第1話 言葉の壁と、孤独なエース
プロローグ
「実況とは、ただ起きていることを描写する仕事ではない。見えないものを、言葉で削り出す作業だ」
元日本代表の解説者、朝倉直人にそう告げられたとき、天海うららはその言葉の真意をまだ理解していなかった。
東京体育館。赤と白のユニフォームがコートを躍動し、何千という観客の歓声が地鳴りのように実況席を揺らしている。女子バレーボール国際大会、日本代表の開幕戦。
国民的アナウンサーとして、これまで数々の災害報道やニュースの現場を任されてきた。どんな修羅場でも冷静に「事実」を伝える自信はあった。しかし、目の前で繰り広げられるラリーの速度は、うららの想像をはるかに超えていた。
「レシーブ上がって、セッター……トスを、あ、左へ、いやライトから――!」
言葉が、ボールのスピードに追いつかない。
息が詰まる。喉が渇く。モニターに映る自分の顔は、緊張で引きつっていた。
「……天海さん、焦らなくていい。ボールを追うな。彼女たちの『呼吸』を見るんだ」
ヘッドセットの向こうから、朝倉の低く冷静な声が響く。
だが、うららの視線は、コートの最前線で圧倒的なオーラを放つ一人の背中に吸い寄せられていた。
日本代表のエース、東條美咲。
彼女が今、鋭い眼差しでトスを見上げ、宙へ跳んだ。
1
ハーフタイム。うららは、プレッシャーに押しつぶされそうな手で資料をめくっていた。
ニュース原稿なら、正確な事実を1分1秒の枠に収めれば合格点だ。しかし、スポーツ実況には台本がない。一瞬で消え去るプレーを、瞬時に言語化しなければならない。
「私の言葉は、ただの『後追い』だ……。これなら、画面を見ている視聴者の方がよっぽど状況をわかっている」
自己嫌悪に陥るうららは、頭を冷やすためにバックヤードの通路へ向かった。そこで偶然、自販機の前に佇む東條美咲の姿を見つける。
「東條選手……」
思わず声をかけると、美咲はビクッと肩を揺らし、振り返った。
コート上での、あの絶対的な威圧感はない。そこにいたのは、ユニフォームの袖をきつく握りしめ、青白い顔で床を見つめる、一人の不器用な少女だった。
「天海、アナウンサー……ですよね。いつもニュース、見てます」
「あ、ありがとうございます。あの、今日のスパイク、本当に素晴らしくて」
お世辞のつもりはなかった。だが、美咲は自嘲気味にふっと笑った。
「素晴らしい、ですか。……みんな、そう言います。エースだから決めて当たり前、って。でも、本当は怖いんです。私が一本落としたら、チームの全員の努力が消える。この右腕に、全員の人生が乗ってるみたいで……時々、トスが上がる瞬間、目の前が真っ暗になるんです」
美咲の手が、かすかに震えていた。
その瞬間、うららの脳裏に、かつて自分がバレー部で白球を追っていた頃の記憶――そして、災害報道の現場で「言葉の重み」に怯えていた自分自身の姿が重なった。
彼女もまた、戦っている。コートという、孤独な戦場で。
「……東條選手。私――」
言いかけた時、後半戦の開始を告げるブザーが鳴り響いた。美咲はハッと表情を引き締め、いつもの「絶対的エース」の仮面を被ってコートへと走っていった。
2
第4セット。日本はマッチポイントを握られ、絶体絶命の窮地に立たされていた。
相手の強烈なサーブが日本陣営を襲う。レシーブが乱れ、セッターは体勢を崩しながらも、執念でボールを高く打ち上げた。
綺麗なトスではない。完全に割れた、厳しいトス。
だが、そこへ飛び込んできたのは、東條美咲だった。
相手ブロックは3枚。美咲の前に、高くそびえ立つ。
(美咲ちゃんは、今、あの暗闇の中にいる――)
実況席のうららは、資料を投げ捨てた。
今、伝えるべきなのは、ボールの軌道ではない。彼女のフォームの美しさでもない。この一打に込められた、彼女の、そしてチームの「心」だ。
うららはマイクを強く握りしめ、お腹の底から声を絞り出した。
「――トスは乱れた! しかし、ここに上がれば、必ず決めてくれる! 日本の誰もが、彼女の背中を信じています!」
朝倉が隣で、小さく目を見開く。
「相手ブロックは3枚! 完全なマーク! ですが、東條美咲は一人ではない! 繋がれた想いをその右腕に乗せて――跳んだ!!」
美咲の身体が最高到達点に達した瞬間、うららの声はスタジアムの歓声を切り裂いた。
「打て、美咲ーーーーー!!」
アナウンサーとしては、完全に一線を越えた、感情剥き出しの絶叫だった。
しかし、その声は、コートの上の美咲の耳に、確かに届いていた。
バチンッ!!!
美咲が渾身の力で振り抜いた腕が、3枚のブロックの隙間を完璧にぶち抜いた。ボールは、相手コートのインサイドへと激しく突き刺さる。
「決まったアアアア!! 決まりました! 土壇場での同点! エースの一撃が、日本を救いました!」
割れんばかりの歓声の中、美咲はコートで拳を突き上げ、そして一瞬だけ、実況席のうららを見上げて、はっきりと微笑んだ。
隣で朝倉が、ヘッドセットを外して小さく拍手を送っていた。
「いい実況だった、天海。お前の声が、最後のエースのひと押しになったな」
3
試合後、誰もいないメインアリーナで、うららは片付けをしていた。
そこへ、着替えを終えた美咲が歩み寄ってくる。
「天海さん」
「東條選手、本当にお疲れ様でした。素晴らしい試合でした」
美咲は首を振ると、いたずらっぽく笑った。
「あのセット中盤、目の前が暗くなりかけたんです。でも、聞こえたんですよ。テレビの向こうに向けてじゃなく、私に向けて叫んでくれた、天海さんの声が。……『一人じゃない』って、言ってもらえた気がしました」
美咲はうららの手をぎゅっと握りしめた。
「次の試合も、私のスパイク、全部言葉にしてくださいね。私、天海さんの声に、ついていきますから」
美咲が去った後、うららは静まり返ったコートを見つめた。
実況席に戻り、マイクのスイッチを見る。
かつては恐ろしかったその機械が、今は愛おしい。
言葉はただの説明じゃない。誰かの背中を押し、共に戦うための「力」だ。
「さあ、次のステージへ行こう」
うららはノートを閉じ、前を向いた。
コートの外のもう一人のプレーヤーとして、彼女の戦いは、ここからまた始まる。




