TRACK-3 烽火を上げよ 1
アルフォンセは自分が今、住み慣れた街と陸を離れ、遠く外洋に停泊する空母級の船の上にいることが信じられなかった。
空の青と海の蒼の狭間に漂う、巨大な鉄の要塞。いったいどれほどの権力と資金力があれば、海軍もかくやという大規模な船を所有できるというのだろう。
吹きつける冷たい海風と、どこにも逃げ場がないという絶望感で、身も心もすくんでしまう。
なにより悲しみに苛まれる理由は――。
アルフォンセは前方を歩く青年の背中を、愁然たる思いで見つめた。
愛する恋人の姿をしながら、彼ではない何者かに変貌してしまった、その背を。
彼は海の要塞に到着するまでの間、一度もアルフォンセを顧みることはなかった。
エヴァンはそこにいないのだという、残酷な現実を突きつけられているようで、しかしそれでも、彼から目を逸らすことができなかった。
正体不明の集団の車に乗せられ、連行されたのはどこか――おそらくは第八区――の港。そこからは船ではなく、大型のヘリコプターに乗せられた。
ヘリには、アルフォンセに「車に乗れ」と命じたブルートパーズの瞳の女性と、車に先に乗り込んでいた男、そしてエヴァンが同乗した。飛行中は、誰も口を利かなかった。
エヴァンのことで頭がいっぱいだったアルフォンセだが、同乗する男のことも気になっていた。
ウェーブのかかった長い髪に、自分と同じ深海色の瞳をした男を、どこかで見かけたような気がするのだ。テレビか映画のスターに似ている? その可能性はありそうだが、何か違う。
無表情というよりは険しい顔つきで、目に映るものすべてを睨みつけている印象だ。端麗な容姿と隙のなさそうな雰囲気は、レジーニに近いものを感じる。
男は心なしか、常にアルフォンセの近くにいるように見受けられた。逃げ出さないよう見張っているのだろうが、こんな大海原まで連れて来られては、もう逃げようがない。
ヘリから降ろされ、広大な甲板を歩くよう指示されたアルフォンセは、おとなしく従った。
途中、急にエヴァンが立ち止まり、しばらく動かなくなった。
「戻れ」
そう呟いたのが聞こえたものの、何を意味するのかはわからなかった。
男が苛々した口調でエヴァンに声をかける。
「止まるな、早く行け」
エヴァンは男の命令に対し、答えるでもなく頷くでもなく、無言のまま歩き出した。その態度が気に入らなかったらしい。男の小さな舌打ちが、アルフォンセの耳にも届いた。
船内に続く扉が開き、二人の男が護衛とともに甲板に出てきた。
一人はシナモンブラウンの短髪に群青の瞳の持ち主だった。ロングコートをたなびかせながら、きびきびした足取りで歩いてくる。顔つきはいかめしく、眼差しも猛禽類のように鋭い。苛烈そうな性格が窺えた。
だがその男以上に、近づきがたい空気を漂わせていたのは、もう一人の方だ。
その男は、顔のほとんどを、凹凸のない黒い仮面で覆っていた。左下だけむき出しになっているので、口の端がわずかに覗く。軍服に似た黒い衣装で全身を固め、時代錯誤なマントを羽織っている。軍人然とした雰囲気をまとい、ただそこにいるだけでその場を圧倒するような存在感を放っていた。
アルフォンセは一目見て、仮面の男に恐怖感を抱いた。思わず足を止め、後ずさりしそうになる。
二人の男は、アルフォンセたちの前で足を止めた。深海色の目をした男が進み出る。
「戻りました。状況問題ありません」
ここへきて、男の声を初めて耳にした。
仮面の男が頷く。
「ご苦労だった」
口調に抑揚はなく、取り立てて大きな声でもないのに、一語一句はっきりと聞こえる。いや、聞き漏らすことができない、そんな気持ちにさせる声だった。
仮面の男が、エヴァンの方に顔を向ける。そして、わずかに見えている左の口の端に、薄い笑みを浮かべた。
「よく戻った、ラグナ」
アルフォンセの心臓が、どきりと跳ね上がった。今はっきりと、仮面の男はエヴァンを“ラグナ”と呼んだ。さも当然のように。
ラグナと呼ばれたエヴァンは、言葉では応じなかったが、うやうやしげに会釈を返した。そうするのが当たり前のように。
(いいえ、その人はエヴァンよ。ラグナじゃない)
そう言いたいのに、声が喉に詰まったように出てこない。
シナモンブラウンの髪の男が、ふん、と蔑むように鼻を鳴らした。深海色の瞳の男も、険しい表情を解かない。二人とも、ラグナという存在を快く思っていないらしい。ブルートパーズの女性だけは、何の感情も滲ませていなかった。
仮面の男が無言で踵を返すと、エヴァン――ラグナは彼について歩き出した。あまりにも自然に従う姿に、アルフォンセはたまらなくなって、ついに声を張り上げた。
「待ってエヴァン! 行かないで!」
駆け寄りそうになったところを、深海色の瞳の男に引き留められた。
仮面の男が足を止め、振り返る。ラグナも立ち止まったが、背を向けたままだった。
黒く平坦な仮面が、じっとアルフォンセを見つめる。目が隠れていても、なぜか視線を感じた。ぞくりと背筋が凍りそうな、ぬくもりのない視線を。
マントを翻し、仮面の男がアルフォンセの前に立つ。
「私としたことが、君への挨拶を怠るとは。申し訳ない」
心なしか、幾分柔らかい口調でそう言うと、仮面の男は胸に片手を当て、会釈をした。
「我らが〈VERITE〉の拠点のひとつ、〈ヴィスキオン〉へようこそ、フェルディナンド・メイレイン博士のご息女。お初にお目にかかる。私はディラン・ソニンフィルド。かつて〈SALUT〉を率いていた者だ。君の御父上には、大いに敬意を表する。我々の存在は、彼と彼の同志であるアンドリュー・シャラマン博士の功績あってこそ。どうか私の謝意を、御父上の代わりに受け取ってほしい」
「私……、私は」
ソニンフィルドの存在感に気圧されたアルフォンセは、声を震わせながらも、どうにか思いを言葉に変えた。
「私は、うちに帰してほしいだけです。エヴァンと一緒に」
初対面のはずの男が、どうして自分の素性を知っているのか、それはこの際どうでもよかった。
ただ、ここから逃げ出したい。エヴァンを元の彼に戻して、一緒にサウンドベルに帰らせてほしい。願うことはそれだけだった。
「健気なお嬢さんだ」
ソニンフィルドが、アルフォンセの震える肩に手を置いた。
「だが、彼はエヴァンではなく、ラグナ・ラルス。帰るべき場所はここだ」
アルフォンセは、その言葉を否定するため、弱々しくもはっきりと首を横に振る。それでも、ソニンフィルドの態度は変わらなかった。
「少し休むといい、ミズ・メイレイン。後ほど仲間たちに紹介しよう」
「で、ですから……ッ」
「いずれ君にも理解できよう、ラグナが存在する意味を。そして、君がここに来た理由も」
「え……?」
それはどういうことだろう。
様々な疑問と感情がアルフォンセを翻弄する。ソニンフィルドは、そんなアルフォンセを尻目に、ラグナを連れて船内に入っていった。
そのあとに、シナモンブラウンの髪の男と、ブルートパーズの女性が続く。残されたのは、アルフォンセと、深海色の瞳の男だった。
「お前はこっちだ」
その男に促され、アルフォンセは呆然としながらも、彼のあとについていった。そうするしかなかった。
甲板から船内へ移動し、どういう順路をたどったかはわからない。目隠しすらされなかった。道順を覚えられたところで脱出などできまい、と高を括っているのだろう。悔しいが、実際そのとおりだ。
男は船室のひとつにアルフォンセを連れて行き、自動ドアを開けた。
「入れ」
ここで逆らっても意味はないので、おとなしく従った。
船室は、人質に与えられるような類のものではなかった。むしろ、アルフォンセの立場には過ぎるくらい、広くて設備が整っている。
セミダブルのベッドが一台、センターテーブルにソファ、壁際には書き物机、チェスト、作り付けのクローゼット。ドレッサーまである。奥のドアはおそらくバスルームだ。
清潔なカーテンがかけられている窓からは、明るい外光が射し込み、ガラスの向こうに雄大な海原と青空が見える。
無理やり連行した人間にしては、あまりに好待遇だ。相手の狙いを測りかね、アルフォンセは戸惑うばかりだった。
「〈ヴィスキオン〉ではこれが精一杯だ。不自由がないよう計らうが、何か不便があれば言え。ただし、ここから出せ、という要望以外でな」
男がそんなことを言うものだから、アルフォンセはますます面食らった。
「あの……、私は人質か何かじゃないんですか? どうしてこんな……」
これではまるで客人だ。
男が皮肉めいた笑みを浮かべる。
「人質などであるものか。ようやくお前を迎えに行くことができたというのに」
「え……?」
「ラグナ・ラルスの回収という名目だったが、俺にしてみればラグナがついでだ。俺はお前を迎えにきたんだ、アル」
名前を呼ばれて、アルフォンセの首筋がきりりと強張った。どうして私の呼び名を。そう問おうとしたとき、男が立ち位置を変え、真正面から向き合うかたちになった。
自分と同じ深海色の瞳が、まっすぐに見つめてくる。さきほどから感じていた既視感が、徐々に実態を伴っていく。
「十年、いや十一年か。長かったよ、ここまで」
それまで険しかった男の表情が、ゆるりとほどける。眉間に刻まれていたシワが消え、口元の笑みも優しげなものに変わった。
「ずっと一人にしていてすまなかった、許してくれ」
その瞬間、アルフォンセの脳裏で、様々な思い出が溢れ出した。幸せだった子どもの頃。早くに亡くなった母と、父。何不自由なく暮らしていた、あの頃。
ずっとそばにいてくれていたのは――。
「そんな……」
死んだと思っていた。あの大惨事に巻き込まれ、遺体も見つからず、最期の別れもできないまま。
男の手が、アルフォンセの頬に触れる。手袋をはめているが、ぬくもりは伝わってきた。
「綺麗になったな、アル。母さんにそっくりだ」
「ジーク……兄さん」
幼い頃、いつもそばにいてくれた兄のジークヴェルヌ。父譲りで賢く、妹に優しかった兄。
「本当に、兄さんなの?」
震える声で確かめる。視界が潤んでぼやけた。
「ああ、俺だよ」
兄はアルフォンセを抱き寄せ、アルフォンセもまた、しっかりと兄を抱き締めた。




