかみに突き刺さり、眼球もろとも頭蓋骨と脳を真っ二つにしようとしている。
だが、一向に刃が到達しない。
よく見ると、レジーニを狙って鎌を振った格好のまま、アゴニーの動きが止まっていた。
いや、止まっているのではない。少しずつだが、切っ先が近づきつつある。その動きがあまりにも遅いので、止まっているように見えるのだ。
(なんだ? 何が起きている?)
疑問が脳裏をよぎるが、同時に生存本能も働いた。動きが緩慢とはいえ、このまま黙って鎌の刃先が到達するのを待つつもりはない。
レジーニは両腕を掴まれたまま、手首だけを動かし、アゴニーの腕を掴みかえした。そして自分の方に引っ張り寄せつつ、右足を振り上げ、メメントの胸部を蹴りつけた。
途端、弛緩していた時が急速に動き出した。レジーニの一蹴を受けたアゴニーが、凄まじい勢いで後方に吹き飛んだのだ。
メメントから自由になったレジーニは、自身の蹴りが、それほどの威力を生むとは思わず、目を瞬かせて倒れた敵を見つめた。しかしすぐに頭を切り替え、ブリゼバルトゥを拾い上げる。
アゴニーへ駆け寄りながら具象装置を起動させ、剣先を喉に突き立てると同時に出力を上げる。たちまち冷気がメメントを凍りつかせ、剣を引き抜いた瞬間、頭部は木っ端と砕けた。
残されたアゴニーの胴体が、ゆっくりと倒れ伏す。臭気を孕んだ靄が燻り、分解蒸発が始まった。
「ハァ……」
レジーニは荒れた呼吸を整えようと、大きく息をついた。身体が熱い。額に汗が滲んでいる。吐く息が白く、冷えた秋風に溶けた。
消えゆくメメントを見つめながら、先ほど起きた奇妙な瞬間を思い返す。
何の前触れもなく、突然緩くなったアゴニーの動き。ありえないほどの威力を発揮した自分の蹴り。
少し前、バージル・キルチャーとも話したが、今夜のアゴニーとの戦いではっきりした。メメントは確実に強くなっている。
メメントにしろ、自分自身にしろ、これまでと状況が変わりつつある。次に何が起こるのか知れないが、逆に言えば、何が起きてもおかしくはない。
「まったく……」
どっと疲れが押し寄せてきた。比喩ではなく、事実身体が重い。先ほどの奇妙な現象の反動だろうか。
頭が揺れて、世界がぐるりと回る。ふらつく足元を支えようと、ブリゼバルトゥを地面に突き立てて寄りかかった。
――何やってんだよ、大丈夫か?
あいつの声が聴こえた気がした。
――だらしねーな、ほら、肩貸してやるから。
たった一年と少しだ。
一人で活動していた期間の方が長いし、一人での戦い方も心得ている。
コンビを組んで、たった一年と少し。
いつの間にか、隣に誰かが並んでいることを、背中を守ってくれる相手がいることを、当たり前のように思っていた。
いつからそんなふうに、頼るようになっていたのだろうか。
今夜は一段と冷える。
エヴァンがアルフォンセとともに街から消えて、一週間が過ぎていた。




