最終話 繋がる声、繋ぐ意志
1
イタリア戦での惜敗から3日。日本代表は決勝ラウンドの最終戦、アジアの宿敵であり、変幻自在の高速バレーを武器とする韓国代表との大一番を迎えていた。
実況席の天海うららは、驚くほど冷静だった。
手元の資料には最低限の数字だけ。代わりに彼女の目を引いたのは、ウォーミングアップをする選手たちの「表情」だった。特に東條美咲は、イタリア戦の敗北を経て、どこか吹っ切れたような柔らかい笑みを湛えている。
試合は序盤から、両者一歩も引かない激しいラリーの応酬となった。韓国の変則的なコンビネーションに翻弄されながらも、日本はリベロを中心に驚異的な粘りを見せる。
「拾う、繋ぐ、耐える! 泥臭く泥臭く、日本がボールを繋いでいきます!」
うららの声は、すでにスタジアムの熱量と同調していた。ボールの行方を追うだけでなく、選手たちが交わす視線、次に跳ぶスパイカーへの「無言のメッセージ」が、うららにははっきりと見えていた。
しかし、第4セット終盤、アクシデントが日本を襲う。
韓国の強烈なスパイクをレシーブしようと飛び込んだセッターが、味方と交錯して激しく床に倒れ込んだのだ。立ち上がれないセッターを見て、タイムアウトが要求される。騒然とする場内。
「セッターが負傷交代……! 日本、ここで司令塔を失うという最大の試練です」
うららの声に悲壮感が混じる。代わって入るのは、今大会初出場となる若い控えセッターだった。緊張でガチガチに震える彼女の背中を、美咲がそっと叩くのが見えた。
2
運命のファイナルセット。14対14のデュース。あと2点連取した方が勝つ。
緊張の糸が張り詰める中、韓国のサーブが日本のコートへ突き刺さる。交代したばかりの若いセッターに向けて放たれた、狙い済ましたサーブ。
「狙われた! 必死にレシーブを上げる! ……しかし、トスが乱れる!」
セッターの上げたボールは、焦りからかネットに近すぎる、完全に壊れたトスになった。相手の巨大なブロックが2枚、完全に待ち構えている。万事休すか。誰もがそう思った瞬間、バックアックから猛然と走り込んでくる影があった。
東條美咲。
彼女は、アンダーハンドでしか打てないような最悪のボールに対し、あえて助走をつけて跳んだ。
(美咲ちゃん、無理に向こうへ打っちゃダメ……!)
かつてセッターだったうららの目には、美咲の狙いが一瞬で理解できた。美咲は決めるためではなく、交代したばかりの若いセッターの「ミス」を帳消しにし、チームをもう一度生き返らせるために跳んだのだ。
「ブロックは2枚! しかし東條美咲、この絶望的なトスに向かって、全力の助走で踏み切った!」
うららは椅子から立ち上がっていた。アリーナ中の視線が、空中の一点に集まる。
「打つのではない! 彼女は繋いでいる! 託された言葉を、繋がらなかった想いを、もう一度コートへ戻すために――!」
美咲は空中で身体をひねり、ブロックの手を狙ってボールを優しく当てた。ワンタッチ。ボールは日本のコート後方へ高く跳ね返る。
「ワンタッチあり! ボールはまだ生きている!」
床に倒れ込みながら、美咲が叫んだ。
「持ってこい!!!」
その声は、マイクを通じてうららの耳に、そしてスタジアム中に響き渡った。
若いセッターの目に、涙混じりの覚悟が灯る。彼女は今度こそ、魂を込めてボールを高く、高く打ち上げた。美しい放物線が、美咲の目の前に広がる。
「今度こそ上がった、完璧なトス! 託す者は一人! 飛べ、東條美咲ーーー!!」
うららの声が、日本のすべてのファンの祈りを乗せてアリーナを突き抜けた。
美咲の右腕が、最高到達点で閃光のように振り抜かれる。相手ブロックの指先を弾き飛ばし、ボールは誰もいないコートの真ん中へドスッと突き刺さった。
――ピィーッ!!!
試合終了のホイッスル。
「決まったアアアアア!!! 日本、韓国に見事勝利!! 最後に決めたのはエース東條美咲! そして、全員で繋いだ奇跡のラリーです!」
歓喜に沸くコートの中で、美咲は若いセッターを抱きしめ、それからゆっくりと実況席を見上げた。美咲は口元を動かし、声にならない声でこう言った。
「――ついてきて」
うららは涙を堪えながら、最高の笑顔で頷いた。
エピローグ
翌日。
うららは誰もいないサブアリーナのベンチで、試合のデータを整理していた。
足音が響き、振り返ると、そこにはユニフォーム姿の美咲が立っていた。
「天海さん」
「東條選手。改めて、おめでとうございます。本当に素晴らしい試合でした」
美咲はうららの隣に腰掛け、ふう、と息をついた。
「昨日の最後のトス、天海さんの声が聞こえた時、不思議と体が軽くなったんです。私のスパイクを『打つんじゃない、繋いでるんだ』って言ってくれた時、ああ、この人は全部わかってくれてるんだって」
「私は、ただ見たままを……バレー部の頃の気持ちを思い出しただけだよ」
うららが照れくさそうに笑うと、美咲は真剣な目でうららを見つめた。
「違います。天海さんの実況は、私たちの背中を押す『7人目のプレーヤー』です。これから世界との本当の戦いが始まります。だから……これからも私の背中を言葉で追いかけて、私を導いてください」
美咲は立ち上がり、右手を差し出した。
うららはその手をしっかりと握り返す。かつて災害報道で「伝えることの怖さ」を知ったうららは、今、スポーツの現場で「言葉が持つ光」を確信していた。
コートの中で戦う者。
そして、コートの外から声で戦う者。
二人の“プレーヤー”の物語は、世界というさらに大きな舞台へ向けて、今、力強く幕を開ける。
完




