TRACK-3 烽火を上げよ 6
翌朝の目覚めは最悪だった。寝酒も飲んでいないのに、二日酔いのように頭が重い。目の奥も痛む。夕べの疲れがとれていないのかもしれない。
さもありなん。昨晩仕事を終えたレジーニは、帰宅するやシャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだのだ。ジャケットを脱ぎ、ネクタイは外していたが、それ以外は着たまま眠ったので、シャツとスラックスがしわくちゃになってしまった。
目覚めて、自分がどんな状態でベッドに寝ているか知ったレジーニは、情けなくて不貞寝したい気分だった。
どんなに疲れた日でも、シャワーで戦いの汗を流し、着替えて寝床に就いていたのに、こんなだらしない格好で朝を迎えたのは初めてだ。
それほど夕べは疲労困憊していた。
めったにないほど疲れていたが、どうやって帰ってきたかくらいは、ちゃんと覚えている。重い足を引きずるように歩き、なんとか愛車までたどり着くと、自宅マンションのあるリバーヴィルまで自動運転で帰ったのだ。
「まったく、最悪な気分だ」
ベッドに横たわったまま独りごちてから、のろのろと起き上がる。シャワーを浴びて、シワのない部屋着に着替え、ようやく頭がすっきりした。だが、食欲はあまりない。
コーヒーを淹れ、昨晩のアゴニーの討伐記録を、異法者のデータベースにアップロードする。記録を打ち込むために、討伐の詳細を思い返すなかで、あの奇妙な現象についても考えた。
アゴニーに捕らわれ、鎌の先端が目と鼻の先に迫り、死を覚悟した瞬間、突然アゴニーの動きが緩慢になった。緩慢、という表現ではまだ足りないくらい、あまりにも緩やかだった。
アゴニー自身の動きの変化というよりも、あれはむしろ、
(まるで、時間の流れが遅くなったかのようだった)
そんなことがあるだろうか。アゴニーに備わっていた、知られざる能力だったのか? しかし、時間の流れを遅くすることで、かえって自身を窮地に立たせるような能力に、何の意味があるだろう。
メメントの能力ではなかったのなら――。
つらつらと考えながらキーボードを打っていたレジーニは、はたと手を止め、その掌を見つめた。
(メメントの能力ではなかったのなら……)
昨夜の戦いで負った傷は、痕も残らず、すべて塞がっている。もはやこの異常な治癒力に対する驚きも、薄れつつあるのが悩ましかった。
肉体に異変が起きているのは、メメントだけではない。そして、その異変が進行しているのも、メメントだけではない。
月曜日のランチタイムは、一週間のうちでもっとも〈パープルヘイズ〉が忙しくなる時間帯だ。日曜日が定休日のため、店の味に飢えた常連客が押し寄せるからだろう。
レジーニは定位置のカウンター席から、慌ただしく動き回るドミニクやヴォルフを見ていた。
本日のランチメニューは、ほうれん草とたまねぎの入ったマカロニ&チーズ、ベーコンとキャベツのスープ、マッシュパンプキン。どの家庭でも作られている定番の献立だ。庶民的だが親しみ深い家庭料理こそ、〈パープルヘイズ〉の魅力であり、お客に愛される所以である。
ランチのセットは、レジーニの目の前でも、おいしそうな香りを漂わせていた。店に入ってきたレジーニを見るなり、ヴォルフが眉間にシワを寄せ、いつもの席に座らせると、問答無用で「食え」とランチプレートを差し出したのだ。
「まだ何も注文してないが?」
「今お前に必要なのは、これだ」
ヴォルフは太い指でランチプレートを指す。
「昔みてェな面してやがる。いいからメシを食え。残すなよ」
レジーニの返事を待たず、熊店主はキッチンに戻っていった。食器を積んだトレーを持つドミニクが、レジーニに目配せしてヴォルフのあとに続く。
二人と入れ替わりに、ランチプレートを両手に持った若い男が、キッチンから出てきた。レジーニもよく知る顔で、〈プレイヤーズ・ハイ〉のボーイの一人だ。
以前はよく〈プレイヤーズ・ハイ〉のボーイたちが、交代でランチタイムの手伝いに来ていたが、ここしばらくはその必要がなかった。エヴァンがヴォルフのもとで働くようになったからだ。
レジーニはランチプレートに目を落とした。実に美味しそうだが、若干、量が多い気がする。腹を空かせた男子学生にふるまうくらいのボリュームだ。
結局今朝は、何も食べなかった。ここの熊店主には、他人の胃が空かどうか見抜く眼力でもあるのだろうか。
マカロニ&チーズをフォークでひとすくい、口に入れる。料理の腕には自信があるが、ヴォルフ相手では負けを認めるしかない。
このランチプレートをたいらげるなら、トレーニングメニューも増やさなければ。
レジーニの体調を気遣ってくれるヴォルフだが、それ以上に、姿を消したエヴァンとアルフォンセを案じていることだろう。
二人が〈VERITE〉に連れ去られた、と報告したとき、ヴォルフが忌々しげに、
「さすがにジェラルドの威光も、よそからきたテロ集団には通じねェか……」
と、呟いたのをレジーニは聞き漏らさなかった。
ヴォルフの言葉の意味は、アルフォンセに関係する。
サイファー・キドナが引き起こした〈スペル事件〉を解決したあと、アトランヴィル・シティ裏社会の〈長〉ジェラルド・ブラッドリーは、アルフォンセの身の安全を保障する、と言った。
誰あろう帝王が請け負ったのである。ブラッドリーの統治下にあるすべての領域において、アルフォンセが不逞の輩に脅かされることはない。
しかし、その公約がまかり通るのは、裏と表、両方の“社会”であればだ。
社会に属さない私設集団が、そんな公約を知るはずもないし、知ったところで律儀に守るような連中であれば、そもそも誘拐などしない。
ヴォルフは〈窓口〉という仕事柄、知り合いの裏稼業者が何人も行方をくらませ、生死もわからずじまい、などという状況には慣れているだろう。
だがそれが、目をかけている若者とその最愛の恋人であるならば、話は違う。口にも顔にも出しはしないが、深憂を胸に秘めているに違いないのだ。
今となっては一介の〈窓口〉でしかない自分に、打てる手だてはない。それをヴォルフは痛感しているのだろうと、レジーニは彼の心境を思った。
エヴァンがしばらく姿を見せないことを、〈パープルヘイズ〉の常連たちも当然訝しんだ。
いまやエヴァンは、店になくてはならない存在で、なじみの客たちからは孫や息子、弟のように可愛がられている。
そんなエヴァンが二日も三日も店にいないので、どうかしたのか、具合でも悪くしたのか、よもやクビか、とヴォルフは何度も訊かれたという。
まさかテロリストまがいの組織にかどわかされた、などと言えるはずもなく。「実家の母親が足を怪我したので、しばらく帰省している」と、事実に基づく部分が一ミリもない作り話でかわしている。
こうなると、実家はどこか、怪我の原因は何か、いつ帰ってくるのか、などの質問が投げられることになる。そこは長年、裏社会の住人たちをまとめてきたヴォルフには慣れたもので、適当にあしらって納得させているようだ。
アルフォンセの勤務先である図書館には、ドミニクが親戚を装って、体調不良なので休ませてほしい、と連絡している。
だが、こうしたごまかしが通用しない相手もいた。エヴァンとアルフォンセの隣人、ジェンセン家の三人である。
ジェンセン老夫妻は、二人が誰にも何も言わずに一週間も帰らないなど、非常事態でしかありえないとわかっていた。
そしてマリーは、祖父母以上に、この異変に敏感だった。なぜなら彼女にとって、エヴァンとアルフォンセがいなくなるという事件は、二度目のことだからだ。
サイファー・キドナが引き起こした〈スペル事件〉の際、エヴァンとアルフォンセは、彼の手勢に強制連行された。アパートの住人全員を人質にとられたような状況下であったため、抵抗できなかったのだ。
そのときマリーは、自宅のドアの隙間から、連行の様子を見ており、レジーニに連絡してくれたのである。
以前そのような出来事があったせいで、今回の失踪もただごとではない、とマリーが勘づいたのは当然の帰結だった。
エヴァンとアルフォンセが、そろって何日も姿を見せない。またよくないことに巻き込まれているのではないか。何か知っているなら教えてほしい。
数日前、レジーニの携帯端末にマリーから電話がかかり、切なげな声でそう尋ねられた。
彼女はもう中学生で、そもそも頭がいい。過去の経験から鑑みても、はぐらかしたところで承知してくれるとは思えなかった。
やむなくレジーニは、真実の一部だけを明かした。
「詳しくは話せないが、たしかに、ちょっと厄介なことに巻き込まれている。でも、必ず帰ってくるから、心配しなくていい」
『それって、前のときみたいに、レジーニさんが連れて帰ってきてくれるってこと?』
「ああ。二人が動けない状況なら、僕が連れて帰る」
『それ以上は、あたしは知らない方がいいのね?』
「すまない」
やや間をおいて、マリーが続けた。
『わかった。レジーニさんを信じる。だから、これ以上はもう訊かない』
賢い子だ。この件への深入りは、自分にとっても祖父母にとっても、そしてエヴァンやレジーニにとっても得策ではないと理解している。
電話の最後にマリーは、エヴァンがいない間の亀たちの世話を引き受けた。それから、祖父母たちも心配しているのでうまく言っておく、とも。
堅気の少女にまで気を遣わせてしまったことに、裏稼業者としてふがいなさを感じた。
何より焦りもある。
この一週間、あらゆる手を尽くして、エヴァンとアルフォンセの行方を捜しているが、進捗は芳しくないのである。
ママ・ストロベリーのおかけで、二人を乗せた〈VERITE〉の車が、第八区のどこかの海岸線に向かい、船に乗り替えたことまではわかったが、そこから先の探索は、ACUに協力を仰いだ。
正確には、ACU東支部のラボにいるガルデ、そしてリカである。
リカは今、ACUのラボで、自分の能力の研究解明とともに、能力の制御法習得に励んでいる。その成果には、目覚ましいものがあるようだ。
彼女は〈マインド・ダイブ〉なる技術を得たという。目に見えるこの世界と並行して存在する精神面世界エスパスに、自分の意識を潜らせ、モルジットや生体パルスを観測することが可能になったのだ。
リカはこの能力を駆使し、エヴァンとアルフォンセが、ソレムニア海外洋を航行する、軍艦規模の大型船に乗せられたことを突き止めた。
エヴァンなら、エスパス内を漂う精神体状態の自分に気づくはずだ。そう思ったリカは、エヴァンに何度も呼びかけた。
しかしその呼びかけに応えたのは、エヴァンの姿をした別の何者かだった。
つまりラグナ・ラルスである。
エヴァンとアルフォンセの捜索協力を要請したその日のうちに、レジーニはリカとガルデから、ビデオ電話でそのような報告を受けた。
リカはエヴァンを連れ戻せなかったことを、レジーニに詫びた。もちろん、彼女に謝ってもらうことなどひとつもない。むしろリカがいればこそ、エヴァンたちの居場所がわかったのだから、こちらが礼を言うべきなのである。
『私、エヴァンへの呼びかけを続けてみる。今はラグナが主導権を握ってるけど、まだいるはずなの、同じ身体の奥底の方に』
携帯端末画面の中、決意を新たにしたリカが言った。
『エヴァンのパルスの波長はもう把握したから、これから接触自体は簡単になると思うの。だけど、問題はラグナ』
「リカ、あまり無茶はしないでくれ。ラグナに近づくのは危険だ」
『でも、ラグナに近づかないと、エヴァンにも近づけないのよ。力の使い過ぎなら心配しないで、頼もしいサポートがついてるんだから』
リカは、一緒に端末画面におさまっているガルデを見た。
『それに、なんとなく、ラグナは私に危害を加えるつもりはない気がするの』
危ないと感じたらすぐに逃げる、決して無謀な真似はしないから。そう言ってリカは、マインド・ダイブによる追跡とエヴァンへの接触を続行する、と断言した。
リカには危険を冒してほしくない。だが、彼女の力がなければ、エヴァンとアルフォンセの奪還が、今より困難になるのは必定だった。
レジーニはリカに、よくよく用心することを念押しし、ガルデには、リカの身が危険に陥らないようくれぐれも注意してほしい、と言い含めた。
あれから今日に至るまで、大きな進展はない。〈VERITE〉の艦は常に移動している。そのうえ、ステルスシールドを起動しているらしく、ACUのレーダー探知から逃げおおせており、現在位置をなかなか捉えることができないのだ。
リカのマインド・ダイブは、肉体から離れれば離れるほど、彼女が被る心身的負担が増えてしまう。それでもリカは、この一週間、毎日エスパスに潜行しているという。
一度エヴァンのパルスと接触したおかげか、エヴァン――今はラグナだが、彼の近くまで跳ぶこと自体は、肉体との距離に関わらずたやすくなっているらしい。
しかしラグナのパルス能力は、リカやエヴァンより強く、エヴァンに呼びかけようとすると、撥ねのけられてしまうのだという。
これ以上、リカに無理を強いることはできない。レジーニはいったんマインド・ダイブによる接触をやめ、充分な休息をとるよう、リカに言った。こちらでも対応策を講じている、今は当てができた、と。
考え事をしながらランチを口に運んでいると、いつの間にやら完食していた。
レジーニが食べ終えるのを見計らって、ドミニクが食後のコーヒーを出してくれた。
「エヴァンほどうまく淹れられないのですが」
苦笑する彼女に、レジーニは一口飲んで微笑んだ。
「そんなことはない、美味しいよ」
「ありがとうございます」
ドミニクが笑みを返す。
そのとき、レジーニの携帯端末の着信音が鳴った。相手はママ・ストロベリーだった。
『今日、動きがあるわよ。すぐ行動してちょうだい』
緊迫した声色で短く伝えるストロベリーに、わかったと返し、電話を切る。
顔を上げると、察したドミニクが、顔をこわばらせてレジーニを見ていた。
レジーニは浅く頷く。
「行こう」




