TRACK-2 火の消えた街 9
ラボへ移動しながらヒルダが連絡を入れたおかげで、研究室に辿り着いたときには、スタッフたちが準備を整えていた。
リカのパルス能力の研究・開発のために用意された研究室だ。勤めるスタッフは、ヒルダの人選によって集められた信頼できる精鋭である。
スタッフは女性が二人、エンジニアのオキーフと看護師のモーゼス。そして男性オペレーターのへリングの三人だ。
研究室の内装は白と薄水色で統一されている。ヒルダやスタッフたちのデスク、コーヒーメーカーの置かれたカウンター、ファイルキャビネット、様々な機材。それらに囲まれながら最も存在感を放つのが、部屋の中央に据えられた一台の装置だ。
リクライニング式の椅子と、それをすっぽり包む白い半円型の天蓋。そのフォルムは、さながら真っ二つにされた卵のよう。
この卵が、リカを精神世界の海に誘う装置〈揺り籠〉である。
実験によく付き添ってくれるガルデは見慣れているが、グローバー中佐は初めて研究室を訪れたので、やや物珍しげに〈ベルソー〉を眺めていた。
オキーフが装置の調整を終え、親指を立てた。それを受け、コンソール前に座るヘリングが告げる。
「〈ベルソー〉コンディション良好です」
それぞれの合図を確認したヒルダが、振り返って尋ねた。
「OK。そっちの用意はいい?」
リカは頷き、〈ベルソー〉に歩み寄った。
身につけているのはTシャツとショート丈のランニングパンツのみ。マインド・ダイブの際は、心身ともにリラックス状態で臨むため、身体を圧迫しないよう、衣類も最小限にとどめる。
〈ベルソー〉の座席に座ると、看護師のモーゼスがリカの身体の各所にコードを付けていく。このコードは〈ベルソー〉に内蔵された生体情報システムに繋がっており、ダイブ中のリカの心電図や心拍数、体温、血圧等のバイタルをリアルタイムで測定する。記録はモーゼスのタブレット端末に逐一送信され、リカに何らかの異常が起きた場合、アラームが鳴って危険を知らせるのだ。
オキーフとへリングが〈ベルソー〉の準備をし、モーゼスがリカにコードを付ける。いつもの実験と同じ段取りだ。すっかり慣れたルーティーンだが、今回は緊張感の度合いが違う。
エヴァンの居場所を見つける。自分にしかできない重大な役割だ。責任感と失敗への恐れで心臓が縮こまりそうになる。
エヴァンとアルフォンセを拐した〈VERITE〉の拠点が、陸からどれほど離れているのかわからないが、かなりの距離があろうことは想像に難くない。おそらく、これまでの実験以上の長時間をダイブしなければならないだろう。
長時間のマインド・ダイブに、どこまで体力と精神力が持ちこたえられるか。自分の限界がどこまでなのか。もし失敗したら――。
「顔が硬いわね。大丈夫?」
リカの張りつめた空気を察したのか、モーゼスが優しく声を掛けた。
「大丈夫。ちょっといつもより緊張しちゃって」
「無理もないわ。言ってみれば、これはあなたにとって初めての“任務”だもの。でも安心して。私たちが全力であなたをサポートするから。いつものようにやればいいのよ」
「うん。ありがとう」
モーゼスが励ますように、肩に手を置いた。リカは微笑んで、看護師の気遣いに応える。
リカがラボに身を寄せ、この部屋で実験を始めた初日から、ヒルダと三人のスタッフは、リカに友好的だった。パルス能力者への好奇心もあっただろうが、それ以上に親身になって接してくれたのだ。彼女らに対する信頼は、もはや揺るぎない。
「〈ベルソー〉スタンバイ」
へリングの声ともに、〈ベルソー〉の座席がゆっくりと倒れる。リカはヒルダとグローバー中佐、そしてガルデを順に見た。
ガルデは東雲色の瞳で、まっすぐリカを見つめて頷いた。
必ず見つけてくれ、頼むぞ。そう言われた気がして、リカもまた頷き返した。まかせて。
座席の傾きが止まり、ヘッドの側面からバイザーが現れリカの目を覆う。外光をシャットアウトし、集中力を高めるためだ。
「マインド・ダイブ、準備完了」
再びヘリングの声。
リカは、大丈夫きっとやれる、と自分に言い聞かせ、
「いきます」
短く宣言し、目を閉じた。
ゆっくりと深呼吸を繰り返す。息を長く吸い、長く吐く。
全身から徐々に力が抜けていき、頭がふわりと浮くような、不思議な感覚に包み込まれる。
やがて音が遠ざかり、眠りにつく直前に似た浮遊感がやってくる。
閉じた瞼の裏で、チカチカと光が瞬き始める。
起き上がって光を追うイメージを思い描く。
するりと何かから抜け出し、解放感に満たされる。
そのまま光に向かって、どんどん浮上する。
目を開けたとき、リカは研究室の天井付近を漂っていた。
眼下に見えるのは〈ベルソー〉に横たわる自分自身。傍らでタブレット端末を抱えるモーゼス。コンソールで〈ベルソー〉を制御するヘリング。その周辺に集まるヒルダ、ガルデ、グローバー中佐、オキーフ。
誰ひとり、天井に浮かぶリカに気づかない。いや、そもそも視えないのだ。
マインド・ダイブは成功だ。
(よし、順調)
リカは今、世界の精神面を泳いでいる。エスパスと名付けられたこの空間において、リカを縛るものは何もない。物質や重力の影響もない。まさしく、自由だ。
リカは身をひるがえして、研究室の壁をすり抜けた。ラボ内の部屋をいくつも通り過ぎ、建物の外に出る。
エスパスは世界の精神面とはいえ、その形容自体に変化はない。通常の目で見ているとおりに、しかしながら、通常では体験し得ない領域から、リカは世界を眺めることができる。
今はラボの屋上を超え、地上から五十メートルほどの位置で漂っている。訓練を積んできた結果、この高さまで浮くことができるようになった。マインド・ダイブに入る間隔も、少しずつ短くなっている。
(さあ、行くわよ)
エヴァンを見つけ出したいと強く念じながら、水中を泳ぐようにエスパスを移動する。
〈ベルソー〉なしでダイブしたときのように、自分からアンテナが延びているイメージを持ち、エヴァンのパルスの残滓を探る。
まだ何も感じられない。
エヴァンたちは海に出たと考えられている。海を目指そう。
あちこちに光る霧の塊がたゆたっている。リカはかつてそれを〈輝く霧〉と呼んでいた。正式にはモルジットと呼ぶのだと知ったのは、つい最近である。リカは肉眼でモルジットを捉えることができるが、その機能については、長らく無知のままだった。
エスパスでは、モルジットがよりはっきりと視える。そのおかげでわかったのは、モルジットは肉眼で視えていた以上に、大量に存在しているということだった。
人類が気づいていないだけで、世界は――少なくともアトランヴィル・シティは――不気味な光に侵食されてしまっていたのだ。
リカはモルジットの集合体を探して、エスパスを泳ぎ続けた。ラボから離れるにつれ、肉体の束縛からの解放感が増していく。あまりに遠くへ行きすぎたら、いつか身体に戻れなくなるのではないか。一瞬そんな考えが脳裏をよぎり、慄いた。
(だめ。今はエヴァンの居場所を突き止めることに集中しないと)
余計な考えは捨てなければ。無駄な不安は、マインド・ダイブに必要な平常心を損ねてしまう。
だが一方で。マインド・ダイブを重ねていくうち、肉体という枷を解かれ、エスパスを自由に飛び回るのが、だんだん心地いいと感じられるようになったのも事実だった。
この空間こそ、自分本来の居場所なのではないか。時おり、そんな危うい錯覚に陥る。
マインド・ダイブは役に立つ反面、己の身に危険をもたらすおそれもあることを、リカは常に念頭に入れておかねばならなかった。
街の上空を飛び、森を超えたところで、ひときわ輝きの強いモルジットの塊を発見した。
(あれは……)
かなり規模の大きな塊だ。ユスリカの蚊柱、あるいはムクドリの群れよろしく形を変えながら、南西に向かって移動している。
モルジットは往々にして、このような大きなうねりを形成することがある。それは、あたかも海流に似た流れを生み、周囲のモルジットを巻き込んで、どんどん大きくなる。だが、見かけるのはごくまれだ。
エヴァンの居場所の手がかりになるだろうか。リカは慎重にモルジットに近付いていった。
一定の距離を空け、しばらく平行していると、突然モルジットのうねりが活発化し、流れの速度が上がった。
塊の一部がリカの方へ伸びてくる。
(だめ! 来ないで!)
霧の塊を遠ざけようと強く念じたが、リカの意志よりもモルジットのうねりの方が早かった。
輝く霧がリカの精神体の端に触れた瞬間、抗う暇もなくモルジットの海流に飲み込まれた。
モルジットの濁流の中、上へ下へ、もみくちゃにされながら、恐るべき速さでどこかへ運ばれていく。なんとか脱出しようともがいても、まるで歯が立たない。恐怖で我を失いそうになる。
精神体に異常が発生したら、肉体にも影響が及ぶ。おそらく今頃、リカのバイタル異常を検知した〈ベルソー〉が、不穏なアラームを鳴り響かせているはずだ。
だが研究室のみんなに、こちらから助けを求めることはできない。リカが自力で肉体に戻らない限り、マインド・ダイブは中断できないのだ。
(落ち着いて、なんとか流れから抜け出ないと!)
パニックを起こさないよう、必死で自分に言い聞かせる。もう一度、モルジットに働きかけるのだ。
と、そのとき。リカは唐突に流れの中から、勢いよく弾き出された。空中をぐるぐる回転しながら遠く飛ばされ、ようやく停止したころには、モルジットの海流からかなり離れてしまっていた。
精神体の利点は、肉体なら受けるはずの物理的負担がかからないことだ。あれだけもみくちゃにされながら、リカは目を回してもいなければ、息があがってもいない。もっとも研究室にある肉体には、精神体にかかった負担が反映してしまうのだが。
(なんだったの、今のは)
リカは、いずこかへ去っていくモルジットの塊を見つめた。今や遠く離れたモルジットの流れは、西の方角へ向かっている。
(ここはどこ……)
冷静さを取り戻して周囲を見てみれば、眼下には濃く澄んだ青い海が広がっていた。どんなに目を凝らしても、水平線上に陸地が見えない。とんでもない距離を運ばれてしまった。
(どうしよう……。こんなところまで来て、研究室に還れるかしら)
これまでのダイブ距離を一気に更新してしまったようだ。こんな事態だからこそ冷静にならなければ。ともかく、いったん陸地に戻った方がいいかもしれない。
来し方へ精神体の向きを変えようとしたとき、視界の端で何かを捉えた。
そちらを振り返る。太陽の光を反射して、ダイヤの粒を散らしたようにきらめく大海原に、一隻の巨大な船が浮かんでいた。
船というよりは軍艦――空母並みの規模だ。軍用艦ならば、艦体の側面に必ず海軍のシンボルが描かれているはずだが、見当たらない。軍部のものではないのだろうか。
(ひょっとして、この船が……)
リカは船に向かって、そろそろと降下していった。物質世界の精神面であるエスパスにいるリカの姿が、生身の人間に視えることはない。それでも、気付かれないようにと動作がゆっくりになってしまうのは、本能的な心理のせいだろう。
大学の運動場の何倍もありそうな広大な甲板に、一基の大きなヘリコプターが着陸している。搭乗していた人間たちがヘリコプターを降りてくる。その中に、見覚えのある人物が二人混ざっているのが確認できた。
短い金髪の男と、華奢なシルエットの女。
(見つけた、エヴァン! それにアルもいる!)
金髪の男は、まごうことなくエヴァンだった。アルフォンセも無事のようだ。ということは、この空母のような船は、〈VERITE〉が所有するものなのだろう。
なんとか見つけられた。目的を果たせたリカは、ほっと胸を撫でおろした。
だが、すぐに様子がおかしいことに気づく。エヴァンが一向に、アルフォンセを気遣うそぶりを見せないのだ。それどころか、彼女など眼中にないとでも言わんばかりに、どんどん先に進んでいくのである。
(エヴァンがアルを無視するなんて……。やっぱり今は、ラグナと人格が入れ替わってるの?)
リカは甲板を歩く人々の頭上近くまで降下した。他の人間には視えなくとも、エヴァンだけはリカの存在に気づくはずだ。
足早に歩く金髪の後ろ姿に呼びかける。
(エヴァン、私よ! エヴァン!)
しかし、エヴァンは振り返らなかった。リカの声が聴こえていないとは思えない。無視しているのか。
リカが知るエヴァンの態度ではなかった。嫌な予感が押し寄せ、リカは何度もエヴァンの背中に呼びかけた。呼びながら、徐々に彼との距離を詰めていく。
すると、エヴァンが突然足を止め、くるりとリカの方を振り返るや、リカの首の下に手を当てた。
エスパスを泳ぐ精神体のリカに触れるなど、いくらパルス能力者であっても不可能だ。当人もエスパスにいない限り。
つまり、リカに触れているのはエヴァンの精神体だ。ほんの一瞬のうちに、マインド・ダイブと同様に精神体となったのだ。
エヴァンにこんなことができるなんて――いや、これは、エヴァンじゃない。
リカは恐れおののきながら、エヴァンをまじまじと見た。なじみのある顔立ち。なじみのある緋色の目。だがその顔に表情はなく、その瞳に温かみはなく。吊り上げた三白眼が、冷ややかにリカを睨んでいる。
「戻れ」
エヴァンの口が薄く開き、短い言葉が告げられた。
とん、と首元を押されたような気がした刹那、リカの意識は闇に落ちた。
※
目覚めたとき、真っ先に視界に入ったのは、ヒルダとガルデの顔だった。
「リカ! よかった、なかなか目を覚まさないから心配したよ!」
心底安心した様子のヒルダが、文字通り胸を撫でおろす。ガルデもリカの身を案じてくれていたようで、大きく息を吐いて肩の力を抜いていた。
マインド・ダイブから還ってきたらしい。リカは照明の眩しさに目を細めつつ、二人に謝った。
「ごめんなさい……心配かけて」
背中から伝わる感触から、どうやら〈ベルソー〉の中ではなく、研究室の隣にある、医務室のベッドに寝かされている、と察せられた。
「ヒルダ先生、私、どうなったの?」
喉がからからで、枯れかけた声しか出せない。
「かなり長い距離を飛んだみたいだね。急に心拍数に異常が起きて、体温低下もひどかった。本当に危ういところだったよ」
看護師のモーゼス曰く、精神体があまりに遠く離れすぎたため、肉体の生命維持能力に悪影響が出たのだろう、とのことだった。
魂が身体から長く抜け出していると、戻るのが困難になる。今回、これまでの訓練を超えた距離と時間をマインド・ダイブしたせいで、心身共にキャパシティオーバーしたのだろう、というのがヒルダの見解だった。
ガルデも頷きながら、ヒルダの話を聞いていた。
「このまま目覚めなければ、君はエスパスに留まったままになるかもしれない、なんてヒルダ先生が言うから、俺はもう……どうしようかと……」
ガルデは肩を震わせ、今にも泣き出しそうに、東雲色の目を潤ませた。ヒルダはそんな彼の肩をばしんと叩き、さっぱりと言い放つ。
「もうめそめすするのはやめな。こうして無事に還ってきたんだから。あんたが泣くとなんでか室温が上がるんだよ」
「俺はエヴァンとレジーニから、嫁入り前のお嬢さんを預かってるんですよ! なのにリカに何かあったら、俺は二人に顔向けでぎまぜんッッ!」
「はいはい、もういいから落ち着け、うるさい」
――エヴァン。
その名を耳にした途端、ダイブ中の記憶が鉄砲水のように押し寄せ、リカの鼓動が早くなった。
身体のだるさを押して、かすかに震える上半身を起こそうとする。ヒルダが慌ててそれを制した。
「だめよ、まだ寝てな。モーゼスもそろそろ戻ってくるだろうから、よく診てもらって」
「先生、ガルデ。エヴァンを見つけたわ」
「本当かい!?」
目を見開くガルデに、リカは小さく頷く。
「ここからずっと南の海。空母みたいに大きな船の上。ヘリコプターで移動したのよ。アルもいたわ。でも……」
首の下あたりに手を当てる。そこは、エスパス内にいたにも関わらず、彼に触れられた箇所だ。
「あれは、エヴァンじゃない」
マインド・ダイブで起きた出来事を思い出しながら、リカは繰り返した。
「エヴァンじゃなかった」




