TRACK-3 烽火を上げよ 3
水中から浮き上がるような目覚めだった。
喘ぐように口を開き、荒い呼吸を何度か繰り返す。鼓動が激しく、心臓はどくどくと音を立てている。視界は真っ白だった。
エヴァンは目だけを動かして、あたりの様子を伺った。
「ここは……どこだ?」
仰向けの姿勢になっていることはすぐに理解できたが、自分の身に何があってこうなったのかは思い出せない。
ゆっくりと上半身を起こす。頭がふらりと揺れた。めまいが治まってから、改めて目を開ける。
「なんだこの格好。俺いつの間に」
エヴァンは着慣れた私服ではなく、セパレートの病衣を身につけていた。着替えた覚えなどない。
まだはっきりとしない脳味噌をなんとか働かせて、思い出せるだけの記憶をたぐり寄せた。
「えっと、たしか今日は日曜日で、アルとデートするから出かける準備してて……。それから……」
そうだ。デートのために服装もキメたのに、こんな病衣など着せられている。まことに遺憾である。
「ああ、そうそう。アルを迎えに行こうとしてたんだ。そんで」
そのとき何かしていた。テレビを見ていたのだった。
部屋を出るのでテレビを消そうとして、
電話が――。
「電話が鳴ったから、出て……。それから、どうしたっけ?」
記憶はそこでぶっつりと途切れている。誰からの電話だったかも覚えていない。
エヴァンはしばし頭を悩ませ、どうにか思い出そうとした。が、まったく何も出てこないのであきらめた。
そのうち思い出すかもしれないので、それよりは今の状況をどうにかすべきだろう、と思考を切り替えた。
だいたいにしてここはどこで、どうして病衣など着せられているのか。
もしやと思って両耳に触れた。右に三つ、左に五つ嵌めていたはずのピアスがない。
「クッソ、なんだよ! ピアスまで無えじゃねーか! 誰だ取った奴! ぶん殴ってやる!」
お守りのつもりで毎日着けている赤いピアスは、アルフォンセがプレゼントしてくれたものだ。高い技術によって作られたガラス加工品で、八つのうち二つは本物の赤瑪瑙である。
服はまだしも、大切なピアスにまで手を付けられては許せない。誰の仕業か知らないが、何としてでも取り返さなければならない。
そのとき、エヴァンはもうひとつの重大な事実に気がついた。
「ちょっと待てよ。こんな変な所にいたら、アルとデート出来ねえじゃん! やべーよ、もう迎えに行かなきゃなんねーのに!」
よくわからない出来事のせいで、可愛い彼女との甘い時間を潰されるなど冗談ではない。
エヴァンは憤然と立ち上がり、周囲をぐるりと見回した。
「なんだよ、この部屋。何にも無え」
文字どおり、何もない空間だった。
真っ白な四角形の部屋である。三方は白い壁、残る一方は全面のガラス張り。ガラスの向こうは闇一色。それ以外には何もない。ベッドや家具類、家電などは一切なく、ラグマットすら敷かれていなかった。
ガラス壁に歩み寄り、外を窺おうと顔を近づける。夜なのかと思っていたが、闇が濃すぎて外光はおろか、明るい一等星の瞬きすら確認できない。
「何にも見えねえ。ひょっとして地下室なのか?」
目を凝らしてみるも、景色らしいものは見当たらない。
エヴァンは壁際を左回りに歩き出した。この部屋の正体を明らかにする手がかりがないか探すためだ。だが、壁にはわずかな傷もシミもなく、まっさらだった。
ガラス壁の向かいの壁を調べ始めたとき、ドアがあることに気がついた。ドアも真っ白なせいで、壁と同化しているように見えていたのだ。
これで出られる。エヴァンはドアノブを掴んで回し、押した。
開かない。次に引いてみた。やはり開かなかった。
ガチャガチャと音を立てながら、何度もドアノブを回して、押したり引いたりしてみたが、うんともすんとも言わない。
「くそっ、鍵がかかってんのか」
それなら壊して開けるまで。マキニアンの腕力の前には、鍵などあってないようなものだ。
エヴァンはドアノブを握り直し、思い切り引っ張った。
ドアは、微動だにしなかった。
「え、嘘」
簡素な見た目に反して、頑丈なドアだったのかもしれない。今度はもっと力を込めて引いた。だが、やはりびくともしなかった。
実はスライド式なのかと思って、横にも引いてみた。持ち上げようとしてみたり、逆に下へ降ろそうともしてみた。正面蹴りやら回し蹴りやらも食らわせてみた。
それでもドアは開かなかった。
「金庫のドアかよ。頑丈にもほどがあるだろ」
マキニアンの膂力をもってしても歪みすらしないドアに、呆れを通り越して敬意すら覚える。
こうなれば最後の手段だ。エヴァンはドアに向かって指を差した。
「俺とマジで張り合おうってんだな。いいぜ、受けて立ってやる。後悔すんなよ。俺は“燃やす”担当だぞ」
押しても引いても蹴っても駄目なら、焼き払うしかない。
エヴァンは両手を握りしめ、細胞装置〈イフリート〉を起動させるため、意識を腕に集中させた。
ところがどうしたことか、何の変化も起きない。本来ならば、ものの数秒で細胞装置が起動し、赤い鋼鉄の両腕に変形するというのに。
エヴァンは手のひらをまじまじと見つめた。皮膚は通常状態のまま、爪の先さえ変わっていない。
「なんだよ……、どういうことだ?」
もう一度、〈イフリート〉を起こそうと試みる。けれども、いつもなら細胞装置起動時に感じる、全身に力がみなぎっていく感覚や、心身が燃えるような高揚感が湧いてこない。
オートストッパーが発動しているときでさえ、細胞装置の存在はしっかりと把握できるのに。
力よ起きよと、強く意識を傾けても、細胞装置は一切動かなかった。自慢の炎の拳が現れない。何度試しても無駄だった。
こんな感覚は初めてだ。当たり前にあると思っていた力が、今はもうそこにないのだ。
「何だってんだよ! ちくしょう!」
苛立ちにまかせてドアを殴りつける。ドアはやはり小揺るぎもせず、粛然とそこに立ち塞がるのみだ。エヴァンの渾身の抵抗や怒りなど、このドアの前には、赤ん坊のひと触れ程度のものだろう。
そのときエヴァンは、自分が今いかに無防備で不安定な状況に陥っているのかを、急に痛感した。
どこなのかわからない何もない部屋に、戦う力を封じられた状態で閉じ込められ、しかもなぜこうなったかの記憶もないのだから。
楽観主義のエヴァンだが、さすがに途方に暮れてしまった。何をどう対処すればいいのか、まったく見当もつかない。
こんなとき、レジーニがいてくれれば……。
皮肉と嫌味と暴言を惜しげもなく浴びせつつも、とるべき行動を示してくれただろう。
「やべえ……、どうすりゃいいんだ、これ」
答えてくれる相棒はいない。エヴァンは独り、真っ白な部屋に立ちつくした。




